教育が世界を変えると思っていた。違った。
笑顔の国カンボジアに行ったときに、印象に残ったシーンが有る。
『日本の皆さん、いつも支援ありがとうございます。みなさんのおかげでこどもたちは学校に通えています。先日の台風でここのトタンがはがれてしまいました。これでは雨風がしのげません。また支援をお願い致します。』
通訳の若干の誤差はあるにしろ、校長先生が申し訳無さそうな顔をしながら話しているにしろ、なんにしろ衝撃を受けてしまった。
若干の違和感を抱きながら、さぁさお待ちかねのこどもたちとの交流タイム。私たちは日本から遥か離れた国にきて、目を輝かせている異国のこどもたちと遊ぶんだぞ!とみんな意気込んでいた。日本の分化を伝えるために物珍しいオモチャを持っていったり、中には自作の折り紙を折っていった友人もいた。わたしも意気揚々と100均のボタンを押すとボールが飛び出るみたいななんとも楽観的なオモチャを持っていった。
こどもたちはそれはそれは目を輝かせ私達日本人のもとによってきた。
のだが、みんなものの見事に持っているオモチャを「はぎ取られ」ていったのだ。一瞬、みんな目が点になってしまった。
本当に最低な例えを使うと、観光客を狙った動物が瞬時に奪った餌を自分の陣地に持っていってしまう。あんな感じだった。(ごめんなさい)
その空間は
「かーしーて。」『どーうーぞ。』
のやり取りが一切生じていない場だった。
(ちなみに私が持っていったボールのオモチャは瞬時に"なんやこれチャチイな"という表情を余儀なくされ、数回遊んだら地面に葬られていた)
彼らの中で、「支援=もらえるもの」という位置づけだったのだろう。
無論、これは彼らが悪いわけではない。ただ支援を受けている人間の真っ当な行動だと思う。彼らは「貸して」「どうぞ」「ありがとう」の概念をただただ知らないだけなのだ。
この構造を作ってしまったのは支援者だと思う。が、決して支援を悪者にしたいわけではない。
ただ、支援者と言われる人間は支援のあり方というのを考えていかなくてはいけないのだ。
私は支援のあり方について考えた時、「支援=教育」ではないだろうか、という結論に至った時期があった。
しかし、いくら教育しても教育を受ける側がその知識や技術を習得しないと、継続していかないのだ。いわば教育の垂れ流しになる。
知識や技術を習得するには何が必要か。それは学習である。
習ったことをしっかり自分の学びとさせる。このことが記憶の定着に必要なのだ。そのためにはどうしたらいいか?
そのためにアウトプットが大事となってくる。
私は自分が現在行っている教育事業で、口うるさくラーニングピラミッドの話しとアウトプットの話をしている。(受講生はいい加減耳タコであろう)
私が教育事業を行うことで、セラピスト・保育者・療育者が学習するクセをつけて成長していってくれることで、巡り巡って全国の保護者やこどもが救えたら良いと思っている。
垂れ流しのない教育には学習が必要。
学習には継続が必要。そうすると「継続した学習をするための教育」が必要となってくる。ではこの教育をどのようにさせていくか、Keyとなるところはまたしても"仕組みづくり"というわけだ。
世の中の仕組みを作るために、たくさんの親子を守れるために、私は今日も努力をして学習をする。
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