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透明な紳士と、透明になりたかった私

第五話 こもりうた


 次に目が覚めたとき、若菜は再び暗闇のなかにいた。
 何か、あたたかなものに横抱きにされて、ゆらゆら揺れている。

 ――これは、腕。あの燕尾服の、腕……

 若菜は暗闇のなかで目をしばたたいた。闇に馴染んだ瞳が、ぼんやりと燕尾服の襟元の輪郭をとらえる。自分が彼の腕に横抱きにされていること、その腕にゆらゆら揺られている状況をじわじわと飲み込んでいく。

 彼は鼻歌まで聞こえそうなほど軽やかに若菜を揺らしていた。まるで赤子をあやすかのように。
 腕のなかで若菜の身じろぎを感じたのか、彼はすっと動きを止め、こちらを覗き込むように襟首を近づけた。

 頬に、ひやりと軽い感触を感じた。それが彼の、唇だったのではないかと思い至ったときには、若菜の視界が再び真っ黒く塗りつぶされていく。この〝黒〟は、彼だ。
 意識がぼんやりとゆらぎだす。熱に浮かされたように頭がぼうっとする。彼が目の前の少女を〝エマ〟と認識したからだろうか。

 ひた、ひた、と冷たい口づけが、両の頬に、持ち上げられた手指の先に落ちていく。体がかすかな浮遊感に襲われ、彼が自分を抱いたままどこかに腰を下ろしたのだと知った。氷のような指先の感触が髪を梳き、頬をすべりおちていく。

 これは、なんだろう。
 彼にとって、腕のなかの少女はエマだ。
 エマは、おそらく屋敷の主人の娘だ。
 そして彼は……少なくとも高貴な身分ではない。燕尾服という名の仕着せを着た使用人。家令か執事か従僕か……そのどれであっても、主人の娘にこんな触れ方ができるものではない。

 では、今の状況は何?
 視界を閉ざされ、語感のすべてを彼に奪われているからこそ、感じる……彼の手は、当然のようになんのためらいもなく愛でている。まるで、大昔から彼女に許されているかのように。
 若菜はほんの少し身をこわばらせた。彼とこれほど密着してしばらく経つ。そろそろ一線を超えられるかもしれない。

 でも、なぜだか嫌だとは感じない。ただ覚悟がいるだけだった。この暗闇に包まれているあいだ、自分は彼のものだと、自然とそう感じていた。
 しかし彼の冷たい感触が唇に触れることはなかった。意識が朧の霧に沈んでいくとき、若菜は思わず手を伸ばしていた。

 ――お願い、帰さないで。

 はっと瞼が開かれ、若菜は飛び起きた。窓のカーテンを貫く陽がまぶしい。ふわふわピンクの部屋着とベッド。髪から清潔なシャンプーの香り。

 自分がエマではなく、春風若菜だということを、改めて思い知らされた。

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