見出し画像

廃墟

 逃げ出したい。これは、生きるものの最後の本能だと思う。だから私は、よくここに来てしまう。横たわる私の視界の端々に伸びる緑の草葉と、目の覚めるような明るい空を眺めているうちに、何から逃げてきたのか、やがて忘れてしまう。

 閉じた瞼の外側で、さらさらと風の撫でる音がする。頬にひと筋、流れた涙が冷たく乾いていった。こうしてわたしは、自分のすべてを思い出すのをやめた。

 風化し崩れていく木の壁に囲まれたこの場所で、名前も無い草木だけが生きる気配に満ちている。

 破れた天井からこぼれ落ちる優しい陽の光を浴びながら、私はこのまま腐ってゆきたいと思った。そう願った途端にまた頬が熱く濡れた。胸がきゅうっと締めつけられて息が乱れる。私は泣いている、と思ったらとめどなく流れるままになって、思わず身体を横に向けた。

 身体の下で花が静かにつぶれていた。涙が頬の下の葉を濡らし、その上から柔らかい光が降り注ぐ。しずくの中に光るものを見た。私はまた泣いた。

 文明とはなんと儚いものだろう。それを作る人間など、もっと頼りない命にすぎないに違いない。普段は固い靴の底で踏みつけられている草花こそ、地上を支配するに最も相応しい生命なのだ。

 割れずに残った数少ないステンドグラスを眺めて、私は瞼を閉じた。荒廃した匂いを吸いこみ、一つの文明の終わる音を聞く。私はこの場所を「教会」と呼んでいた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?