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感情と時の流れ-文楽の語り

うれしや、悲しや、恨めしや

 淡路人形座で文楽をみた。演目は近松半二による名作『傾城阿波の鳴門』巡礼歌の段。年端も行かぬ娘が生き別れた両親を探しに阿波の国を出てひとり大阪に巡礼の旅にある。お布施乞いに訪れたのが偶然にも探し求める実母の住む家。父母は、阿波で仕えるお家のため故あって、3歳の娘を預けて大阪に出た身。巡礼の娘がわが子とわかっても複雑な事情からそれを明かすことのできぬ母の、辛さ、悲しさ、恨めしさ。娘は差し出されたお金も遠慮して受け取らず、実の母と知らぬまま別れを告げて去ってゆく…。

淡路人形座浄瑠璃館(淡路WEBより)

感情の受け取り

 三味線太棹の入りの第一音がわれて、オヤこれはどうかなと少しく不安を感じ、若い太夫の声音も少々貫禄に欠けるか、と厳しい聞き始めとなった。       ところがどうしてどうして、舞台が進むに従い、絶妙な三味線と起伏豊かな太夫の表現に引き込まれる。次第に三味の音も太夫の語りも、そして終いには人形さえも目の前から消えてしまった。生きわかれた両親の顔を一目見たさにひとり捜し歩く娘のけなげさと、実の子と知りながら明かすことのできぬ母の悲しさという熱い感情そのものが舞台と観客席を支配してしまった。太夫の心意気、三味線の魂、そして人形遣いの巧妙さのなせる業である。素晴らしいものであった。

 しかし、もう一つ大事な要素は「時の流れ」なのではなかろうか。例えば、太夫は母親の悲しい思いを「か~わ~い~や、いじら~し~や、、、」と繰り返し節をつけて語る。もし単調に「悲しい」と一言で表現されてしまえばそれは言葉として瞬時に消えていく。聞き手は母親が「悲しい」状態にあるという情報を受け取り、次の展開を読もうとする。しかし実際に演じられたように、気持ちをかきたてるような抑揚をつけて「か~わ~い~や、いじら~し~や~、、、」とやられれば、聞き手は単に母親が悲しんでいるという客観的な情報を得るだけではなく、母親がどれほど悲しい思いをしているのか、「いじらしい」という言葉の裏にどんな思いをめぐらしているのだろうかと、まのびした時間の中でついつい思いを馳せてしまう。むしろ母親になりかわって、自分の気持ちとして悲しく、口惜しい感情を受け取ることになる。
 こうして自然に聞き手はつらい立場にある母親の気持ちを自分のこととして一体化してしまう。いわば間延びをしたゆったりした「時の流れ」の中で節をつけられ語られるがゆえに、見るものに深い感懐を生み出しているのだろう。

淡路人形座ロゴ「傳」(人形座HPより)

ゆったりとした時間の流れ

  なんでもがスピーディに効率よく進んでしまう現代社会。映画やドラマもわざわざ早送りをしてストーリー展開を追い、あるいは面白い場面、有益と思われる情報のみを楽しもうとする。それはそれで一つの鑑賞の仕方だろう。しかしそこには感情の豊かな起伏をもたらす文楽のようなゆるりとした時間の流れはない。喜怒哀楽の感情を正面から受け取り消化する余裕を許さない。いくら技術や社会が進歩しても、人の気持ちや感情の受け取り方、消化の仕方にはさほど大きな進歩があるわけではなかろうと思う。瞬時に通り過ぎてしまう他者の感情は、心にしっかり刻まれることも滋養となることもなく矢のように飛んで行ってしまうのだろう。
 
 せっかちになった現代人こそ「まどろっこしい」と思われる文楽のような古典芸能の「時の流れ」に親しみ、いろんな状況に置かれた様々な人の感情を深く味わってみることが大切なのかもしれない。そんなことが優しい人間関係や、社会そのものをつくっていく基本のような気がする。(202309)                    



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