見出し画像

「ノ」リスケ

 イクラを生んでからというもの、僕とタイコの間には漠然とした間が出来たような気がする。あくまで気がするという程度で実際は仲良く話しているし、イクラの世話もお互いするし、喧嘩もしないし、他の人が僕たちの関係をみたら、仲のいいご家族だと思うだろう。しかし僕からすると何か欠けているように思える。
 そう考えると、僕とタイコは随分ご無沙汰なことに気付いた。そういや最後は何時したっけ?思い返そうとしたが、明らかに二人の情事がイクラがタイコの中にいると発覚する前のことしか覚えていない。二人で一心不乱に腰を振らせていたあの少々焦りに満ちた思い出しか出てこない。タイコは産婦人科の先生から、子供が作りづらいと言われていた。
 でも僕たち頑張って、毎夜毎夜性行為に励んだ。そうして先生の宣告から遠からぬ日にタイコが妊娠したと分かったときはそれはもう悦んだ。僕なんてなぎえさんに自分の放蕩癖でお叱りを受けた以来、大泣きしてしまった。僕は幸せ者だ!あの日、タイコと僕は居間で抱き合いながら「おめでとう」と「ありがとう」を交互に言い合った。
 それから二人でタイコのお腹が膨らんだときに代わりに着る衣服や生まれたイクラのためのおもちゃやお包みなどを早々に買い、二人で頻りに出産後の生活を空想したものだ。もう幸せは僕たちのところへやって来ているけれど、それでもまだ幸せに満ちた生活を考えてしまった。
 タイコに僕は無理なことをさせたくなかったが、彼女は、
「気にしないで、私は大丈夫だから」と言っては良く二人で銀座とか丸の内とかへ歩いたものだ。秋の風が肌をさすり、色づいた葉が枝から離れ、街道を彩る頃、タイコのお腹はでんっと丸く張って、遠目で見ても妊婦さんであると分かるような体型だったが、それでも彼女は元気に僕と歩いた。もう妊娠したのが分かってから七か月程経っていたので、僕はとても不安だったが、一方でタイコの嬉しそうな顔を見るのが好きだった。
 それから暫くしてタイコは出産した。彼女は家の中で急に陣痛に襲われ、台所で破水した。偶然その日は休日だったため、僕は直ぐに彼女を車に乗せ、前に行った産婦人科に連れて行った。逆子だったが、何事もなく無事タイコは出産した。大きく産声を発する元気な男の子だった。生んで間もなく、僕はタイコの所へと寄っていった。すると意識朦朧な状態の彼女は僕の姿を認めて、
「私決めてるの、名前……あなた、この子の名前にイクラとつけてもいいかしら……」と絶え絶えに言った。僕は急にそう言われて驚いたけど、その名前はグゥだった。彼女は直ぐに意識を失って返事を返すことはできなかった。しかし僕は彼女の右手を握って、
「そうだな、イクラにしよう」と誓った。
 数日後、妻子ともども帰宅すると、僕たちは子育てに専念することにした。運がいいことに、僕の会社はそういう育児に対して理解があるところで、家内の子育てに協力したいと言って上司に有給をお願いしたら、
「そうかとうとう子ができたか、おめでとう」と言って快く許可を取ってくれた。「最初は大変だろうが、頑張れよ」
 そうして僕は月に数日程度だが、平日も休みをとってイクラの世話をした。最初は夜泣きだとか離乳食だとか、今まで知らないことがたくさんあって遽しかったが、次第になんとなくイクラの求めていることが分かったような気がして、慣れていった。
 しかし一年経った今、なんだかタイコとの距離が大きくなってしまったような気がしてしまう。あの子育て期で、僕たちはイクラのことばかりを見ていたからなのだろうか。いや、息子は僕とタイコを繋げる愛情の橋だ。寧ろ関係は密接になっていて、生活は未だ幸せだらけだ。それならば、妊娠してからセックスをしていないのが問題なんだろうか?
 僕はこの良く分からない、曖昧な隔たりが僕たちを蝕んで、破滅させるのではないかと不安になった。怖い。愛しのタイコがいなくなってしまうのではないかと心の奥底で考えるようになり、それは度々夢の中で発現した。些細なことで生じてしまう僕たちの別離。僕はその間魘され、特にタイコが僕に別れを告げる瞬間、恐怖が最高潮に達し、僕は跳ね起きたものだ。
「どうしたの?」寝ぼけたタイコが僕にそう訊ねる。
「いや、すまない」僕は頑張って平静を装うとする。「悪夢をみてしまったんだ」
「大丈夫?」
「ああ、大丈夫さ……」そうして二人はまた沈黙する。タイコは寝ただろうか?拍動は未だ落ち着かない。額の汗が枕に染み、僕は小刻みに震えている。時計のカチッカチッという音が、ラジエーターの音と混ざり合って、耳の中へと入っていく。僕は小声で「これはなんでもないんだ」とつぶやき、カーテンがかけられた窓の方を見つめる。暁闇を経て陽光が差し込むまで。
 ある日僕はそのことを相談するために、従妹のサザエを銀座の喫茶店に呼んだ。この件は血の繋がった人間にしか語れないというどこか後ろめたい気持ちがあったからだ。
「……で、眠れないわけね」
「そうなんだよ、一体どうしたら」
「ノリスケさんらしくないわね」サザエは微笑しながらそう言う。「でも、確かに深刻そうな話題ね」
「僕は別にタイコのことが嫌いってわけじゃないんだ。でも関係が冷めてしまいそうな気がして、それがやはり怖いんだよな。イクラのこともあるし」
「なるほど。私もノリスケさんだったら、そんな気になるのかしら」うーむと声を唸らすサザエ。僕はその様子を見て、少し安心した。悩みを打ち明けるということは一種の精神安定剤だ。というのも悩みは必ずしも合理的ではないから。
「しかしノリスケさんったら口が軽いくせに、このことは私にしか言えなかったのね」サザエはそう言って一笑する。ぐうの音も出ない。僕も彼女の笑いにつられて、呆れたように失笑した。「それ言われると、何も言えないよ」
「よし決めた!」サザエは何か思いついたように、大声を出した。周りの客がこっちを振り向くが、彼女はお構いなしだ。
 「今日はノリスケさんと一日を過ごすわ!」僕は唐突な提案に唖然とした。それも大胆だ。まさかさっきの話を忘れてしまったのか?
「いや、僕はタイコさんがいるんだよ?そんなこと怖くてできないよ!」そう言うとサザエは大笑いして、
「ああ、そんなわけないじゃない。ただノリスケさんには昔の生活を追体験してもらおうと思っただけよ」と付け加えた。「例えば、散歩とか良くしてたのよね?ここら辺を」
「まあ、そうだね。良くこことか歩いてたよ」僕は胸をなでおろしながらそう答えた。
「なら今から散歩してみましょうよ、もしかしたら解決するかもしれないわ」
 そういう訳で僕たち二人は喫茶店から出ると、そのまま銀座を散策し始めた。冬だからかコートを羽織らないと寒く、辺りを見渡すと同じような風体の人々が何人もいて、それ故に猶更冬を感じさせた。見上げると程よい明るさの青空が広がっていて、こんな日なのに寒いのか、と不思議な感覚になる。そう思いにふけっていると、どこか懐かしく感じられた。こう考えること自体、一年以上もやってなかった。
 サザエは、きらびやかな洋服屋を見つけると、
「ここ見ていかない?」と言って、僕が返事するまえにその中に入っていく。仕方ないから僕も店に入ってサザエと一緒に服を見る。婦人服が並ぶところを一緒に歩いていると、急にサザエが薄紅色の綺麗なワンピースを取って体にあてがいながら、
「どう似合っている?」と気取って聞いてくる。
「ああ、似合ってるよ」と僕は答えた。別にお世辞という訳ではなく、実際に似合っていたからそう答えた。でも僕は心のどこかで、タイコがこれを着たらとても素敵なんだろうなとロマンチックな気持ちになった。
 様々な所に行って楽しんでいると、直ぐに日が暮れた。「冬の太陽は駆け足で沈んでいく、その速さが風を生み私たちを冷やしていく」。聊先生はこう表現していたな。立ち並ぶビルを抜けて冬の風が僕たちの横を突き抜けていった。未だ朱を帯びている夜の空に、星々が顔を出して、煌々と光っている。
「オリオン座が見えるな」僕は無意識に呟いた。
「あら綺麗」サザエはそう言って空を指さす。「他の星座は良く分からないけれど、オリオン座だけは鮮明に見えるわね」
「そうだね」遠き思い出の中で、僕はタイコとオリオン座を眺めたときのことが俄かに浮き出てきた。一年前の冬の夕暮れ、大きくなったお腹をさするタイコが銀座の夜空を見つめ、
「あれ、オリオン座ね」と僕に聞いてきた。
「もう冬だからな」
「私はエオスかしら」彼女は不意にそう呟いた。
「そうだね、第一にもう結婚しているわけだし」そう僕が冗談を言うと、彼女はふふふと笑った。
 「もう帰らないと、お父さんに怒られてしまうわ」サザエがそう言うと、僕たちは別れた。電車に乗って帰ろうとしたとき、ふと目が潤んで涙がこぼれそうになったから、僕はずっと上のつり革広告を見て堪えた。
 家につくと、タイコが、
「おかえりなさい」と言ってくれた。「どうだった?」
「ああ、楽しかったよ」
「そう良かった」タイコはにこりと笑って台所へと再び向かった。「今日はあなたの好きな肉じゃがよ」
「本当か!?」僕は嬉々としてそう答え、胸を弾ませながら自室に向かい、着替えた。
 夕食を済ませ、イクラと遊んで、夜も更けると、僕はタイコと共に寝室に向かい、二人とも横になった。そして目を瞑っているうちに眠りについてしまったが、夢の中は僕とタイコとイクラが仲良く上野公園の桜を見ながら、タイコが作った弁当を食べるという和気藹々としたものだった。
 僕は夜明けに目を覚ました。どこか健やかな気分だった。窓からは夜明けの弱弱しくも確かな光が差し込んでいて、僕はそれを見つめながら、
「今年の春は花見に行こう」と呟き、二度寝した。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?