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どうして私はあの人の言葉が忘れられないの?


「患者さんにとって診てもらいたいと思う理学療法士はどんな理学療法士だと思う?」と、専門学校3年生のときの担任が個別面談のときに私に聞いた。

『自分のことを想ってくれる担当療法士だと思います』と答えた私に、「そうやね、それは大事やね。でもな、患者は自分の体を治してくれる理学療法士に診てもらいたいんよ」とその先生は言った。


ろくすっぽ学校教育をしっかり聞いてこなかった私が専門学校でそれはそれは熱心に勉強した3年間を送った。今までの予備知識がなかった私は「専門的な学び」を乾いたスポンジが水を吸うようにじゅうじゅうと吸収していった。当時は我武者羅だったため気がつけなかったが、今振り返ってみると「義務教育」と「専門教育」には圧倒的な差があった。


私が思う9年間(+3年間)の義務教育は、「正解を出す場所」であり、

私が自ら選択して行った専門教育は、「答えの導き方とその選択肢を増やす場所」だったんだと思う。

専門学校や大学を卒業した先輩方で"学校で勉強したことは現場ではなにも役に立たない"という尻子玉抜いたろか?ってくらいのアホすぎる発言をしている人を見るが、そういったアホたちは答えの導き方とその選択肢を増やす場所で、選択肢を増やせない残念すぎる土台を形成してしまったんだと思う。

私達の患者さんへのアプローチは解剖学・生理学・運動学や日常生活動作、そして発達心理学など多岐にわたるベースの知識の上でなりたつものである。そこをしっかり学んでないから臨床で「使えない」ので、「役に立たない」のだ。

そんな過去の自分への誹謗中傷は置いておいて(お前のことかい)、わたしにはたくさんの忘れられない言葉がある。

冒頭で話した「患者さんにとって診てもらいたいと思う理学療法士はどんな理学療法士だと思う?」の話もそうだが、今でも私の心を奮い立たせる言葉を教えてくれたのは、圧倒的に専門学校のときの先生たち、すなわち理学療法士の先生であった。

そしてその先生たちから受け取った「忘れられない言葉」の全てに共通点があった。

それは「60点を狙いにいってない言葉」。

満点ギリギリか、赤点ギリギリ。

そんな言葉たちを先生たちはたくさんくれた。


たとえば中枢神経疾患の担当の先生が教えてくれた

「講義は聞いているだけだと5%しか入らない」
「勉強は余った時間にやるのではなく、勉強をする時間をつくる」

この言葉が私の今の教育事業「かめスク」のアウトプットを大事にする方針になっている"ラーニングピラミッド"を元にした回を形成した。



あとは私の恩師、1年生のときの担任は

「諦めてはならない。簡単に結果が出なくて辛いけど、決して諦めてはならない。世の中は簡単なことのほうが少ない。諦めてはならない。」
「悩んで立ち止まるときもあるけれど、悩みながらも動き続けてれば解決できることが多い気がします」


と、当時18歳の私には理解をすることも実行することも難しい言葉をたくさん投げかけた。

"合格点を狙いにいっていない言葉"これが当時の私にブスブス刺さりまくったのだ。

昨今、どんな情報も手軽に気軽に手に入ってしまう時代になり、「だれが」「どんな」情報を発信しているかをしっかりと見ていかないといけない世の中になった。そうこうしている中で情報の精度はどんどん上がっていき、世の中の情報は平坦化していっているのだ。そのため合格点60点の情報というのは「参考にはなるけど刺さらない」レベルのものになって来ていると思う。



当時、「そんな事言われても無理だよぅふぇぇ」ってなってすべてを投げだしたかった。だがあれから10年、この先生たちの60点を狙いにいっていない言葉があったからこそ、私は強く臨床現場を生きてこれた。

どんなときもこの先生たちの言葉を思い出した。キツイ言葉だったけど、忘れることができなかった。今でも大事に大事にノートに書いてとっておいている。

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決して合格点を狙いに来てくれなかったあの人達の言葉がいま、日本中のこどもを救おうとしている私を今日も奮い立たせる。



私も平均点ではなく、合格点ギリギリラインではなく、思い切って「忘れられない言葉を紡ぐ人」になりたい。満開の桜を見あげるこの時期に感じたことでした。ちゃんちゃん



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