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『生きていたくない』が伝わらぬゆゆしき事態

こんばんは、ご無沙汰してます。最近はカニンヘンダックスフントの『みかん』の育児(ならぬ育犬)に忙しい未(ひつじ)です。

先日久々に自分の固定観念がひっくり返ってびっくりしたお話しです。

それはいつもお世話になっている医療関係の方とお話しさせていただいていた時。話の流れでどうしても希死念慮の『症状』について伝えねばならず、

『正直もう何年も前から死にたい気持ちが消えてくれないんですよね~(哀しき泣き笑い)』

と打ち明けた時でした。

『え、それってどういう感覚かな?今あること全部を投げ出して別のところに行きたい感じ?』

と確認をいただいたのでした。

『うーん……そう……かな?あはははは』

なんてとりあえず力なく笑ってお返事させていただいいたのですが、とてもびっくりしたのです。

私の中では全部投げ出すというより、

『全部最初からなかったことにしたい』

『この生きる苦痛ごとすべてを終わらせたい』

『いっそ某インキュベーターと契約をして誰も知覚できない概念となりたい(とてもヒクツな某アニメの見方)』

という感覚です。

己のふがいなさに泣くことのない状態になりたい。自分という存在を何もかもなくしたい。オール・オア・ナッシングはうつ病患者さんの思考的にはよろしくない、と言うけれど、『ジブン イズ ナッシング』。世界からとにかくナッシング(英語がダメダメなので合ってるかは分かりませんが)。

あまりに生きている時間における精神的苦痛が強すぎて、自分の感情触れ幅ごとなくしたくなってしまうのです。私の場合。

人生に疲れた?と言われると、ちょっと違う。疲れるほど頑張れてない自分がイヤなものですから。

逃げ出したい感じ?と問われると、それもちょっと違う。逃げた先でも、『自分』という存在はこの先一生付きまとうので、それがジゴクなのです。あくまでも私の場合ですけど。とほほ。とぼとぼ。

この感覚、どう伝えたらいいものでしょうか。

首が痛くなるくらい頭を捻ったイメージでうぬぬぬぬ!悩みましたが、今も答えは出ません。

と同時に、気づいたことがあります。

ひょっとして、うつという病気でない人は、この感覚を感じたことがほぼないのでは?

と。

同じ人間だけど、相手も優しい人だけど、この感覚が伝わらないゆゆしき事態は、私にとってかなりの救いになりました。

だって、健康な方は毎日死にたいと思って泣くことがないんですもん。例外はあるかもしれませんが、自分が生きていることが嫌で嫌で仕方なく、自分で自分の首を締めるような考え方をしないのです。

別に身内や親しい友人を失くしたわけでもないのに、毎日毎日、辛くて辛くて一人で部屋に戻り息を詰めるようにしてのたうちまわり、涙するような苦しみが、ない。心が健康な人は。

目から鱗でした。自分にとっての当たり前の苦痛は、人によりごくたまーにだったり、存在しなかったりする。


そりゃ、みんな生きていけるわけだ、と。


恋をしたり、パートナーができたり、家族が増えたり、誰かを、何かを育てたり、仕事に打ち込んだり、家庭を守るために毎日健闘したり、素敵な趣味に打ち込んで、きらきらした人生を送ったり。

この中のどれか一つでも、私の人生では程遠い、星に手を伸ばすような尊いことです。絵に描いたお餅なので、どんなに求めても手に入りませんし、食べられません。

でも、私の抱えてる苦痛が病気の症状であって、もしも今、一時的にでも手放せるとしたら。

『お仕事辛い』『勉強嫌だ。学校行きたくない』と言いながらも、光合成をしてきらきらと木陰を作る植物のように、めいっぱい葉を伸ばすようにして生きるみんなのようなことができるのかもしれません。

『みんな』というのも抽象的でよろしくないですし、ここでいう『みんな』というのは、私の周囲の深い話までは語り合わない、浅く広くだけどお話しさせていただいてる全ての人の平均像、つまりは私の空想なのですが。

そうかそうか。

全ての人が毎日感じるわけではない苦痛が、毎晩のようにやってくるのであれば、自分のできることがポンコツすぎても、全然ダメダメでも、ごく自然なのだ、と。

この苦しみがなければ、自分のポンコツさを呪うこともなく、周りと同じような、青空の下で光合成する草木のような美しい人生を送れていたかもしれぬと。

死にたい気持ちは私の考え方によるところももちろんあるとは思うのですが、何より根本に『病気』という根があるのです。その根っこは、決して私のせいだけとは言いきれません。

例えば、ガンにかかってしまった患者さんに対して『あなたが不摂生をしているからそんなことになったんだろう!当然だ!自力でなんとかしろ!』と、これを読んでくださってるあなたは責め立てますか。

ケースバイケースだとは思いますが、私はそんな風に病人に追い討ちをかける人間になりたいとは思いません。

でも、私が私にしているのはまさにこれなんだと思うんです。私が私を責めている時の心を言語化すると、

『うつになったのはお前のせいなんだから自分でなんとかしろ!苦しくたって自己責任だ!命で償え!』

……みたいな感じです。書いてて哀しくなってまいりました。

でも、この苦しみを大多数の人が持っていない、と仮定すると、

『こんだけ辛いならポンコツにもなるよねぇ』

『こんだけ強い苦しみがいつものようにかかるならちょっとぐらい歪むよねぇ』

と、少し自分を許せる気がするのです。

力の入れ加減を間違って、ぺこっとつぶれてしまったアルミ缶のようなもので、なかなか元通り新品同様にはなりませんが、へこんだところをなんとか切り開いて戻してみたりできるかもしれない。

病人で死にたがりの自分は、いびつなアルミ缶ですが、考え方次第で、つぶれてしまった理由を許してあげたり、少し補強できたり、少しずつスチール缶くらいの強度になったりできるのかも。

そんなことを考えているのでした。


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