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どうか私抜きで幸せになんか、ならないでほしい。



Prologue


愛について抜本的に考えるのが好きだ。

愛とは私の原動力である。愛。

あい【愛】
そのものの価値を認め、強く引きつけられる気持。かわいがり、いつくしむ心。「子にそそぐ―」。いつくしみ恵むこと。「神の―」。いたわりの心。
大事なものとして慕う心。
「母への―」。特に、男女間の慕い寄る心。恋。

Googleより引用


私の父は、私が「みんなから愛されるように」という願いを込めて愛理、とつけた。(みんなから愛される子になってほしいって言ったにも関わらず、お前が私を愛さねぇでどうすんだよ父親💢)
ぱっぱらっぱーとしている親の思いをよそに、みんなから愛されたい〜を超越して、「常日頃から人を愛するには、愛されるには」と考える愛情垂れ流しマシーンが生成されてしまった。そう、ワイである。このポンコツ女。


上記、かめきちの夏休みの毎年の課題「心のパンドラを開くこと」

過去noteより

毎日考えるものは、毎日なんかしらの変化を遂げて、ようやく形になっていく。私の愛の形は日々変化をしている。


愛の絶対条件として成立するのは、対象があるかどうかなのだ。

対象が変われば形も変わる。当たり前のこと。そんな私の愛の対象の変化と拡大にあたって、また一段と考えることが増えてきたので、昨今のかめきちの「愛理論」を放出したいと思う。すまんね、定期的に放出しないとパンクする性格なもんで。





"相手が嬉しいのがうれしい"理論の解釈

私の愛する人達に多いのが、「相手が喜ぶ姿が見たい」ということ。もちろん私もそう。相手に喜んでほしいなって思うし、相手が今日も穏やかな一日を過ごしてほしいなって思う。相手が嬉しかったらそれでいいかなって思う。つーか割りとそれが全て。

シンプルにこれ、なんでだろう?って考えた。

んで、相手が嬉しいのがうれしい、には2パターンあるかなと解釈。

パターンとしては「相手が感じた嬉しさに自分が関与してるか、してないか。」すなわち自分が起こしたアクションに対して喜んでる場合と、自分が何もアクションを起こさずに相手が喜んでる場合。
相手の喜びの方向が自分に向いてるかどうかって感じかな。



SideA:自分が相手を喜ばせるアクションを起こした場合


プレゼントをあげた、親切にした、料理をつくった、セックスで相手につくしまくるなどの自分のリソースを相手に使って相手が喜んだ場合は、

自分の起こした行動で相手が幸福になる=自分の行動に価値がある
と思えるから、それが自己肯定につながるのではないかと思う。
一見、相手が喜んでいるのを喜ぶように見せかけて、自分が行った行動を認めてもらう安心感を手に入れたいみたいな感じ。

こう書くと、自分が認めてほしいがゆえに押し付けてるって思われがちだけど、大半は「喜んでもらうという目的のために行動したというより、自分が行ったことが結果的に相手の喜びにつながった▶HAPPY」みたいなケースがほとんどじゃないかな。と思う。

自己肯定を書くとちょっと意地悪なニュアンスになるけど、深層心理には肯定されたいがために相手に尽くす行為はあると思うなー
(とくに自己肯定低めな人にありがち)


SideB:自分が相手を喜ばせるアクションを起こしてない場合

例えば、相手が自分の関係ないところで喜んでいる。自分が関与してない場合。

・インスタのストーリー見たら彼女が喜んでいる様子があった
・コンサートに行ったパートナーがすごく楽しそうにしてた
とか。

これは果たして「相手が嬉しいのが私もうれしい理論」に当てはまるのか?
相手が喜んでる=私も幸せ(安心)」ということになるのか?

これもたくさん段階があるのだが、わたし的にこれは「自分が相手の感情に対して関与してるか&自分のマイナスの上で相手の幸せが成り立ってるかどうか」も争点になると思う。(ややこしくってごめんなぁ)


例えば、
相手がコンサートに行く→相手が楽しんでいたら幸せ✨
という考えがあるとする。

これは私的に「相手には基本的な自分への愛情や尊重があり、その上で相手が自分が存在しない場面でも幸せそうにしていたら満足」という解釈。

左)基本的な愛情や尊重がある
右)基本的な愛情や尊重がない


なんだけど、相手がコンサート行く背景に「相手からの自分への尊重がなく、相手が楽しんでいた状況」があったとしたらいかがであろう?

自分と会う時間を削ってバイトにいってお金をためてた。結果それが自分の悲しみや寂しさに繋がっていた。みたいな。いわゆる自分のマイナスの上で相手の幸せが成り立つ状況。

この状態って素直に「相手が幸せだったら私もうれしい♥」にはならないよな。
もしなってたら、それって自分の気持ちを押し殺してる気がするから、継続した愛にならない気がする。
やっぱり自分の方向を向いて、尊重されてる上で相手が幸せであるっていうのが「相手が嬉しいのがうれしい」理論の解釈な気がする。


向坂愛理の愛理論


私はよく「自分の愛の本質は、相手が健やかで穏やかでいること」と発言している。ここには一切の濁りはないのだが、上記「相手がいいのが自分もいい理論」を踏まえて思うことがある。

果たしてその愛の本質とやらは、自分を介さない(尊重のされない)健やかさや穏やかさでもいいのだろうか、ということ。

じゃあ例えば相手が私をフルボッコにして、穏やかでいる。
私からお金をせびって、健やかでいる。(極端)
そんなんされても「相手が健やかで穏やかでいるから、私もHAPPY♥✨」
になるんか?

いや、ならんよな。確実に。

「自分の愛の本質は、相手が健やかで穏やかでいること」という
言葉の解像度を上げると
「自分の愛の本質は、相互尊重・相互自立のもとで、互いが健やかで穏やかである状態

なんだな。
やはり、愛には対象物があり相互的な作用があってこそ成り立つものなのか。




見返りのない愛は存在するのか


一見、見返りを求めていないように見えても、その愛という現象を細分化していくと「相互的な作用がないと成立しない」っていうことはやっぱどっかで見返り求めてるんだろうね笑

見返りがない、というのは「ねぇ〜〜〜!わたしがこうしたんだからあなたもこうしてほしいの〜〜〜!ちょうだい〜〜!プリーズ〜〜〜!!!」とかだけを指すと思っていたがすっとこどっこい、深層心理の中で
「相手が嬉しいのがいいけど、そこにはちゃんと自分がいたい」っていうのも見返りだよなぁ。

見返りって言い方がすごいマイナスだからあれなんだよね。見返りって言葉もどこかで解像度を上げたい!


愛理論、結論。

この世における「見返りのない愛」は他人同士は成立しません。
母親や父親から受ける愛情のみ。(異論ください)


空よりも広く、海よりも深い、母からの愛



Epilogue


ざっと読み返してみると、
「え、当たり前じゃね?」ってことを書いてると思ったww
でも私愛情拗らせ人間で、愛についてずっと悩んできたから
みんなが思う当たり前を解釈するのにすごく時間がかかるんだと思います。

これからも私はずっとずっと愛について考えていくし、棺桶に入るまで意見は変わっていくと思う。なにが正解かはわからないけど、死ぬときに
「あぁ、たくさん人を愛して、愛された人生だったなぁ」と思いたいなぁと思いました。おやすみ。




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