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透明な紳士と、透明になりたかった私

第六話 尊い世界


 この町に来た初日、夜道で見かけたゴスロリ少女が春風若菜という名だと知ってから、綾斗の心は浮足立っていた。

 昼間の彼女は地味な顔と地味な空気を一生懸命取り繕っているが、繕えていない。無表情で黒板を見つめる彼女の横顔を見つめていると、黒と紫のアイシャドウや黒髪のツインテール姿がおのずと浮かんでくる。

 ゴスロリなんて、どんな美少女が着てもひどく浮ついて見える幻想の服だと思っていた。だが、ちがった。春風若菜だけは本物だった。レースとフリルに包まれるためだけに生まれた存在だと、一目見たときに思ったのだ。

 だがあの日、彼女は裸足で、泥まみれだった。
 靴下も靴もどこかに置き忘れたように素足で自転車を漕いでいた。街灯の下で真っ白に輝くふくらはぎに泥水のあとが幾筋もこびりついていた。不完全で異様な光景なのに、彼女はそれが当然だという顔をして、堂々とマンションの裏口へ入っていったのだ。
 心が、強烈に吸い寄せられた瞬間だった。

 深夜2時。彼女はいったいどこで何をしていたのだろう。
 あのマンションはスマホのマップにマーキングしてある。自転車で彼女の行動範囲を張り込みながら、彼女の通るルートを絞っていくこと数日。綾斗はついに、春風若菜の奇妙なルーティンを把握した。

 むせかえるような草いきれ。無作為に生えているように見えて、懐中電灯で照らせばところどころ踏み崩されており、細々とした小径がつくられている。綾斗はその径を慎重になぞるようにして山を登っていた。自分が把握しているパターンからすれば、彼女はもう少し先にいるはずだ。この獣道の終わりで、彼女の姿が見える計算になっている。

 我ながら手慣れた行為だと自嘲する。彼女に知られたら、きっと大問題になるだろう。……そんなことを考えるうち、獣道はようやく終わりを迎えた。

 煌々と照らす月の光に目を細め、綾斗は視界に映る光景に口をぽかんと開く。

 ひどく荒々しい、ぞっとするような廃墟がそびえたっていた。鳥肌の立つような錆びだらけの鉄柵、腐った土と枯葉のにおいの混じった、ずんと重たい湿った空気。雲一つない夜空が頭上にあるのに、見えない結界にでも阻まれているかのように澱んだ空気が辺りを包み、荒廃した土地をおどろおどろしい薄闇に包んでいた。

 こんな場所に好き好んで訪れるのは、命知らずの配信者たちかオカルトマニアくらいなものだ。だが綾斗の視界には、まさに廃墟の内部へ向かっていくゴスロリ少女の背中が映っている。

 綾斗は物陰に隠れ、固唾をのんで若菜の行動を目で追った。彼女は廃墟の玄関の石段に立ち、何のためらいもなく鎖を引いた。

 かち、かちん、と頼りない金属音がかすかに耳に届く。鎖に繋がっているベルが揺れているのだが、今にも外れそうに傾いでいて、彼女の頭上に落ちないか心配になった。

 ――そもそもどうして、あんなベルを鳴らす必要がある?

 あれはおそらく昔のインターホン、呼び鈴だ。だがここは廃墟、あんなものを鳴らして出てくる住民などいやしない。いるとすれば、それはもう怪異だ。

 若菜は一歩下がり、扉を見つめておとなしく立っている。まさか、と綾斗は目をしばたたいた。やがて、そのまさかが訪れた。
 ぎぎぎぎ、と生理的に拒みたくなる音がして、扉がゆっくりと開かれていく。

 次の瞬間、綾斗は叫び声をあげそうになった。

 扉の奥で、何か巨大なものがうごめいている。扉が完全に開き、淡い月の光が照らし出したのは、見上げるほど大きな肉塊だった。

 肉塊、としか、表現のしようがない。赤みを帯びてぬめった巨体をよじり、触手状の腕を伸ばす。若菜はそれを愛おしそうに手に取って、扉の向こうへと歩き出す。
 てらてらと光る肉の手がもうひとつ伸びてきて、彼女の腰に回る。彼らは寄り添うようにして廃墟の闇に消えていった。

 いつの間にか、開ききった口の中にぬるい唾が溜まっていた。綾斗は呼吸の仕方を思い出したように息を吸い込み、唾が気管に入りかけてげほげほと咽せ込んだ。

 春風若菜は、深夜に廃墟を訪れる。廃墟に住まうなにかに会いに。

 あれは、なんだ……?
 生理的な涙に視界をにじませながら、綾斗は廃墟を見上げる。彼の視線の先で壊れかけの扉がひとりでに動き、無情な音を立てて閉じてしまった。

 春風若菜は、廃墟で肉塊と戯れている。
 綾斗は自室のベッドの布団の中で、スマホ画面を食い入るように見つめていた。

 カメラの赤外線が閉ざされた闇をかき分けるように彼女の姿を映している。足首のもげたテーブルにつき、どす黒い何かを飲まされている瞬間が映し出され、綾斗は反射的にウッと口元を押さえた。若菜がとろんとした目つきでグラスを口にすると、中身がどぼどぼと顎からしたたり落ちていく。やはり飲めはしないのだ、あんなもの。だが彼女は幸せそうに笑って、「おかわり」と言わんばかりにグラスを差し向ける。肉塊の触手がグラスを受け取り、ひび割れだらけのピッチャーを傾け、また液体を注ぐ。

 割れた皿は泥にまみれていて、得体のしれない黒々したものが盛られている。もはやカトラリーと呼べない代物を両手にとって、彼女は丁寧に切り分け、口へ運ぶ。口端からどぼどぼとこぼしながら、目を細めて咀嚼する。肉塊の触手が、時折彼女の口元や顎を拭う。
 まるで園児のままごとだ。女児たちが公園の片隅で泥団子を作り、料理をふるまう真似事をするような。

 若菜の〝食事〟が終わると、肉塊が触手を伸ばして彼女の手を取り、食堂から連れ出した。綾斗はスマホを操作し、別のカメラに切り替える。

 ここもちがう。ここもちがう。ここも……次々にカメラを切り替えていった先で再び彼女を見つけた。壁代わりのガラスが抜け落ち、ひび割れだらけの浴槽がぽつんと置かれているだけの、ほぼ野外のような風呂場だ。肉塊が腕をうごめかせ、ずるずると若菜の背中に回る。そして、流れるような動作でゴスロリのリボンをほどいていった。

 スカートが、ブラウスが、ガーターが、靴下が、靴が、次々とタイル床に落ちていく。赤外線がとらえた荒い映像でも、彼女の白く滑らかな素肌が容易に思い浮かぶ。綾斗は口をあんぐり開けたまま、瞬きも忘れて見入っていた。

 肉塊が、ほとんど半分になったたらいで浴槽に溜まった水を汲み、若菜の体にそっとかけていく。どこかでカーテンでも引きちぎって来たのか、ボロ布を泥水に浸し、彼女の体をせっせとこすり始める。首、肩、腕、背中、胸……高校生らしからぬ豊満な肢体を、それは丁寧に、機械のような精緻な動作で磨きあげていった。――正確には、泥まみれにしていた。

 若菜は時折くすぐったそうに身をよじる。そのたびに肉塊は触手を増やし、彼女の肩をたしなめるように押さえつける。気のせいだろうか、肌に触れられるたび、彼女がより幸福そうに見えるのは……

 壊れたピアノを奏でる彼女。
 ピアノのそばで肉塊と楽しそうに踊る彼女。
 肉塊に抱き上げられ、赤子のように横抱きにされ、サロンから連れ出されていく。綾斗はカメラを幾度か切り替え、目をみはった。

 このカメラは、確か……唯一、〝寝室〟だと判断できた部屋に取り付けたものだ。大きく亀裂の入ったベッド台と窓、色あせてほとんど剥がれ落ちているサーモンピンクの壁紙、床におびただしく散らばる何かの破片……

 やがて彼女は、マットレスも何もないベッド台に横たえられた。肉塊は彼女を見下ろすようにそばに立ち、触手状の肉をうごめかせている。――と、若菜は両手を伸ばし、肉塊に触れた。何事か話しかけているようだ。カメラは安物なので音声まではわからないが、何か懇願しているように見える。肉塊はなかなか動かない。

 だがやがて、それは観念したように動き出した。ぬめった体をもぞもぞとくねらせながら、若菜の隣に自ら横たわる。幾筋もの触手状の腕を彼女の体に巻き付けて、彼女の頬を肉の壁に押しつける。
 いつしか、綾斗は荒い息を吐いていた。下腹が熱い。どうして? こんな、悪夢のような光景に、自分は興奮しているのだろう。

 赤外線の光が彼女の恍惚とした笑みを白く浮かび上がらせる。綾斗は涙をにじませながら歯を食いしばり、突如訪れた煩悩と格闘した。

 カメラを取り付けたのは、あの廃墟に初めて訪れた日の翌週だった。ネットで取り寄せたカメラを持参し、学校を休んで昼間に廃墟へ向かった。生理的に鳥肌の立つようなおぞましい廃墟に裏から回って入り込み、彼らが使いそうな部屋にカメラを仕掛けた。

 何度か覗き見て、意味のない位置にあるカメラは別の場所に取り付け直した。こうして綾斗はいつでもあの廃墟を監視できるようになったのだ。

 この覗き行為がいけないことだとはわかっている。
 だが、やめられない。見ずにはいられない。
 若菜という少女がおぞましいなにかと戯れている光景は、何度見ても見るに堪えない気持ちの悪さを感じるのに、同時に何か、壊してはいけない尊いものにも思えるのだ。

 我ながら狂っている自覚はある。
 だがそれは今更だ。自分はもう、綺麗に生きることはできない……


 スマホ画面に映る、若菜の寝顔のスクリーンショットを盗み見しながら、綾斗はぼんやりと授業を聞いていた。

 若菜は今日も学校を休んでいる。
 真昼間からあの廃墟に入り浸っているのだろうかと思い、カメラを起動したが彼女の姿はなかった。自宅だろうか。体調不良で寝込んでいるのかもしれない。

 あんな汚い廃墟で裸にされたり、泥を口に詰め込んだりしているのだから、体調を崩さないほうがおかしいのだ。
 隣にたたずむ空っぽの席を横目に見ながら、彼女の自宅にもカメラをつけられたらいいのに、と思った。

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