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名もなき半身(ひと)

 嵐でした。海辺のことです。あの日、雷鳴轟く真っ黒な空の下で、わたしはあの人を見つけました。彼には足がありませんでした。砂にまみれた肌は血管が透けそうなほど白く美しく、繊細な金色の髪はゆるやかな癖を描いて頬を覆っていました。

 わたしは両脚の無い彼の身体を持ち帰りました。一切のものを処分したあとの、ただっぴろい家の真ん中に、そっとその身体を置きました。長いこと海水に浸されていたためか、顔色が悪かったので、わたしは持っていたオイルランプを近づけて温めてあげました。

 もう戻るつもりの無かった家です。彼の身体を温めてあげられるものはそれしかありませんでした。それでも足りないのか、彼の身体は冷たいまま、青白く横たわっていました。

 わたしは着ていたものを脱ぎ、その身体に覆いかぶさりました。わたしの胸や腹部にあたる冷たさは氷のようで、全身が縮こまりそうでした。それでも、わたしは彼の身体を抱きしめ続けていました。母親が息子を抱くときもこんな感じに違いないと心の中で考えました。

 そのまま夜がふけてゆき、朝陽の訪れと共に嵐は過ぎ去っていきました。わたしは彼の身体を抱いたまま、優しい静寂の中でじっと横たわっていました。

 彼の目が覚めたのは 三 日ほど経った頃でした。朝、誰かの呼ぶ声で目を覚ましたわたしは、目の前にある真っ青な瞳と目が合い、思わず高い声をあげてしまったのでした。

「僕は助かったのだね」

 彼が呟きました。その声は鈴のように透明で澄んでおり、この世のものとは思えないほど美しい音でした。

「君、君はだれなの」
「わたし……」

 掠れた声でわたしは言いました。

「名前はないの」
「そう」

 彼はさして驚く様子もなく、青い目を天井に向けました。

「でも、ここは人間の住処のようだね」
「そうよ」
「そうか、僕は、知らない間にとても遠い場所に来てしまったんだ……」

 それから、わたしと彼はたくさん話をしました。彼は不思議な世界のことを話してくれました。わたしの知らない、どこか遠くの、おとぎの世界のお話です。

「そこは澄み切った美しいもので満ちていて、あらゆる生き物が暮らしているんだ」
「でも、人間はいないのね」
「そうだよ。人間だけがいないんだ」

 彼のいた場所は宝石のようなところだと思いました。嫌なことも悲しいことも、何もない、きれいな場所。

 身動きできない彼は家の中でじっと横たわっていました。わたしは彼のために食べ物を用意し、毎日身体を洗いました。お腹の下の断面だけはどうしても見ることができず、手探りで洗ってあげました。

「ありがとう」

 彼の言葉がわたしの生きる意味になりました。夜は裸で彼を抱きしめました。美しく聡明なあの人も、夜は子供のように眠ってしまうのだと知りました。

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