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透明な紳士と、透明になりたかった私

第十二話 燕尾服の使用人

 県境に広がる別荘地のなかを一台の軽自動車が走っていた。車はうろうろと迷うように別荘地内を一周した後、奥まった箇所に建てられた白塗りの別荘の前で停車した。

 車の中から、二十代と思しき男女が降りてくる。男のほうはなんの変哲もない、ごく普通のサラリーマン風の見た目をしているが、女のほうは全身真っ黒なドレス姿で、緑に囲まれた別荘地のなかでひどく目立っていた。

 何しろ男に比べて頭一つほど背が高く、長い黒髪を縦に幾重にも巻いて、頭から垂れた黒いレースが顔の半分を覆っている。パニエによって大きく膨らんだスカートの裾には青い十字の刺繍が施されており、揃いの鞄にも同様の刺繍が見えた。

「春風さん、やっぱりその服、ちょっとびっくりされちゃうんじゃないの」
「今さら言ってもしょうがないでしょ。ゴスロリで行きますって言ったからたぶん大丈夫」
「え、そんなこと電話で言ったの……」
「はい、木村くん、インターホン押して」

 有無を言わせず指示され、木村綾斗はしぶしぶ扉の前に立ち、呼び鈴マークの描かれたボタンを押した。涼やかなベルの音がドアの向こうから聞こえてくる。やがてがちゃりと扉が開かれ、一人の女性が姿を現した。

「はあい――ああ、あなたもしかして、お電話の」
「はい。春風若菜と申します。こちらは助手の木村綾斗です」若菜はにっこりと笑みを浮かべる。

「まあ、まあ。素敵なお洋服ね。私は日向彩智です。今日は遠くからよくお越しくださいました」

 日向彩智という女性は50代後半といった風貌で、少々ふくよかな体にブラウスとスカート、エプロンをつけていた。部屋の奥から甘く香ばしいバターの香りがして、若菜は思わず息を吸い込んでしまう。

 居間に通された二人は言われるがままソファに腰かけ、周囲をぐるりと見回した。あたたかな色の木材を重ねたロッジ風の壁のあちこちに、パッチワークキルトが飾られている。

「私の手作りです。なんだか恥ずかしいわね、素人仕事で」茶器の載ったトレーを手に、日向彩智は控えめに笑う。

「いえ、とてもかわいらしくて……もし売り物なら欲しいと思ってしまったくらいです」
「まあありがとう」

 彩智は照れたような笑みを浮かべ、ローテーブルに茶器を並べて紅茶を注いだ。「どうぞ、召し上がって」と促しながら彼女も向かいのソファについてくれた。

「ありがとうございます」

 若菜はさっそく紅茶のカップに口をつける。爽やかなブレンドティーの香りが鼻を通り抜け、長い車の旅路の疲れが和らぐような心地がした。

「それで、なんでしたかしら……お電話では確か、うちのご先祖さまのお屋敷がどうとかって……」
「はい。こちらをご覧いただきたいのですが」

 若菜の言葉に続けて、綾斗がスマホの画面を見せる。そこにはかつて炎に包まれる前の廃墟の屋敷が下から見上げるような角度で映っていた。彩智はしばらくじっと見入った直後、はっと息をのんだ。

「ちょっと待っていただける?」

 と腰を浮かせ、事前に用意していたのだろう、奥の棚から古いアルバムを取り出して、最初のページを開いてローテーブルの上に置いた。

「すごくボロボロだけど、確かに面影があるわ。この屋敷に間違いありません。これは私のご先祖様が当時勤めていたお屋敷です」

 日向彩智が指示した写真には、真っ白く塗られた木造二階建ての邸宅が写されていた。庭先から撮影したのだろう、薄いグレーの屋根は見上げるほど高く見えた。

「確か春風さんたちは、廃墟マニア……でしたっけ?」
「あ、はい、ええと、廃墟を撮影して回るのが趣味でして。実は学生時代にたまたまこの屋敷を目にして、すごく美しくて一目ぼれしてしまい、どこかにこの屋敷のことを知るかたがいらっしゃらないかとずっと探していたんです」

 若菜は緊張に押されるように口を動かしている。綾斗は少し心配げに彼女をちらりと見やったが、すぐにアルバムへ視線を戻した。

「日向さんのご先祖様は、こちらでお勤めになっていたんですよね」

「はい。使用人見習いだったようです。このお屋敷のご主人はドイツのお医者さまだったそうで、大正中期にこのお屋敷を建てて暮らしていたみたいですね。ですが、昭和初期ごろ、突如祖国に帰られたとか。そこで使用人も解散になったはずですから、ご先祖さまも……」

 彩智曰く、先祖の手記などは残っておらず、当時のことがわかる資料はかろうじて朽ちるのを免れた十数枚の写真と、当時の役所に残されていた数点の記録ばかりだという。当時の民俗学において貴重な資料と言われ、一時期は歴史資料館などに展示を許可していたのだそうだ。

「あの……アルバムを拝見してよろしいでしょうか?」

 若菜がじりじりと身を乗り出す。たずねた声は乾いていた。

「ええ、どうぞ。あ、よろしければ手袋をお使いになって」

 と、彩智が薄い布製の白手袋を二人に差し出した。若菜は丁重に受け取り、手袋をはめてページをめくる。

 初めはいろいろな角度から屋敷の外観や庭園、内装を映し出した写真が続いていた。玄関ホールや二階の回廊、食堂など、ところどころ記憶と面影の重なる部分がある。若菜は唇をわずかに開き、どきどきと胸を高鳴らせながらゆっくりとページをめくっていった。

 着物の女性が数名、笑顔を向けている写真がある。みんな紐で袖をくくっていて、手回し洗濯機やたらい、物干しざおが写り込んでいることから、洗濯部屋だと推察された。
「この人たちは、女中さんですか?」

 綾斗がたずねると、彩智は微笑みながらうなずいた。

「ええ。もうすぐ私のご先祖さまも写っているはずです」

 二ページ進むと、袴姿の青年が二人写並んでいる写真があった。

「その右側が私のご先祖さまです。地元からこのご一家のもとへ、奉公に出されていたようですね」
「袴姿ですが、書生ということですか?」

 今度は若菜がたずねる。日向彩智は静かに首を横に振った。

「いえ、使用人です。主に庭仕事などの肉体労働と、ご主人さまの身の回りのお手伝いをしていたとか」
「身の回りのお手伝い、ですか? 執事は雇っていなかったのですか?」
「執事?」
「ドイツの方のお家なんでしょう。執事がいませんでしたか? 燕尾服を着た……」
「燕尾服……」

 日向彩智は指先を顎に当て、視線を上ずらせた。

「ええと、歴史館の方がおっしゃってたんですけど、どうやらこのご一家は大変な親日家だったそうで、少なくとも日本に滞在中のあいだは日本人しか雇わず、使用人全員に着物を着せていたんだそうです」
「――え」
「ですから、燕尾服の執事がもしもいたとしたら、それは祖国から連れて来られたドイツ人ということになりますけど……ただ、記録にそのような記述はありませんから……」

 日向彩智は若菜からアルバムを受け取り、ページの束を丁寧な手つきで掴み、最後のページを開いた。

「これは、ご一家に勤めていた使用人全員を集めた集合写真です。ほら、みんなお着物でしょう?」

 若菜と綾斗もアルバムを覗き込む。屋敷の裏庭と思しき場所で、着物姿の日本人の男女が整列し、眩しげに目を細めて微笑んでいた。

「この写真だけ、撮影者の腕が違うそうなのです。おそらくプロのカメラマンを呼んで屋敷内の人間を撮影してもらったのでしょう。この撮影の前か後にご一家も撮影されているはずです」
「あ、あの」

 若菜は慌てて鞄を開き、ジップロックに包まれた写真を取り出した。

「これが、そうではありませんか」

 若菜は震える手で、ジップロックごと写真を手渡した。日向彩智は写真を見るなり、目を瞬いた。

「これは……いったいどこで……」
「すみません。実は学生時代、廃墟となったこのお屋敷に立ち入ってしまって……部屋の床下の箱に丁重に収められていました」
「……私には、わからないけれど」日向彩智は、写真に写る一家の姿を食い入るように見つめている。「きっと、そうだわ。歴史館の記録と一致する……」

 そこまでつぶやいて、日向彩智は不思議そうな顔をした。

「やはり執事らしき方は見当たらないわね。本当に日本人だけを雇っていたんだわ」

 綾斗はふと寒気を感じて、反射的に隣を見上げた。
 若菜は唇をぽかんと開いたまま硬直している。呼吸さえもが止まっている。

 ――ありえない。

 ――わたしは、確かに見た。触れた。感じた。抱きしめられた。頬に触れる冷たい息吹さえも覚えている。
 
 ……あれは、だれ?

       わたしは、いったい何に

 胸の内側にさげている鎖の冷たい感触を突如として思い出す。錆びて脆くなった鎖を新しいものに取り換えたばかりなのに、時計のあたる胸の中心からぞわぞわと錆びに侵されていくような悪寒がして、若菜はそれきり、何も問えなかった。

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