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「慈悲の瞑想(改訂版)」

以前、慈悲の瞑想について私はこのようにやっています、という記事を書きました。

ですが、本音をいうと後半部分の表現に違和感があったのです。

以前紹介した慈悲の瞑想では「私を嫌いな人の願望成就」を願う言葉を使っておりました。

ただ、ふと冷静になって考えてみると「私のことを嫌いな人」はこちらに対して何らかの悪意や害意を持っている可能性があり、もしもその願望が実際にそのような悪意や害意をこちらにぶつけることだった場合、これは洒落になりません。

確かに自らの命や身を呈してでも誰かを救うことは美德とされますが、これはあくまで私の経験則によるものの、実際にそこまでした場合、相手の代わりに自分が傷つくだけでした。

あえて申し上げますが、自己犠牲を伴う美徳や正論は「理想論」としてはともかく、現実に落とし込んで実践した場合悲惨な結果を招きかねないものもあります。
慈悲の心によって自分に悪意や害意を持っている相手の犠牲になることは自分の人生はおろか相手にも業を積ませてしまいます。

私は利他の心自体は忘れてはいけないと思っておりますが、誰かの犠牲になるような生き方が素晴らしいとは全く思いませんし、そのような生き方は望んでいません。

そんな折、Xにて真言宗僧侶の方がうまい表現をポストしてくださっておりました(当該ポストを紹介したいのですが記事への埋め込み方がわかりませんでした…わかれば修正します)。

そこで、当該ポストを踏まえて以下のように改訂しました。

私が幸せでありますように
私の苦しみ・悲しみが無くなりますように
私の望み・願いが叶いますように
私に悟りの光が訪れますように

私の大切な人が幸せでありますように
私の大切な人の苦しみ・悲しみが無くなりますように
私の大切な人の望み・願いが叶いますように
私の大切な人に悟りの光が訪れますように

私の周りの人が幸せでありますように
私の周りの人の苦しみ・悲しみが無くなりますように
私の周りの人の望み・願いが叶いますように
私の周りの人に悟りの光が訪れますように

私の嫌いな人が幸せでありますように
私の嫌いな人に祝福と導きがありますように
私の嫌いな人に悟りの光が訪れますように

私を嫌いな人が幸せでありますように
私を嫌いな人に祝福と導きがありますように
私を嫌いな人に悟りの光が訪れますように

全ての生きとし生けるものが幸せでありますように

全ての生きとし生けるものに祝福と導きがありますように
全ての生きとし生けるものに悟りの光が訪れますように

願わくばこの功徳を以てあまねく一切に及ぼし、我らと衆生と皆共に仏道を成ぜん
南無妙法蓮華経

「祝福と導き」とすることで自分を嫌う他者の思いが歪なものであった場合、天からの気づきや軌道修正が入る。そのような思いで表現を改めました。

また、最後の生きとし生けるものも「祝福と導き」としたのは、悲しいことですが戦争などをはじめとして対立している人々が現代でもいるため、両者の望みや願いが叶うことは矛盾を生んでしまうかもしれないと考えたからです。

この記事が何かのヒントになれば幸いです。

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