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透明な紳士と、透明になりたかった私

第一話 ゴスロリと廃墟

 たぶんこれは、はじめて買ったゴシックロリィタ。お母さんがくれた五万円を握りしめてブティックに行って、前から目をつけていた新作のマネキン――の隣にセールで雑に並べられてたハンガーラックから一着取り出して、「これください」と勇気を振り絞った。

 高校生の分際で、一着三万円もするお洋服を買ってしまった。お店で袖を通して、そのまま着て帰った。すでに八千円の厚底靴と黒いチュールレースのヘッドドレスをつけていた。全身フル装備になったあの瞬間の開放感とほんの少しの背徳感、そして何者かへの「ざまあ!」感は今でも忘れることができない。

 その「生まれて初めてフルセット」を久しぶりに身につけて、春風若菜は今、町外れの小高い山奥に来ている。時刻は夜の八時。山の麓の茂みのなかに自転車を隠し、道なき道をのぼってゆく。目的のものを見つけるのに体感二〇分以上はかかっていた。

 暗い葉陰と草いきれをかき分けて、獣道がやがて頼りない小径に変貌していくのを厚い靴底で感じながら、ついに――木々の切れ間のなかに、それを見つけた。

 ネットで無名の写真家がブログに載せていた一枚の写真。「大正明治時代から存在すると思われる居留館」と題して、ものものしい古びた洋館の廃墟の姿が映し出されていた。それをひとめ見たとき、若菜はそのあまりの退廃的なたたずまいに心が真っ逆さまに奪われてしまったのである。

 それがまさか、家から自転車で行けてしまう距離にあるだなんて。
 そして本当に、実在していたなんて!

 若菜は草葉の陰から抜け出し、獣道を歩いて乱れたスカートの裾のフリルを直し、髪とヘッドドレスを整え、小さく咳払いしてからゆっくりと館へ近づいた。

 館の周囲はぐるりと鉄柵に囲まれており、左右から溶け出したように滑らかな曲線で優美な門扉が――片方が外れて倒れているが――かつての威厳を湛えている。若菜はそのなかをくぐり抜け、石畳が掘り返されたような荒れた広場をゆっくりと歩いた。目の前にそびえたつ、三階建ての美しい洋館をじっくりと眺めながら。

 空の澄み切った闇のなかに、はっきりとまるい月が金色に光り輝いている。美しい満月だった。その下で、主を失い孤独の闇をまとった洋館は、ひたすら暗く、寂しく、荒れ果てて見えた。壁に彫られた美しい装飾も意匠のほどこされた窓のひさしも分厚い緑の褪せた蔓に覆い隠され、その無情さが若菜の胸の奥を熱くたぎらせた。

 そうだ、これが廃墟だ。美しい。なんて素敵なんだろう。ここに住みたいくらいだ。

 若菜はまるで導かれるような足取りで、まっすぐ洋館の玄関口に来ていた。いかにも頑丈そうな木製の扉は錆びた鉄鋲が穿たれ、何者をも拒むかのごとくしっかりと閉じられている。

 古びた取っ手に手をかけ、引いてみたがびくともしない。何度かがちゃがちゃと力を込めてみたがだめだった。ぼろぼろに荒れ果て、壁も柱も今にも崩れそうなのに、どうして扉だけはこうも頑丈なのだろう。

 ふうとため息をつき、一歩引いて扉全体を見回す。すると扉の上部から何やら細い鎖が降りていることに気づいた。いかにも引いてくださいと言わんばかりの風貌で、若菜はためらいながらも鎖を握り、そっと遠慮がちに引っ張った。

 壊れたスピーカーから発せられたような濁ったベルの音がリンゴーンと鳴り響く。若菜は慌てて鎖から手を離した。よく見れば、暗がりで気づかなかったが、扉の上部に錆びついたベルがある。だが不吉な角度で傾いていて今にも外れそうだ。本当にこれが鳴ったのか甚だ疑問だった。

 突然の音に頭の中が真っ白になっていると、扉の向こうで何かの動く気配がした。
 ばかな。そんなはずはない。ここは大昔に建てられ打ち棄てられた廃墟だ。いるとすれば野良ネコくらいだ。

 かちゃり。鍵の開く音がする。あのびくともしなかった扉が、ぎぎぎ、とかしいだ音をたててゆっくりと隙間を開けていく。

 足が凍りついたように動かない。扉が開かれるにつれ、館に充満していた闇がぶわりと膨れてこちらに漏れだすかのようだった。そしてついに開け放たれたとき、若菜は自分の目を疑った。

 黒い燕尾服が見える。アニメやドラマに出てくる執事が着るような、お仕着せというものだ。それがまるでマネキンに着せられているかのようにまっすぐ立ってこちらを向いているのだ。

 だがマネキンにあるはずの支えがない。そしてお仕着せは、ゆっくりと優雅に腰を曲げた。分度器で測りたいほどの絶妙な角度で一礼したのだ。

 歯の根が合わない。声も出ない。若菜は一歩足を後ずさらせた姿勢のまま硬直していた。
 お仕着せはわずかに姿勢を上げた。まるで「どうしたのですか」と言わんばかりに。見えない首をかしげているのが目に浮かぶほどの自然な仕草だった。そしてお仕着せは、空っぽの袖の先をこちらに差し出した。

「あ、あえ、あ」

 奇妙な鳴き声しか出せない。硬直した若菜の手に袖の先が近づき、やがて強烈に冷たい感触にしっかりと包まれた。

「きゃあああ!」

 はじかれたように悲鳴を上げる。異常なほどの冷たさに我に返った。掴まれている感触はないのに、冷たい何かが手に吸いついて離れない。若菜は信じられないほど強引に館のなかへ連れ込まれてしまった。

 背後でばたんと扉が閉まる。がしゃん、と大きな音を立てて錠が下りた。

 閉じ込められた。逃げられない。そんな言葉が頭の中を駆け巡る。紛れもなく命の危機だ。若菜は透明な手を力いっぱいふりほどこうとしたが、冷たい感触は余計に絡みついてびくともしない。

 燕尾服は若菜を連れてずんずん先へ歩き出す。外はあんなに月が明るかったのに、中は重苦しい闇に閉ざされていた。

「きゃっ――」

 途中、大きな何かに躓いた。ぐらりと傾いだからだを、燕尾服の袖ががしりと支える。思ったよりも頑丈な腕だったことに驚いた。

 若菜はおそるおそる手を伸ばし、燕尾服のからだに手をかけて身を起こした。顔を上げ、燕尾服の襟から上の、普通なら顔のある場所を見た。

「あ、あの……」

 その瞬間、燕尾服が腰をかがめた。と思ったら、若菜は体をふわりと持ち上げられていた。背と太股の裏にしっかりと腕の感触がある。抱き上げられていると気づいたときには、ものすごいスピードでどこかへ連れ去られていた。

 前方も左右も暗闇に覆われている。自分が今どちらを向いて運ばれているのかわからない。麻痺しかけていた恐怖が再び襲いかかる。だがまもなく、がたんとドアの開く音がして柔らかい何かに座らせられた。背中に硬い感触。背もたれだ。そして前方に、ふっと柔らかな光が灯った。

 蝋燭だ。……蝋燭? こんな廃墟に蝋燭の火?

 どうやら若菜が連れてこられたのは広間のようだった。食卓と思しき立派なテーブルがある。蝋燭の火に浮かぶ光の輪が部屋の全貌を薄らと浮かび上がらせている。壁に額縁がかけられているが残念そうにかしいでいて、部屋のあちこちに 瓦礫めいたものが散乱しているのが見えた。

 ふと気づけば、近くに燕尾服がいない。逃げられるチャンスだと思ったが、残念ながら燕尾服はすぐに戻ってきてしまった。袖の先に平たいトレイを持っている。その上に皿とグラスが置かれていたが、ここから見てもわかるほど大きく欠けて変色していた。

 若菜の目の前に皿とグラスが並べられる。その中身が蝋燭に照らし出された瞬間、若菜ははっと息をのみ、反射的に鼻と口元を覆った。

 元はフレンチで出されるような皿だったのだろう、中央の深くなった部分にどす黒い汁のようなものがなみなみと入れられている。グラスも同様で、どう見ても泥水のような何かが半分ほど注がれていた。よく見れば大きく欠けたところに細い蜘蛛の巣と埃の塊がへばりついている。

「あ、あの、これ……」

 燕尾服は袖を動かして、どうぞ、と言わんばかりの仕草をする。若菜は青ざめた顔でぶんぶん首を振った。

「む、むりです! もう許してください! 勝手に入ろうとしたことは謝りますから!」

 この燕尾服は怒っているのだろうか。廃墟に取り憑いている霊か何かだとすれば、侵入者を殺そうとしているのかもしれない。首を小刻みに震わせる若菜の目の前で、燕尾服は襟元を傾けた。不思議そうに首をひねっている……ように見える。

「わ、わたし、あの、ただ廃墟が好きで……何かを盗もうとか壊そうとか、そんな意思は一切無くて……お、怒っているなら謝りますから、もう帰らせてください」

 果たして、相手に言葉は通じているのだろうか。

 燕尾服はしばらくぴくりとも動かなかったが、やがておもむろに片方の袖を動かした。皿の右側に置かれたスプーン――ひどく錆びて、柄の先が折れているが――を取り、皿の中の黒々とした泥水をすくった。
 得体の知れない液体が、若菜の目の前に差し出される。若菜は目尻に涙を浮かべて首を振った。

「む、むりです……やめてください、やめて――」

 刺すような冷たい手が若菜の顎をがしりとつかみ、強引に口をこじあける。錆びついたスプーンの先がいとも簡単に差し込まれた。

 強烈なドブのにおいと苦みが口のなかに充満する。若菜は反射的に口の中のものをすべて吐き出しながら椅子から転がり落ちた。地面に手をつき、胃の中をひっくり返すように吐きもどす。

 熱い胃液が喉にひっかかって喘息のような咳が押し寄せる。目から、鼻から、生理的な涙を垂れ流しながら咳き込み続けた。

 殺される。自分は霊に殺されるのだ。ああ、どうして廃墟に忍び込もうとしたのだろう。寄りによって夜中なんかに……

 決して肝試しがしたいわけではなかった。ただ、廃墟が好きなのだ。スマホで廃墟の画像を検索しては、荒れ果てた部屋の様子や、かつての住民が使っていたであろう朽ちた家具や道具の写真にただならぬエモさを感じて胸を躍らせていた。

 高校に入ってはじめて念願のゴスロリを買ったとき、廃墟にぴったりな装いだと思ったのだ。ゴスロリを着て廃墟にたたずむのは夜が最も美しくふさわしいと安直に考えたのだ。その思いを一年間温め続けて、つい最近、近場に素晴らしい廃墟があるのを知り、実行しようと思い立った。初めての廃墟探索には、お気に入りの一つである、この「生まれて初めてフルセット」が一番ふさわしいと思ったのだ。ただそれだけだったのに……

 げほげほ、荒れ狂う咳に何度も胃液を吐き出していると、背中にひやりと冷たい感触があった。若菜はびくりと背を振るわせ、咳き込みながら逃げようと這いずったが、脇腹を強引に掴まれ、無理矢理上体を起こされた。

 気づけば、真正面から燕尾服に抱きしめられていた。若菜は膝立ちしたまま、全身を冷たい肩に預ける格好になっていた。

 ぽん、と背に手を置かれる感触。ぽん、ぽん、とあやすようにゆっくりと、繰り返し叩かれる。咳き込む若菜をいたわるような優しさだった。その瞬間、若菜の脳に沈みかけていた記憶が呼び覚まされた。

 自分がまだ三歳くらいのころ、同じように抱きしめられた気がする。だれに? ――母親に。まだ、家にいたころの母親に。

『若菜、だいじょうぶ。いたいのいたいの、とんでいけ』

 歌うような心地のいい声が耳元によみがえり、やがてその映像は儚く霧散していった。ここは廃墟で、自分を抱くのは得体の知れない霊だ。口の中にはべたつく苦みがまだ残っている。

 恐ろしいのに、逃げられない。逃げる気力が不思議と湧かない。冷たい手に背を撫でられ、頭を撫でられるたびに、若菜の頬に涙が転がり落ちていく。

 喉はいつの間にか安らかな呼吸を取り戻していた。若菜の身じろぎを感じたのか、燕尾服は若菜を軽く離し、襟元を近づける。顔色を確かめられている気がして、若菜はなんとなく顔を背けた。

 透明な冷たい手が頬に触れる。黒い液体に汚れた顎に触れると、燕尾服は動揺するかのように肩を振るわせた。――不思議だった。自分であんなものを食べさせようとしたくせに。

 若菜は燕尾服に手をとられ、立ち上がらせられた。部屋の出口へ向かってぐいと手を引かれる。ここに連れ込まれたときのような有無を言わせぬ力だ。若菜はつんのめりそうになりながら必死について歩いた。その頃には眼も闇に慣れてきていて、足元に無数の瓦礫の山が点在しているのもぼんやり見えていた。

 連れて行かれたのは屋敷の奥。元は一面にガラスが張られていたのだろう、空っぽの大きな窓枠に囲まれた石畳の空間だった。窓辺にひび割れだらけの黒ずんだ浴槽が置かれている。ようやく月明かりの下に出られて、若菜はほっと胸を撫で下ろす。

 だが安堵も束の間、燕尾服の袖が近づき、若菜の服の後ろのリボンをするりとほどく。

「えっ」

 リボンが解かれ、背中のチャックが降ろされた。

「ま、待って、ちょっと待って! ねえ!」

 ゴスロリが肩からするりと脱がされる。シュミーズもパニエもドロワーズも靴下も、すべてが慣れた手つきで次々に剥がされ、若菜はあっという間に一糸まとわぬ姿になってしまった。

 夏もようやく過ぎて、日によっては秋風が顔を覗かせるくらいの季節だ。月明かりの下で裸を晒され、若菜は震えながらその場に座り込み、必死に自分の肩を抱きしめていた。

「い、いや、いやああああ!」

 頭を抱えて声の限りに叫んでいると、上からばしゃりと冷たい水がかけられた。
 あまりに突然のことで声が出ない。前髪からぽたぽたと落ちてくる雫は黒く濁っていた。

 思わず顔を上げる。燕尾服は、いつの間にか錆びついた金属製のまるい器を手にしていて、浴槽に溜まった液体をすくい上げていた。
 それが再び若菜の頭からばしゃりと浴びせられる。何度かかけられたあと、どこから取り出したのか、ぼろぼろの布きれで背中を拭かれた。

 もしかして、と頭が状況を理解しはじめる。

 ――体を、洗われている?

「待って、それ泥水! 泥水だから!」

 若菜は霊の手を振り払い、半狂乱になって怒鳴りつけてしまった。

「やめて! お願いやめてよ! 汚い! 汚いから!」

 燕尾服の動きがぴたりと止まる。若菜の言葉を理解できないのか、それとも泥水を泥水と理解していないのか、膝立ちのまま不思議そうに若菜のほうを見ている。
 若菜は息を吸って、吐いた。自分も同じように膝立ちして、真正面から霊の透明な顔を見上げた。

「わたしの体、洗おうとしたの? でも、これは泥水なの。さっきの食事……スープとワイン? なんでもいいけどあれも泥なの。あなたはそれでいいかもしれないけど、わたしは生きてるから受け入れられない」

 燕尾服は袖の先をこちらに向けたまま、ぴくりとも動かない。まるで彫像のようだ。若菜はおそるおそる後ずさった。それでも霊が動かないのを見るやいなや、そろそろと腕を伸ばし、脱ぎ捨てられた服を抱えて一目散に走り出した。

 錆びついた窓枠を飛び越え、庭に踊り出る。月が黄色い光を落とす庭の小径をひた走った。後ろから燕尾服が追いかけてきている気がして振り返りたかったが、一度でも振り返ればまた捕まってしまう気がして、若菜は脇目も振らず呼吸もままならないまま走り続けた。

 どれだけ走っただろう。生い茂る木々のあいだに麓の景色が見え始めたころには全身の肌がひりひりと痛んでいた。肺がきしみ、足の裏に鋭い痛みが走る。若菜はようやく立ち止まって、ぐっと下唇を噛みしめながら思い切って振り返った。

 背後に続く獣道は、塗り込められたように真っ暗闇だった。動くものの気配がどこにも見当たらない。そのとき、麓をぶうんとバイクが走り抜けていき、若菜は自分が素裸であることを思い出した。
 慌てて逃げ出したせいでゴスロリしか持っていなかった。つまり、靴下と靴がなかった。若菜は頭からワンピースを被り、パニエとドロワーズを穿き込むと、裸足のまま道路に出て行ったのだった。

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