見出し画像

ガラテイアになんぞ成りたくないね

世の中を眺めていると、割に多くの女性は『ガラテイアの呪い』にかかっているように思う。いま私が考えた名称なので安心してほしい。軽く説明しよう。
※今回も『自分の中のもやっとした気持ちを紐解く』という感じのnoteです。超自論の領域展開なので、あしからず。(最近呪術廻戦読み始めました)

ガラテイアとは、『ギリシャ・ローマ神話』(トマス・ブルフィンチ)に出てくる、とある男の理想を形にし作り出した女のことだ。元は男が制作した彫像だったが、彫像に恋をした男の接吻により人に”変身”し、後に男の妻となる、そんな話だ。
この男が、『ピグマリオン効果』で有名なピュグマリオンである。

ピグマリオン効果
教師が,児童・生徒の学業成績の達成についてある期待を抱き,その期待が実現するように行動することによって,実際に子どもの学業成績に向上が見られる現象をいう。自分が彫った彫刻に対して,強い愛情を込めた結果,その彫刻に生命が宿ったというギリシア神話の主人公ピグマリオンにちなんでローゼンソールRothenthal,R.によって名づけられた。
コトバンクより

要は、主に人材育成面で効果が期待される教育心理学のテクニックである。ざっくり言えば褒めて伸ばす教育のことだ。私も刀を鍛えるが如く叩かれるより褒められたい。社畜歴がそれなりになりつつある社会人もそう思います。

ただこれ、カップル間の関係で考えるとどうだろうか。
現にピグマリオン効果を恋愛に絡めて紹介している記事などがネットでは散見される。そもそも、『理想の女を作り上げる男の話』が元なのだから、正直恋愛応用の方が原作の筋に沿っているといっても良いだろう。
この話で有名なフィクションを挙げると、かの有名な『マイフェアレディ』と、その原作戯曲だ。
しかもこの原作戯曲、映画とはタイトルが違う。その名も『ピグマリオン』。もうめちゃくちゃにそのまんまである。
この二つの作品のあらすじはこうだ。ロンドンの下町の花売りの少女イライザのひどいコックニー訛りを聞いた言語学者ヒギンズが”正しい発声”と”淑女としての教育”を施していく過程で、淑女として美しくなるイライザに惹かれていく…という話だ。
映画はイライザとヒギンズが結ばれることを暗示して終わるが、原作たる『ピグマリオン』は違う。教育をうけるうち、自我・自立心が芽生えたイライザは相変わらず『花売りの娘』として自身を軽んじるヒギンズに怒り、彼を捨てて出て行くのだ。しかも捨てていかれた後のヒギンズが未練がましく『きっと帰ってくるはず』とか自身を慰めているあたり、読んでいてあまりにも痛快すぎて私は大ウケした。断然戯曲派である。

前置きが例によって長くなったが、世の多くの女性は前述の『ガラテイア』であろうとしすぎているように思う。世間に流布している『モテ理論』なんかはいかにも恋愛至上主義的な現代としては見慣れたものだ。女ひとりで生きているといまだに『賞味期限切れ』だとか『売れ残り』なんて揶揄されるが、親に勝手に結婚相手を決められ、結婚・出産・子育てをすること以外に生きる選択肢のなかった時代に比べれば、『イライザ』であることを選べる現代に生まれてよかったと痛切に思う。

ではなぜ少なくない世の女性は『ガラテイア』であろうとするのか?
フェミニズムにある程度親しんだ人は想像がつくだろうが、乱暴な言い方をすれば、ピグマリオン(男性)に都合がいいよう女をガラテイアにするべくせっせとガラテイア量産レールを作って『女はガラテイアになるべし』と刷り込みを行っているからに他ならない。
そもそも婚姻関係なんて、自立し自分の食い扶持が稼げる女にとって子供を持つ以外で純粋な旨味はそう多くないんじゃなかろうか。よき理解者として伴侶を、という人もいるだろうが、私はアロマティック・アセクシャル自認(恋愛感情を持たず、人に向ける性欲もない)の女なので、そういった欲求も強くないし、『この人とならデメリットを飲める』という奇跡のような人間(現段階では婚姻できるのは男性に限るのでさらに可能性は激減する)でも現れない限り、マジで、本当に、ない。ゼロだ。子供も希望しないので小数点以下もない。今がんばって考えているが、今際の際の病院で看取ってもらえることくらいだろうか。タイミングが合わなかったらそんなささやかなメリットすら末期の鼻息で吹き飛ぶわけだが。

ちなみに、ピュグマリオンを元にした言葉はもう一つある。「ピグマリオンコンプレックス」だ。自分の作り出した人形に恋をしたピュグマリオンを指して「人形偏愛症」を意味することもあるが、広義で言えば女を人形のように扱う性癖を指す。分かりやすい例が『源氏物語』の光源氏だ。
(※ちなみにこれは学術的に認識されている専門用語ではなく、流行語的ニュアンスで広まった和製英語の一種だ)

ちなみに、このnoteを書くきっかけになったのは、恋愛コンサルタントらしき人が呟いた『好きな人ができない病の人って、要はどんな手を使っても惚れさせてこようとする人が寄ってこないだけでは?』という旨のツイートが発端だった。
見た直後は『ま〜たロマセク以外は全部病気論者か…』と思ったし、正直かなりカチンときた。ただ、前後の文脈や他のツイートを見るとロマセク向けしか想定していない方のようだし、『セクシャルマイノリティは矯正されるべきか否か?』という話はこちらのnoteで思いの丈を書き殴ったので今回は別の観点で行こうと思う。


先ほども述べたとおり、件のツイート主はロマセクに向けて発信しており、アロマンティック(性的マイノリティ)の人間のことなど念頭にすらなかったのだろうが、そんなことは置いておいても、そもそもとしてこういう認識が女を人形として扱うピグマリオンコンプレックスの根元になってるとは考えないのだろうか。だとしたら、とても危険なことだ。『女と見るやワンチャン狙える!』という認識を持った男性は悲しいかな少なくない。正直体感かなり多い。私はどう見ても男受けしない、めちゃくちゃ強そうな格好しているがそれでも痴漢にわんさか遭遇したし、夜道に背後を確認する姿はデューク東郷もかくやというレベル感だし、職場で求めてもないのにモーションかけられもした。『外』に出るたび、自分の肉体がいかに脆弱かを認識しては悔しくなる。昨今の事情で外出する機会が減ったので、世間が”女という肉体”をどう見ているかというのをビビッドに感じ取ってしまい、しんどくなってしまうのだ。

そんな訳なので、『いかにモテるか=自身の価値と思っている人間』は少なくないのだなあ、と思いながら件のツイートにぶら下がるリプたちを眺めた。そしていろいろ通り越して悲しくなった。
『マズローの欲求5段階説』でいうところの自己実現を自分で満たせない分、他者承認欲求に過剰に向かった結果”ガラテイア”として”求められている”ことが自己実現だと錯覚してるのでは?と思うのは穿ち過ぎだろうか。他人に性的に求められることがステータスだなんて、性嫌悪のある人間からするとグロテスクすぎて直視するのも怖い。
現代は家や親の意向で無理やり結婚させられることも、子供ができずに「石女」と罵られることも、『女の子はお嫁に行くものだ』と入社数年で入った会社を寿退社することがマストでもない。まだまだ”結婚すること”はメジャーだが、男女問わず全員が自由意志のもと選択する権利を持っているはずだ。

主体性のなさは自我を殺すことにもなり得る。美しく夫に従順な妻ガラテイアとして永遠に自我を持たずに居られるのならそれはそれでいいだろうが、人間は人形にはなりえない。心のどこかで違和感や苦しさを抱えながら、『わたしはガラテイア』と自身に呪いをかけながら生きることほど辛いことはない。現にマジョリティだと錯覚していた過去の私がそうだったからだ。『みんなこうしてるから』『適齢期に彼氏の一人もいないだなんて恥ずかしいことだ』なんて呪文を唱えながら、私なりにガラテイアであろうとした。私はぶっちゃけ堪え性もなければ自我も激強の女だったので、すぐに我慢の限界が来てガラテイアの面と彼氏をかなぐり捨ててイライザへの道を歩むことにしたわけだが。それでも、葛藤している時期は本当に辛かったことを覚えている。

結婚したい人はすればいい、子供が欲しい人も同様だ。ただ、『いい年こいて独身だなんて』という価値観すら払拭できていないのに『多様性』なんてお題目、ただ白々しいだけだ。
はるか昔、ギリシャ神話のピュグマリオンが敷いたレールを走るだけが女の人生ではないのだ。ただそれだけが言いたい。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?