水のようだ(と言われたかった話、回想)
生物のにおいがしない存在になりたい、と願うようになったのはいつ頃だろうか。
ギラギラしている人間はなんだか生臭い。脂臭い欲の匂いを感じて苦手だった。水のようにつかみどころがなくて、死ぬときも存在ごとスッと消えてしまうような、そんなものになりたいと多分長いこと思っている。
ちなみにもし来世があって生まれ変わらねばならないのであれば、なりたいのはくらげである。
実際問題わたしは人間で、もちろん有機物で出来ているので、死ねば腐るし、無論ギラついた欲望だって持っている。なので、『欲を持たない人知を超越した存在になりたい』というより、目指してはいるが到達できるかはわからないから無理せず最終的になんとなく近しいところに居て死ねたらいいななんて思っている。これを人によっては解脱と表現するのだろう。タラタラ数行かけて書いたことが一言で済んだ。やっぱ仏教ってすごいね。
先日、友人たちとお互いをディズニーのキャラクターに例える場面があった。友人たちにピッタリのキャラクターはすぐ思い浮かんだし、お互いの意見を出しながら「わかる~!」なんて言い合っていたが、ふとひとりの友人が「あれ、おかしいな、君にぴったりのキャラが思いつかない」なんて言い出した。言われてみればなるほど、私はディズニーヒロインに憧れた瞬間がないとは言わないまでも、自分と重ねるほどに属性が近しいと感じるキャラクターはこれまで居なかった。
そこから、女性キャラに該当しないなら男性キャラ、それもピンとこないから動物、じゃあもうディズニーは一旦とっぱらおう…と回り道をした挙句、「あれ、君キャラが濃い割に結構つかみどころがないな!?」なんて言われていた。
最終的に「髪はベリーショートだけど男の子になりたい感じもないし、女の子にモテる女子高の王子様的なクールな見た目に反する女の子っぽい”ギャップ”もないし(そもそも高嶺の花感はもちろんない。どっちかっていうと教室の隅で一人遊びに興じる隠キャであった)、君が一番近いのはやっぱり『大豆田とわ子と三人の夫』かごめだと思う。どこまでも素で、性別を超えたつかみどころのなさがある。」という着地に落ち着いた。
(ちなみに、劇中かごめが発した『土食ってみなよ、人生変わるかも』というセリフを素で言いそうとも言われた。うーん、正直わかる)
もとより私はアウトサイダーとしての半コンプレックス的な諦め(どう足掻いてもマジョリティにはなれない、的な)があったし、個人的に、性別ってものは肉体に紐づいているのであって精神に紐づいてはいないという価値観を持っている。できれば無性だったらよかったなと願いつつも肉体に紐づく見てくれはどう見ても”女”なので、無性になろうという努力はあまりする気がなかった。(私はユニセックスよりのファッションが好きなので軽く無性方向になりがちだが、そのへんは副産物だ)
だからこそ、友人の率直な感想は結構意外だった。それと同時に、私も結局ルッキズムに囚われていることも自覚した。私より友人たちの方がよっぽどフラットに見てくれているのだろう。ありがたいことである。
そういえば、前述とは別の友人のお子さん(4歳の女の子)から、4年間ずっと男性だと思われていたというのが昨年末判明した。クリスマスプレゼントを選ぶ際、「chiltは男の子だから、何を選んだらいいかわからない」と言ったそうである。彼女はプリンセスに憧れる”女の子らしい女の子”なので、年中無彩色の服を着て刈り込んだ頭をしている上、彼女から「遊んでいいよ」と渡されたペダルなしのチャリを喜んで受け取って公園で爆走するアラサー人間は実に女の子らしくない。=『男の子だ』と思ったのだろう。いつも彼女と遊ぶときに私とセットとなっている友人はパステルカラーが似合う可憐な女性なので、余計に。全くもって弁解の余地がない。ただまあ、彼女の人生において『人間っていろいろいるんだな』という気付きの一助になったのであれば幸いである。
考えてみれば、”女の子らしい振る舞い”というのを、自我が芽生えてからというものをやった記憶がない。女の子らしくしなさい、と言われたことなんて親を筆頭にそれこそ無数にあるが、なんのためにしなければならないのかわからないものに(しかもやりたくもないのに)迎合するなんて馬鹿らしいし心底シャクだと思っていた。女の体は不便だが、不快感を感じるほどではなかった。人間の体がそもそも不便であるし。
そんな訳で、学生時代、制服のスカートは履きたければ履いたし、寒かったりスカートの気分じゃなければパンツを履いていた。(通っていた学校はパンツとスカートどちらもOKだったので。)私の行動理由は昔からいたってシンプルだったが、クラスメイトに真顔で「性同一性障害なの?」と聞かれたこともあった。「え、違うよ〜、なんで?」なんて流しながら、『だとしたらなんなんだ?君に関係あるか?』と不思議だったし、いまだにその考えは変わらない。
好きな服を着て、自分の性質に合った好きな髪型にする。私はマメな性格ではないので、なるべく手間がかからない素材や髪型を選ぶ。残念ながら背が低いから、丈の長いモードな服は合わせづらいが、工夫してそれっぽいものを選ぶ。服に合わせて化粧もする。自分のなりたいイメージになるべく無理なく寄せていく。書き出してみれば、本当にそれだけだ。
楽に生きていきたい。もちろん、他人に迷惑をかけない範囲で。
水になりたい、と最初に思った時はいつだっただろうか。過去の記憶はあまりストックしないタイプなのではっきりとは思い出せないが、きっと思春期の頃だったろう。周囲の人間がだいたい嫌いで、めちゃくちゃ尖っていて、いつもいらいらして、過干渉気味の親との関係は最悪で、読書と絵を描くことだけに耽溺していた頃。現実ではない世界に没頭することだけが救いで、あとは全部クソだと思っていたが、頭のどこかで”現実なんかクソだと思いたい”から、”クソだと感じている”ということは分かっていたんだろう。だから袋小路に入り込んでしまったどうしようもない思考を全て捨てて、水みたいになりたいと願ったんだろう。
あれから15年ほど経って、まさか他人から『掴み所がない』と評されるとは思っていなかった。対人関係においていらぬ軋轢を生まぬよう”掴み所がないピエロ枠”として振舞うことは多かったが、十年単位で付き合いのある、素を晒すことにためらいのない友人からそう言われるってことは、まさか、多少なりとも水に近づいているのだろうか。そうだとしたら、少し嬉しい。
”天才になるには、天才の振りをすればいい”なんて言ったダリのことを思い出す。(ちなみに、ダリを生い立ちを知るとこの言葉の重みが増すので、もし気になるのであれば少し調べてみることをおすすめする。彼の人生は、アイデンティティの否定から始まるのだ)事あるごとに思い出す、好きな言葉だ。もしかしたらこれが私の座右の銘かもしれない。
「君はかごめに似ている」と言った友人と別れる際、「君はフッと目を離したら死んでそうだから、健康には十分気をつけて」と声をかけられた。友人と私は十ちかく歳が離れているので、順当にいけば私のほうが後を追うのだろうが、咄嗟に「そうだね」と返した。なんか、やろうと思えば消えてしまえそうな気がしていたから。
しかしながら、帰宅して風呂に入りながら、よく考えたら「あんたは100まで生きるよ」と言われる手相だってことを思い出した。水のように消えるにはまだまだかかりそうである。
そんなわけで、今年も気楽にやっていこうと思います。
それでは。
エナジー風呂 (Energy Flo) / U-zhaan & Ryuichi Sakamoto feat. 環ROY × 鎮座DOPENESS
風呂っていいよね。大好き。
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