型の有る・無し(『犬王』についての辛口感想)

犬王を見た。アニメーションへの感動3割、共感性羞恥7割で湯浅監督のファンでありながら演劇・音楽のオタク的にはかなりキツいと言わざるを得なかった…。

古典って、そんなに悪し様に言われるもの…? 


(以下、犬王に対しての辛口感想です。結構否定的なのでお気をつけて。ネタバレもしてます。)


やりたい事はわかるのだ。『持たざるものたち』が『古典からの反抗』『成り上がり』としての『ロックミュージカル』というのは音楽史的な側面を鑑みてもある程度自然な流れだろうと思うし、チョイスされた時代も室町時代なので、劇中人物が『傾く(かぶく)』のにもまったく無理はない。室町時代は歌舞伎のおこりである出雲阿国の登場した時代でもあるし。

ただ、第2の演目たる『鯨』まではギリギリあった琵琶がどんどんギターに取って代わり、話の中盤以降ではほぼバックミュージックから消える始末だ。アンプもスピーカーもなしに、コードも繋がってない“琵琶”でどうやってその音出すんだ!?とただただ困惑した。(木で組まれたスピーカー的な何かとかがちらとでも映ればもう湯浅監督世界のダイナミック室町が見れたので、それならそれで良かったと思う。鯨の舞台演出はファンタジックながらも一応ある程度ロジカルに舞台セットの描写などもあり、リアリティライン的にもいい塩梅であったと思う。)要所要所で挟まれる観客のバンギャ・グルーピー的仕草も正直寒々しい。なぜなら、劇中の市街の住人皆が夢中になる“新たな猿楽”は、現代人たる私には目新しくも面白くもなかったからだ。


劇中の人物たちは口々に友有座の演目を『新しい猿楽だ』と言うが、ロックよりも猿楽のほうが目新しい現代人(私)的には使い古された『ロックミュージカル』を『新しい猿楽でござい』と大仰に出されても正直飽き飽きしてしまう。だってぶっちゃけ劇中の傾いた表現は、いろんな演劇や映画、ミュージックシーンで飽きるほど擦られすぎて、なんなら世間的にネタとして扱われるような演出ばかりだからだ。古典からの換骨奪胎という意味ではジーザス・クライスト・スーパースターなんかが近いだろうか。ミュージカルに造詣が深い訳ではないが、近いものはあると思う。ただこれも70年代から演じられている演目なので、2022年現在目新しいとは言えない。(素晴らしい演目であるし、大好きではあるものの)

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『ジーザス・クライスト・スーパースター』 (Jesus Christ Superstar) は、聖書を題材にイエス・キリストの最後の7日間を描いたロックミュージカルである。ティム・ライスが作詞、アンドリュー・ロイド・ウェバーが作曲をそれぞれ担当し、1971年にブロードウェイで初演された。(Wikipediaより引用)


古典的なロック、パンク、そしてグラムロックと、4つの舞台を通してテイストを変え観客を飽きさせないよう工夫しようとしている所は見える。しかし、音楽的にもかなり言いたい部分があるが、劇中のダンスもかなり気になった。私自身、能楽や歌舞伎には明るいとは言えないものの何度か観劇したことがある。日本の古典芸能には、西洋的・あるいは現代的なアクロバティックな動きではない、静の動きの妙というのがあると感じる。能は一度程しか見たことがないので歌舞伎の話になってしまうが、歌舞伎役者はとにかく動く際の無駄がなく、重量などないように軽やかかつ静かに動く。ついつい、大見得や立廻りなど、華美な“動”にフォーカスされがちだが、それ以外の動きは息を呑むほどに現実離れした静けさである。だからこそ、華美な大見得がより際立つのだ。

対して劇中の新たな猿楽はどうだろうか。ケレン味溢れるアニメーションがふんだんに使われているものの、ミュージックビデオか大道芸といった風情である。これもやはり、見た目、あるいは動きの派手さを追求した結果緩急を欠いていて退屈に感じる。

(ちなみに、クライマックスに現れる犬王の新たな『顔』は父にも母にも兄弟にも、劇中のどの文脈にもない顔なのでマジで『誰!?』と声が出そうになった。もうここまでグラムロックをやるならもはやデヴィッド・ボウイ完コピの顔だったら逆に許せたかもしれない。そもそも、なんで素顔が化粧の顔なんだ…あれが客が見たがっていた『犬王としての面』ということなのか…。あまりにも浮いていて、面の下に面をつけてるのかと思ったほどだ)

『鯨』にはあった『舞台のパワー』はそれ以降どんどん訴求力をなくしていき、リアリティラインも曖昧になり、ファンタジックというよりも上滑りしたなにかになり、結果的に室町という舞台から切り離された、ただの形骸化した、陳腐な『ロックミュージカル』になってしまっている。

何も『室町時代にそぐわないからだめだ』などと言うつもりは毛頭ないが、リアリティラインの不安定さに加え話の整合性のつかなさ、なによりミュージカルシーンの緩急のなさと、とにかくノイズが多い事が問題だと感じる。見る側を『現実』に引き戻さない圧倒的なパワーを持った作品を、湯浅監督はいくつも世に送り出しているだけに悔しい。


悲しいかな一番素直に格好いいと感じた『舞台』は劇中最初の『猿楽』だった。ちなみに、演じているのは犬王ではなく、犬王の父である。

正直話の吸引力も犬王より友有(友魚)より、犬王の父が一番共感を呼ぶのも惜しい。芥川の『地獄変』しかり、人が芸の道を邁進するあまり鬼になってしまうのは、普遍的でありながら皆がどこかで共感できるキャラクターではなかろうか。私的に劇中名前を与えられてないことに驚く程度には一番行く末が気になったキャラクターであった。

犬王と友魚も、はじめから人の理から逸脱した存在であるし、芸の道に迷いもなにもなく、出会ってすぐにさしたる葛藤もなしに意気投合し、舞台を作り上げる上での障害もさしてない。要するに彼ら主人公たちは観客に共感させる余地がないのだ。

ただ、彼らの“転落”を描く上での蜜月として、あえて障害を取っ払ったのであれば、より転落が強調されてよかったのではなかろうか。

異形から人の形を得た犬王は焦がれていた板の上に立つことが許されるが、それと引き換えに友は刑死し、足利家によって保護される代わりに己の芸(アイデンティティ)を封じられる。そこに必ずや芸の道を歩む上での葛藤が生まれ、おそらく父と同じように鬼になるかどうかの岐路に立たされるであろうことは明白で、…ここが新たな話のキモであり、その後の友魚との再会もより感動的になったのではないかと思えてならない。(苦渋の表情でお上に平伏する犬王の水干の袖に包まれた両手は、犬のように這いつくばっていた名無し時代の犬王を想起させるので、この辺も描こうとはしていたのであろうことが推察される)

正直、人の身に変わる直前、異形の素顔を一瞬でも見せてくれたなら、その後のグラムロックフェイスになってもここまでの違和感は無かったのかもしれない。それほど、犬王の新たな顔はあまりにも浮いている。『人の身を得てなお異形の犬王』という観点であれば良いのかもしれないが、そうであればその後の『人でありながら現実離れした姿』を描かなければただただ違和感を残すだけだ。

しかし、彼らの“転落”を描くにはあまりにも尺がない。正直、ミュージカル映画などにありがちな『歌ってるとこで話が止まる問題』は犬王にも強く感じるので、正直一曲分くらい削って人間模様に尺を割いてもよかったのでは…と思ったりなどする。


アニメーションは良かった。めしいた友魚の視界の描写や、終盤、処刑された友魚の首が転がる所なんかは、古典的な演出ながらぐっときた。主演二人の演技も申し分ない。特にアヴちゃんの『鯨』の歌唱は素晴らしかったと思う。ただ、演出と話の食い合わせがとにかく上手くない。そして何より、『ミュージカル』がキツい。しかし、やりたいことは分かるのだ。それだけに惜しいのだ。だから、こんなにもダラダラと愚痴を書き連ねながらも『型があるから型破り、型がなければ型なし』と言った歌舞伎役者の言葉を渋い気持ちで思い出してしまう。

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