育太と鳩たち

 九つになったばかりの育太はぽかんと口を開けていた。案外年はとるものだ。以前、叔母が「もう十にもなれば大人よ。だって“つ”がとれるもの」と話していたものだが、もしその通りだとすれば育太はすでに大人の目前に立っているということになる。育太は片手にココアシガレットを煙草にみたて「やってらんねぇや」とひとり、哀愁ただよう男を演じてみせたがなんら変わることはない。十二月の終わり、いまだ子供の姿をしている育太は公園の鳩を目で追っていた。葉のない木々は高く、灰色の空をさしていた。

 育太は片手に五百円硬貨をにぎりしめていた。寒気にさらされた手をゆっくりと開く。硬貨は冬の日差しをうけて鈍い光を放っていた。昼食代である。年末であるにも関わらず、彼の両親は多忙を極めており、息子の面倒をみるがない。育太はのんびりと足を動かしていた。            
ファストフード店の内側は人であふれていた。時計の短針は天上をさしている。喫煙席はわずかに空いているものの、受動喫煙はいかがなものか。育太は小さな頭で思案した、公園のベンチで昼食をとることに決めた。
「やい」
フライドポテトに手をつけて間もなくである。背後から尖り声に呼びかけられ、育太はさっと振り返った。が、そこには鳩が一羽毛繕いをしているだけである。空耳かと思い、チーズバーガーを口へ運ぼうとしたその時であった。
「やい、これ見よがしに食べやがって嫌味な奴め」
今しがたの鳩がさっと育太の足元に舞い降りた。褐色の目できっと彼を睨みつける。育太は思わず硬直し、
「えっあっ」
言葉にならぬ声を漏らした。唇が小刻みに震えてしまう。突如、鳩が飛び上がったかと思うと、今度は育太の肩へ止まった。
「無視すんじゃねぇ」
鳩は続いてクルックーと鳴く。育太は体の力を失い、とうとうチーズバーガーを落としてしまったのであった。
 育太はただ呆然とするばかりである。肩ではしっかりと重みを感じているものの、首を回すことができない。しばらくの、鳩が再びクルックーと鳴くと、遠くの鳩たちが群れをなして飛んできた。そして育太のに降りたかと思うと、口々に言った。

 あぁ
腹がへった
 腹がへって 
 大人しくしてらんねぇや
 クルックー
 
鳩たちは好き放題に歩き回っている。育太の肩に止まっている鳩は、彼らを一瞥し
「黙れい!!」
喝をすると、はしゃいでいた鳩たちはすぐさま居直った。
「すいやせんでした、親分」
青紫のを次々と垂れる。育太はいつの間にか平常心を取り戻していた。
「一体君たちは何がしたいんだ?」
育太がたずねると、
「何がって?そのパンの塊が食べたいのさ!」
鳩たちは砂にまみれたチーズバーガーを口ばしでついと指した。あわれな姿と化したかつての昼食に、育太は少しばかり残念な気持ちにさせられたが、鳥たちを責める気にもなれない。親分鳩は育太の頬を軽くつつき、一つ頼みをした。
「俺らは口が小さくってよぉ。このままだとパンが食べられねぇのさ。細かくしてくれ、後生だよ」
育太は親分鳩の願いを聞き入れ、落ちたチーズバーガーを丁寧にちぎってやる。鳩たちはいきおいよくそれへ食らいついた。

クルックー
クルックー
おいしいな

彼らは休むことなくついばんでいる。その素早さに育太は思わず目を見張ってしまった。
 慣れてきたとはいえ、やはり奇異な光景である。腹を満たしたのか、鳩たちは日向にじっとたたずんでいた。親分鳩も同様であった。
 育太は冷えてしなしなになったフライドポテトをかじりながら、ぼんやりと考えた。

なぜ僕は鳩の言葉がわかるようになったんだ?

育太は静かに息を吐く。フライドポテトの油が手にこびり付いて、気持ちが悪い。育太はその当然ともいえるべき疑問に神経を集中させたが、わかるはずもなかった。
 ふと一羽の鳩が口を開いた。太身の鳩であった。
「なぁ親分。この坊ちゃんはおらたちに食べ物を分け与えてくれた、ありがたい御方でやんす」
続いて隣の鳩も言う。
「お礼におらたちの国へ招待してはいかがでしょう?」
細身の鳩は落ち着いていた。すると親分鳩はううむと顔をしかめ、じっと育太を見据えた。親分鳩は小さいながらも圧倒的な存在感である。一方育太は
「そんな、いいですよぉ」
丁寧に断りの意を示す。しかし悲しいことに
「よし、坊主を俺たちの国へ招待しようじゃないか」
育太の言葉は聞き入れてはもらえなかった。親分鳩は片翼を高く上げ、

クルックー!
クルックー!
クルックー!

大勢の鳩と共に桜の木へ行進をはじめる。太身の鳩は
「親分についていくでやんす」
育太に歩くよううながした。
 先頭を切った親分鳩は木に深くくい込んださけ目の中へと踏み込んでいき、ふっと姿を消した。とは思えぬ奇妙な事象であった。
 さけ目の前では鳩たちが列をなして、次々と親分鳩の後を追ってゆく。
「さぁ坊ちゃんの番がきたでやんすよ!」
太身の鳩は育太のを口ばしでこつんと触れた、桜の木の内へ入るようせっついた。育太は
「いいですよぉ」
両手を前につき出しながら左右へと振る。正直なところ、少し恐ろしくなったのであった。
「し、しかしでやんす」
太身の鳩は育太を見上げ、おろおろと説得とおぼしきものを始めた。
「困るでやんすよぉ、素直に礼をうけとって下さらないと。親分の面子だってありやすし」
さらに続ける。
「坊ちゃんが来ないと知られたら、おらだってきっとただじゃおかれませんぜ。皆から“つっつきの刑”をくらってしまうでやんすよぉ」
太身の鳩は涙目である。育太は情に訴えられ、ついに体を桜の木のさけ目にめりこませたのであった。


鳩の国は空の上
の鳩がおりまする


眼下に広がっているのはただ真っ青で、果てを見極めることはできなかった。育太は地から天まで届かんとする大樹の枝に立っていた。大樹の容姿はさきの桜の木と酷似しているものの、まとっている気はおよそ神聖なものである。
 すでに到着していた鳩たちは育太の姿を認めると、嬉々として歓迎した。 
「よぉ遅いじゃねぇか」
親分鳩は待ちかねていたという面持ちで、育太を迎えた。彼の左右にはぴったりと、太身の鳩と細身の鳩が控えている。
 育太はふと一つの違和感を覚えた。
「あれ?どうして…」
育太は目線の高さを親分鳩と同じくしているのに気が付いた。すぐさま自分の体を確かめ、そして愕然とする。二本の腕は厚い翼に、足は頼りなげなピンクのものとなっていたのだ。鳩になっていたのである。育太は声も出すこともかなわず、がたがたと体を震わせるばかりであった。
「どうしたでやんすか?」
太身の鳩はきょとんとして顔面蒼白な育太にたずねた。一方、親分鳩は無責任にも口笛を吹いている。唯一察しのよい細身の鳩は、育太に今ある状況を説いた。
「ここは鳩の国でございます。鳩であらざるものは踏み入ることはできぬ秘境の地。逆に言えば鳩であらざるものは鳩にならねばならぬのです。しかしご安心くださいませ。鳩の国から人が統べる世界へとお帰りになる際に、元のお姿へと戻りましょう」
育太は細身の鳩の言葉に、ほっと息をついた。羽毛に覆われた胸をゆっくりとなで下ろす。親分鳩は柄にもなくウィンクをし、
「いかしてるぜぇ」
鳩の姿となった育太を絶賛した。育太は鳩にされたことへ密かに憤慨していたものの、
「それほどでも…」
鳩の国のならば仕方がないと腹をくくるのであった。

「おめぇに会ってほしい御方がいるんだけどよぉ」
親分鳩はさっと頬を赤らめた。オカメインコのようである。太身の鳩は尾っぽをもじもじとさせながら、
「それが美しい御方で燦然と輝いているのでやんす」
つぶらな瞳をうっとりとさせた。
「どんな人、いや鳩なんだ?」
育太は三羽の中で一番利発そうな細身の鳩にたずねた。細身の鳩は
「金色の鳩様でございますね。おらたちの女神様、に生ける唯一の御方です」
となぜか誇らしげに胸を張っている。育太はおよそのところ理解していなかったが
「すごいや」
つられてか、心にもない感嘆の声をあげてしまった。
 金色の鳩は大樹のにいるという。育太は先刻手に入れた翼を懸命にばたつかせてみたものの、飛べる気配は一向にない。飛べない鳥はいかにもみじめで滑稽であった。その上、相当な体力の消耗である。
「もう嫌だ」
育太が泣き言を漏らすと、親分鳩はあわてて指南を申し出た。
「空を飛ぶのにはコツがいるのさ」
親分鳩の顔に貼り付けられた笑顔はやや無理のあるものであったが、親切心をむげにすることはできない。
「まぁ教えてくれるのなら…」
かくして親分鳩による育太の飛行訓練が始まったのであった。

「違う!もっと情熱的に!」
育太ががむしゃらに翼を動かすのに、親分鳩は堪忍ならない様子である。どうやら親分鳩は飛行に関し、彼なりの美学を持っているらしかった。早々に駄目だしをくらった育太はやる気をそがれ、
「じゃあどうすればいいのさ」
むくれて言う。親分鳩は太身の鳩と細身の鳩にひとっ飛びをさせ、
「どうだ。飛ぶことすなわち魂の躍動だ」
名言らしき言葉を吐いた。およそその域に達していない育太にとって、まるでといっていい程参考にならない言葉であった。
「助走をつけてみてはいかがでしょう」
細身の鳩の提案に、親分鳩はそりゃいいなと承諾し、
「走れ!走れ坊主!そして飛べ!」
早速実践へと持ち込んだ。育太は走り幅跳びの要領だと心得て、渾身の力をこめて助走をし、そしてある一点でジャンプをしようと片足を踏み込んだ。
「よし!」
心の中でガッツポーズをするのも束の間、育太がやってみせたのはただの走り幅跳びである。
「しまった!飛ぶのを忘れてた!」
傍らでは太身の鳩が腹をかかえて、転げまわっていた。
育太は先ほどの失態にめげることなく、幾度も助走をして飛行を試みた。
「坊ちゃん、あぁいい勢いだ!」
「いやぁ、でもあいつ走るのはうまくなったけどよぉ」
だが結果は同じ、
「なかなか飛べないなぁ」
その一点につきた。どうやら助走は飛行には結びつかないらしい。育太は地にぐったりと伏せた。 
「仕方ないでやんす。坊ちゃんには素質がなかっただけでやんすよぉ」
太身の鳩はあわれな育太に歩みよった。太身の鳩の発言は優しい同情心からくるものであったが、デリカシーに欠けていたというのは言うまでもない。育太はひどく傷心していた。
「もういいよ、帰りたい」
を垂れて弱音を吐く。親分鳩は、
「まぁ少し休めや」
育太の背中を軽く翼でたたいて言った。元凶は他でもない自分である。親分鳩は多少の罪悪感にさいなまれながら、すうすうと寝息をたてている育太に
「すまねぇ」
小さくつぶやいたのであった。

ふと育太は水に浸されたかのような感覚に陥った。息をすることがかなわない。目を開けることもできず、視界は真っ暗闇そのものであった。未知なる力との遭遇に育太は不思議と恐怖を感じることはなかった。そして身に起こっていることが夢ではないという確信もなぜかあった。育太は意識を手放す一瞬に、やわらかな女性の声を聞いた。

 
 太陽があった。いや、太陽とうほどの輝きをたたえた鳩がいた。

金色の鳩

育太はその眩さのあまり、目を翼で覆った。そうでもしなければ網膜が焼かれてしまいそうなのである。鳩のなのかは定かではないが、育太は金色の鳩へ敬意とおぼしき感情を抱いた。金色の鳩は慈しむような笑みを育太へと向け、
「あなたは鳩の姿をしているけれど、人の子ね?」
優しい声音でたずねる。育太は身体を硬直させ、
「はい」
短く返答をした。
 育太は金色の鳩の前で完全に萎縮していた。金色の鳩はこの空間において全てを支配しているかのように思われた。育太は直感でそれを確かなものとして察知し、
「神様…」
無意識に言葉を放った。金色の鳩は
「いいえ。でもね、坊や」
否定をし、そして告げた。
「この地において私は永遠なのですよ」
育太はふと胸が締めつけられるような想いに駆られた。その想いとは親分鳩たちが抱く恋慕の情や崇拝の念といったものではなく、むしろ同情にちかしいものであった。金色の鳩は湖面のように穏やかな面持ちで育太を見つめている。尊き瞳は彼の胸の内につかえているあわれみを見透かしているようにも感じられた。
 金色の鳩は静かに息を漏らした。外に出されたそれはやがて色を帯び、実体へと変わっていく。
育太はもはや神妙な光景に臆することはなかった。
「あ…」
突如、三羽の鳩が姿を現した。言わずもがな親分鳩、太身の鳩と細身の鳩である。
「よぉ」
親分鳩は頬をにんまりと弛緩させていた。

 金色の鳩のには三羽の鳩がひれ伏していた。育太はそれを金色の鳩の傍らで見守っている。金色の鳩は親分鳩へすまして言った。
「あなたを呼んだのは他でもありません」
対する親分鳩は
「へい、存じております、金色の鳩様。ついに俺のプロポーズを受けとってくれる気になったってわけでしょう?」
頭を浮かせ喜悦満面である。その、勘違いも甚だしく無礼な親分鳩の態度に、側近たちは動揺しっぱなしであったが、金色の鳩は極めて冷静である。血潮を逆流させてしまうであろう力を持つ低音で、
「お黙りなさいな」
一言放ったのだった。親分鳩は尻込みしながらも
「申し訳ありやせんでした。金色の鳩様が俺たちをお呼びなすったのは、食べ物を分け与えてくれた坊主に恩を報いるためでさぁ」
そう答えた。金色の鳩はくるりと背を向けて、
「わかっていればいいのです」
許しを与える。一部始終を目の当たりにしていた育太は、事の解決にほっと安堵した。

 親分鳩は育太に何か望みはないか、と聞いた。自分たちの力が及ぶ範囲で、仲間の恩に報いようとは真摯である。生来物欲の薄い育太ではあったが、
「やっぱり空が飛びたいなぁ」
束の間の努力も虚しかった飛行を捨てきれてはいなかった。彼は始め、空を飛ぶことに対し執着心など一ミリも持ち合わせていなかった。が、それが適わなかった途端から魅力的なものへと転じてしまったのだ。鳩にされたのには不本意であったがよい機会である。細身の鳩は頑張ってくださいね、とエールをくれた。
「なにはともあれ練習だ」
育太は勇んで二度目の挑戦に身を投じた。
 予想はしていたものの、相も変わらず失敗続きである。熱心な親分鳩の手ほどきもなかなか実を結んではくれなかった。彼の前方では太身の鳩が暇を持てあまして、くるくると飛び回っている。一方、金色の鳩は優雅なあくびを漏らしながらのんびりとくつろいでいた。
「ねぇ坊や。技術だけで空を舞うことはできませんよ。想像をいきおいよく膨らまし、その反動で身を浮かせばよいの」
随分と抽象的な助言をくれるものだ。育太は丁寧に礼をしながらも、必死に想像をかりたてていた。
 育太が抱く“飛ぶ”のイメージといえば鳥、飛行機、ロケットの三つである。羽を持つ虫などもまた“飛ぶ”ものではあるけれど、幼い育太にとって憧憬の的となることはなかった。小さく儚いものたちである。やはり彼が抱く“飛ぶ”のイメージの中でも突出しているのは、宇宙へと一直線に向かうロケットであった。育太はぼんやりと虚空を見つめながら、いつかテレビ画面に映しだされたロケットの発射を脳裏に描いた。
「赤い炎を吹くんだ…」
「あ?」
横に控えている親分鳩は首をかしげ、
「そんなこたぁ俺たちにはできねぇぞ」
訝しげな顔を向ける。育太はかまうことなく、
「それから白い煙をあげて、ゴゴゴゴゴっていうんだよ」
尚も想像をかきたてていた。細身の鳩は育太の様子を案じて
「疲れているのですか?」
休息をとることをすすめた。育太は頭の中をぐるぐるとかき回しながら、細身の鳩の言葉を受けいれた。

クルックー
クルックー
お集まりなさいな

金色の鳩は大樹の下の方にいる鳩たちに号令をかけた。それに呼応して凄まじい数の鳩たちが群をなして飛んでくる。を叩く力強い羽音に、育太はいっそう飛行への想いをつのらせた。
 ふとその時である。一羽の鳩が白濁した液体をポトリと落とした。
「糞だ!」
育太がすかさず声をあげると、太身の鳩が
「仕方ないでやんすよぉ」
尾っぽをもじもじとさせながら仲間の弁解をし始めたのであった。
 彼の話によると自分たちを含め、鳥というのは常に身軽でなければならぬという。排泄物など体の内に留めておいては飛べるものも飛べぬのだ。太身の鳩は力説した。
 育太は妙に納得させられて、自らの身体を考えた。かなり前ではあるけれど、人の姿をしていた育太はファストフードを食していた。結構な質量であること間違いなしである。育太はどうしてこんな単純なことに気付けなかったんだと自己嫌悪に陥ると共に、見えてきた希望の兆しに思わずニヤリとしたのであった。
彼は早速用を足し、そして羽ばたいた。
「その調子だ、坊主!」
親分鳩は威勢よく声援を送る。育太は脳内スクリーンにロケットの発射時を映しだし、地を足で蹴った。

がんばれ
がんばれ
人の子よ

鳩たちはこぞって声援を送る。育太は鳩たちの期待にみごと応え、不器用ながらも空を舞ってみせた。よろよろと上方へと向かっていく。
「やったぁ!」
風を受けて気持ちがよい。育太はほろりと涙を流した。

望みをかなえ有頂天になったのも束の間、育太はふと人恋しくなってしまった。帰りたい。人の姿に戻りたい。育太が強くそう願った途端、両翼の力をいっぺんに失って一直線に落下しはじめた。
「坊主ぅ!」
親分鳩は育太を助けようと、空を切って彼へと向かうが間に合わない。
「あらあら」
金色の鳩は遠ざかって点となってゆく育太を見やり、ゆったりと息をついたのだった。

 果てのないこの国では一本の大樹と鳩たちの他、存在することを許されてはいなかった。それは天上と地も同じくであり、育太の落下は延々と続くのだった。
「あ…あぁ……どうしよう」
彼は自らの耳をつんざく叫びをあげた、意識を失った。


心に卵を落としたの
あなたの内は清いから
命を絶やしはしないでしょう

遠くまどろむその土地は
人が住むというけれど
私はいつもここにいて
のとなりましょう

さあようなら坊や
さようなら
さような


 育太は公園で横になっていた。地べたにはビニールシートが敷かれており、傍らではホームレスのおじいさんがコンビニ弁当を頬張っている。育太にはどこからか拾われてきたらしい薄汚れた毛布が一枚、被せられていた。
「大丈夫かぁ」
おじいさんは目を覚ましたばかりの育太にのんびりと声をかけ、
「お前さんが鳩に囲まれたかと思ったら、次の瞬間には白目をむいてぶっ倒れてしまったんだ。それで今公衆電話で救急車を呼んだんだが…大丈夫なようだなぁ」
うりうりとおでこを触る。育太が顔をしかめると
「すまんなぁ」
歯のない口を見せて笑った。そこは日溜まりで、雑音まじりのラジオの歌が流れていた。
 救急車がかけつけるまでの間、育太はおじいさんに奇妙な体験の話をした。おじいさんは神妙に聞き入り、
「すげえなぁ」
、羨ましげに育太の瞳をのぞきこんだのであった。

育太は結局、救急車で運ばれることはなかったが、数日間激しい筋肉痛に悩まされることとなった。
「じんじんするよぉ」
両腕は赤く腫れ上がっており、湿布を多用しなければ耐えられない状態である。普段息子に頓着しない母親もこの時ばかりは心配し、
「もう大人なんだから危ないことはしちゃ駄目よ」
わけもわからぬ念を押した。
 育太は両親に奇妙な体験を話すことはなかった。息子に妄想壁がある、と気に病まれては困るからである。育太はその後も年を重ね、鳩たちと意思の疎通をすることは二度となかった。また愉快な鳩たちとの記憶も次第に色あせていった。
 
 そんな育太にも一つ、変わらぬものがあった。金色の鳩から送られた卵である。それはいつも育太の心の中にいて、ささやかな喜びを共に分けあい、月日を過ごし、やがて然るべき時に共に穏やかな眠りについたのであった。〈終わり〉 


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