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プリズム劇場#001「虹を送る人」

こちらはラジオドラマ番組『小島ちひりのプリズム劇場』の作品を文章に起こしたものです。
是非、音声でもお楽しみください。
【stand.fm】
https://stand.fm/episodes/64efd12372fbe0dd6b38cdfd
【YouTube】
https://youtu.be/WxC9wNeCgfo


「こんにちは。松江です」

 保育園の玄関で声を掛け、少し濡れてしまった上着をハンカチで払った。
 若い先生がやって来て
「雨、大丈夫でしたか?」
と心配そうに声を掛けてきた。
「一応、傘はありましたので」
と言って、ハンカチをしまった。
 しばらくすると、裕介が奥から走ってきて、私に体当たりするように抱きついてきた。

「ちょっとちょっと!」

 私はしゃがんで裕介を抱き留めようとしたが、よろけてしまった。
 裕介は
「ママ、ちょっと濡れてる?」
と聞いてきた。
「ちょっとだけね、大丈夫」
と言って頭を撫でた。
 奥から年配の先生が裕介のリュックを持ちながらやってきて
「ゆうちゃん。リュック持たないと帰れないでしょ!」
と言いながら裕介にリュックを渡した。
 裕介は
「ごめんなさーい」
とモジモジしながらリュックを背負い、自分の下駄箱に向かった。ついこの間まで靴なんて自力で履けなかったのに、子供の成長というのはあっという間だ。
 そんな事をぼんやり考えていると、年配の先生から
「どうですか? 新しい生活は慣れましたか?」
と話しかけられた。
 私は一瞬ハッとしながら
「ええ、まあ」
と愛想笑いをした。
 先生は
「困った事があったら何でも言ってくださいね」
とにこやかに言った。

 保育園を出ると、さっきまでの雨が嘘のように上がっていた。
 裕介が運動靴で水たまりに入ろうとしたので
「ダメダメ! 長靴の時だけね!」と言って、慌てて止めた。裕介は不満そうに口をとがらせながら、何故か両足ジャンプで前に進んでいく。
 商店街に向かって歩いて行くと、同じマンションの神田さんとすれ違った。
「あらゆうちゃん、こんにちは」
と神田さんに声を掛けられると、裕介は大げさにお尻を突き出すような姿勢を取り、大きな声で
「こんにちは!」と言った。
 神田さんはコロコロと笑いながら
「今日も元気ね」
と言った。それから
「ご主人はもう向こうに着いたの?」
と聞いてきた。
 私は愛想笑いで
「ええ、無事に」
と答えた。
 神田さんは裕介を気に掛けながら押さえた声で
「ちゃんとこまめに連絡取り合うのよ。絶対に油断しちゃ駄目」と言った。
「油断?」
と私が不思議そうに聞き返すと
「もう、お人好しなんだから、浮気よ、う・わ・き」
とちょっと嬉しそうに言った。
「浮気? うちの夫がですか?」
と言うと
「男なんて皆一緒なんだから。一人になったら自由だと勘違いしてしちゃうもんなのよ!」
と神田さんはまるでこの世の真理であるかのように言った。
 私はムッとして
「夫はそんな人じゃありません!」
と言って、裕介の手を引いて歩き出した。
 神田さんは
「折角忠告してあげたのに!」
と私達の背中に向かって言ってきた。
 私は目が熱くなっている事に気づいていた。
 その時、配達用のリュックを背負った自転車のお兄さんと目が合った。お兄さんは不思議そうな顔をして通り過ぎて行った。
 その途端、何だか急に恥ずかしくなってしまった。あんな他人のうわごとなど、軽く流してしまえばいいのに、ムキになって言い返してしまった事が、相手の土俵にまんまと立たされてしまった事のような気がして、気持ちが沈んできた。
 裕介は私の手をギュッと握り
「ママ?」
と言った。
 私は慌てて笑顔を作り
「今日のお夕飯、何にしようね?」と言った。
 裕介はそれでも心配そうな顔をしたので、私は裕介を抱き上げた。正直「うっ」となるくらい腰に衝撃が来た。いつの間にか大きくなった。生まれた時はあんなに小さかったのに。
 その時、裕介が
「あ!」
と言って指を差した。
 私は不思議に思いながら裕介の指の先を見ると、大きな虹がかかっていた。
「わあ、キレイ」
 私がそう言うと、裕介も嬉しそうに笑って
「パパも見てるかな?」
と言った。
「パパは見てないよ。遠くにいるんだもの」
と言うと、裕介は
「じゃあママ、パシャして。パパに送って」
と言った。
 私は裕介を下ろし、スマホで虹の写真を撮った。裕介に見せて
「これでいい?」
と尋ねたら
「僕も撮って」
と言った。折角だからと思い、裕介と一緒に自撮りをした。化粧はドロドロでひどい有様だったが、裕介と顔を寄せ合い、目尻に皺が出来るほど笑っていた。
 私は先ほどの虹の写真と一緒に、夫へ送った。


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