見出し画像

西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の9]

西洋哲学史と近代日本(2)続き

4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.3 夏目漱石(続き)

4.3.7 『こゝろ』の三つの自殺(続き)

前回の補足――孤立について
321.  前回(番外編2の8)は、Kと「先生」の孤立がどういうものかをそれぞれ考えました。Kの孤立は、性愛の欲求をもつKの身体が周りから完全に見棄てられてしまうという孤立でした。〝周りから〟そして〝完全に〟とは、K自身の思想からも、社会の〈共同意志〉からも、親友からも見棄てられたという意味です。Kは、自分の信ずるところを突き進む独立独行の人として、それまで自己本位の姿勢で生きて来た。だが、恋に落ちて、自分の本源的な欲求である性愛の欲求に直面したとき、自分の思想は役に立たず、社会常識には支持されず、友人には欺かれた。こうして、Kは孤立し、「先生」宛てにみずからの薄志弱行を責める手紙を遺して自殺します。

322.  「先生」の孤立は、Kの場合とは成り立ちが違っていた。「先生」は、叔父に欺かれたせいで他人を信じなくなり、自分だけを信じる個人主義に至った。だが、自分もまたKを欺いてしまって、自分自身を信じることもできなくなる。こうして、「先生」は、行動の拠りどころとなる自分への信頼感を内にもたない人間になってしまった。Kの孤立は、行動する力を内に持っているものの、それが周囲から否定され見棄てられるという形の孤立でした。「先生」の場合は、行動する力そのものが失われるという形の孤立です。

自殺の構造――Kの場合
323.  Kの自殺は、どのような仕組みで生じたのか。一般的に、自殺は〈共同意志〉に根ざした自分によって、生きている身体としての自分が殺されることだ、と考えてきました(番外編2の7:238、同2の8:253)。Kは、求道を重んじ恋愛を蔑む思想を抱いていました。その思想のとおりに生きるのが、Kの理想とする生き方だった。Kの理想と周りの社会の〈共同意志〉は、求道重視と恋愛蔑視の点では基本的に一致していました(番外編2の8:277)。したがって、Kの自殺の構造は、〈共同意志〉に根ざした理想的自己が、性愛の欲求に惑わされる身体を罰した、という形になる。

324.  友人である「先生」が、Kの恋愛を肯定していたら、Kは友人に支えられて生きて行くことができたかもしれない。その場合、Kは自分の理想の方を作り直すことになっただろう。しかし、そうはならず、Kの理想は自分の身体を罰した。

325.  一般に、罰を受けることは、犯した罪を許されて共同体に復帰する効果を持ちます。「薄志弱行」という遺書の文言は、Kの志が依然として求道にあったことを示しています。Kは性愛に惑う自分の身体を罰することで、Kが元々所属したいと願っていた求道者たちの理想の共同体に自分が復帰できると考えた。Kの自殺は概念的にはこのように解釈できます。

自殺の構造――「先生」の場合
326.  では、「先生」の自殺はどのような構造を持つのか。『こゝろ』の記述を追ってみます。「先生」は、何かをしてみようと思い立つたびに、「恐ろしい力が何処からか出て来て」(「先生と遺書」五十五)*、その力から「御前おまえは何をする資格もない男だ」(同上)と告げられる体験を重ねます。そのうち自殺が心に浮かぶようになる。

必竟ひっきょう私にとって一番楽な努力で遂行出来るものは自殺よりほかにないと私は感ずるようになったのです。」(同上)

注*: 『こゝろ』からの引用は、部立ての「先生と私」「両親と私」「先生と遺書」及び各部を構成する短い章立ての番号、一、二、等で記します。「先生と遺書」五十五 とは、『こゝろ』「先生と遺書」第五十五章ということ。参照したのは正字旧仮名遣いの『漱石全集 第六巻 こゝろ・道草』(昭和60年(1985)発行、第3刷)ですが、適宜新字新仮名に改めて引用します。

327.  だが、自殺を考えるものの、妻を独り残して行くことは不憫でできず、かといって道連れにすることは論外だった。「「記憶してください。私はこんな風にして生きて来たのです。」(「先生と遺書」五十五)」という言葉は、身動きのとれないこの状態で発せられています。

328.  「先生」を次の段階に移行させる力は、外からやって来ます。

 「すると夏の暑い盛りに明治天皇が崩御になりました。其時そのとき私は明治の精神が天皇に始って天皇に終ったような気がしました。最も強く明治の影響を受けた私どもが、其後そのあとに生き残っているのは必竟ひっきょう時代遅れだという感じが烈しく私の胸を打ちました。」(「先生と遺書」五十五)

この一節は、終わりを迎えた一つの時代の後を追って、自分の生も終わるのが当然だ、という気持ちを表しています。天皇の死に際して、「先生」は、自分だけが取り残されてしまった、と感じた。生き残っているのは時代遅れだという「感じ」を、「先生」は妻の静にも伝えます。静は笑って取り合わないけれど、「何を思ったものか、突然私に、では殉死でもしたらよかろうと調戯からかいました」(同上)と続きます。

329.  引きこもって暮らしている夫に、妻が「殉死でもしたら」と言うのは、読者をぎょっとさせる異様な会話です。からかって言ったとされていますが、要は「じゃ、死ねば」なんだから、穏やかでない。それまでの静の性格描写にもそぐわないように思われます。しかし、ここで「先生」が自分から殉死を思いつくのでは、行為への積極性が強くなりすぎる。内面の拠りどころを失って身動きできないという「先生」の人物像が壊れてしまいます。というわけで、この異様な会話も、物語の世界に「殉死」という概念を導入するためのやむをえない不自然さとして許容することにしましょう。

330.  明治天皇の死と妻の言葉、この二つによって、それまではただ思い浮かべるだけだった自分の死が、死に遅れたという意識とともに、殉死という形で「先生」の視野に入ってくる。「先生」は妻に向かって「もし自分が殉死するならば、明治の精神に殉死するつもりだ」(「先生と遺書」五十六)と返答します。「私の答も無論笑談じょうだんに過ぎなかった。」(同上) そこへ乃木大将の現実の殉死が伝えられる。

331.  「先生」は、新聞で乃木大将が死ぬ前に書き残したものを読む。そこには、「西南戦争の時敵に旗をられて以来、申し訳のために死のう死のうと思って、つい今日迄生きていたという意味」(「先生と遺書」五十六)の文言がある。「乃木さんはこの三十五年のあいだ死のう死のうと思って、死ぬ機会を待っていたらしい」ということが分かってくる。「先生」は、乃木の死によって、死のうと思い続けてきた自分にとって好適な行為の〝シナリオ〟ないし〝行動図式〟を提供されたわけです。

332.  「先生」はこうして自殺の決心に至ります。それは、こう記されています。

「それから二三日して、私はとうとう自殺する決心をしたのです。私に乃木さんの死んだ理由がく解らないように、貴方にも私の自殺するわけが明らかに呑み込めないかも知れませんが、もし左右そうだとすると、それは時勢の推移から来る人間の相違だから仕方がありません。或は個人のって生れた性格の相違と云った方がたしかかも知れません。」(「先生と遺書」五十六)

乃木さんの死んだ理由ははたからはよくわからない。同様に、この遺書の読み手には、「先生」の自殺の理由はよくわからないだろう。それは、時勢の推移ないし個人の性格の相違のせいだから仕方がない。このとおり、自殺する理由を他者に理解してもらうことを、「先生」はほぼ諦めています。

333.  とはいえ、私たち読者は、「先生」が自殺を思い浮かべるに至ったいきさつはすでに十分わかっています。「先生」は親友を裏切り、自分への信頼を喪失して、何もできない状態に陥った。そうして自殺を思い浮かべるようになる。わからないのは、自殺の決意をうながす最後の一押しが、どういう仕方で「先生」にやって来たのか、ということだけです。

334.  自殺を理解する一般的な枠組みとして、〈共同意志〉に根ざした自分が、身体としての自分を殺す、という形式を提示してきました(本稿323)。したがって、「先生」の自殺を理解するために問うべき問いは、次のようになります。「先生」の場合、いったいどのような〈共同意志〉に根ざした自分が自殺の場面にあったのか。

335.  そして、上に、乃木大将の死が「先生」にとって好適な〝シナリオ〟ないし〝行動図式〟を提示した、と書きました。〝シナリオ〟や〝行動図式〟という言葉は、〈共同意志〉の言い換えです(番外編2の7:232-235, 237, 同2の8:250-252, 263)。したがって、「先生」について〈共同意志〉に根ざした自分を問うことは、乃木大将の殉死という行動図式を「先生」がどのように受け取って自分の身の上に再現したのか、と問うのと同じことになります。

336.  もっと簡単に言えば、殉死という言葉を、どのようにして「先生」は自分の自殺にあてはめたのか、ということです。明治天皇の死、「明治の精神に殉死する」という冗談めかした言葉、乃木大将の殉死、という三者から示唆される行動図式ないし〈共同意志〉は、どういう内実を備えていたのか。

結論――『こゝろ』の告げること
337.  『こゝろ』というのはとにかく風変わりな小説で、「私の個人主義」とならんで何か大事なことを告げているはずなんだが、それが何なのかはっきりしない。だが、〈共同意志〉という概念を導入して考えて行くと、漱石は、心に空虚を抱いた明治人がナショナリズムに呑み込まれて行くさまを描いている。そういう風に理解されます。漱石はそれをはっきりと自覚してはいなかったかもしれない。だが、『こゝろ』という小説は、深い自己不信に付きまとわれる個人が、国民国家の運命に自分の生と死を同期させるとき、ようやく自分の人生の意味を見出す、という物語になっている。

338.  国民国家の運命は、作中では、明治天皇の死と乃木大将の殉死、そして「明治の精神」という言葉によって象徴的に提示されます。「先生」は、時代精神の顕現としての乃木の殉死に自分の死をなぞらえることによって、自分の過ちを罰する力を、心情的に、すなわち論理的思考の媒介を経ずに、獲得する。そして、その力を行使することを通じて、明治という時代の終りに自分の終りを重ねる。「先生」は、論理的思考を省略することで、孤立した自分の生と死を、共同体の興隆と衰亡のなかに位置づけることができた。だが、そこで見出される人生の意味は、漱石の他の言説から推定されるかぎり、決して肯定的なものではなく、暗い予感に満たされている。「先生」の自殺はこのようにして理解できます。

339.  ここまでの分析と接続するために、説明を加えて行きます。第一に、「心情的に、すなわち論理的思考の媒介を経ずに」というのはどういうことか。第二に、「人生の意味を見出す」とはどういうことか。第三に、「漱石の他の言説」とはどういうものか。

340.  まず第一の点から。「先生」の自殺と乃木の殉死は、大きな違いが二つあり、「先生」の自殺は殉死の概念にうまく適合しません。したがって、「先生」が自分の自殺を明治の精神への殉死だと考えるのは、論理的には無理があり、そう考えたいという「先生」の願望によって成立しているにすぎません。

341.  まず、殉死とは、主君の死に際し、臣下が、主君と自分の強い心情的な結びつきにもとづいて、自分もともに死ぬべきだと感じてみずから死ぬ、ということです*。自分が真に帰属する共同体は、主君と自分からなる共同体である。だから、主君の死後は、自分も死んでその共同体への帰属を全うする。殉死はこういう考え方にもとづいている。乃木の殉死はこの図式で整理できます。乃木は西南戦争で軍旗を奪われる失態を犯したが、戦功を理由に処罰されずに終りました**。そして、失態を赦した主君の死に際し、後を追って死ぬことを選んだ。主君に恩顧があり、主君と共にあるために後を追って死んだ。だから、乃木の自殺は殉死なのです。

注*: 山本博文『殉死の構造』弘文堂1993。

注**: 乃木希典の生涯と自殺については、加藤周一、M.ライシュ、R.J.リフトン『日本人の死生観』上(岩波新書1977)pp.40-94に簡潔かつ明快な分析がある。軍旗を奪われたことと、その後の処分については、同書pp.53-54に述べられている。

342.  他方、「先生」の場合を乃木に合わせて整理すると、自分の帰属する共同体は明治という時代であり、天皇の死によってその時代が終わったのだから、自分も死んで明治への帰属を全うするべきだ、「先生」はこう考えたことになる。ところが、「先生」が、明治の時代精神から特に恩顧をこうむった事実は確認できない。「最も強く明治の影響を受けた私ども」(「先生と遺書」五十五)と言っているけれど、これは同世代の多くの人に当てはまるでしょう。だから、大恩ある主君の後を追った乃木とはちがって、「先生」には明治の後を追う資格がないように見える。この点で、「先生」の自殺は殉死の類型にはうまく合いません。これが乃木と「先生」の一つ目の違いです。

343.  ただし、「先生」が、明治の時代精神から特に恩顧を受けたと非常に強く感じていれば、客観的にはともかく、主観的には殉死の類型に適合するとも言えます。身分の低い武士が、主君から受けた非常に小さい恩顧を極度に大きく受け取って殉死する、といった例はかなりあったようです(山本博文、前掲書)。しかし、「先生」の事例が殉死の類型にうまく合わない点はもう一つあって、こちらの方が重要です。

344.  軍旗を奪われるという乃木の失態は、国家的・公的な水準にある。だから、主君が赦すとか赦さないとかいうことが意味を成す。これに対し、「先生」は親友を欺き、自殺に追いやって、自己不信に陥る。この過ちは、個人的・私的な水準にある。時代や社会は無関係です。明治という時代がこの過ちを赦してくれたわけではない(時代に恩顧を受けたわけではない)ということは確かですが、むしろ、そもそも赦すも赦さないもないのです。最初から明治という時代に関わりがない。恩顧の有無を云々する以前に、時代と結びつけること自体が的外れなのです。だから、「先生」が、自分の過ちは罰せられるべきだと感じて死のうと思い立つことを、明治の精神への殉死として想い描くのは、意味を成しません。これが乃木と「先生」の二つ目の違いです。

345.  「先生」は、明治という時代に特に恩顧を受けたわけでもなく、また、その過ちは時代や社会と関係ない私的な領域の過ちだった。だから、「先生」が自分の自殺を明治の精神への殉死であると見なすのは、論理的に成立しない。そのことは「先生」(および、書き手の漱石)も薄々分かっているようで、自殺の理由は他人には解らないだろうと書いてある。そうではあるけれど、明治の精神への殉死なのだ、と全体として仄めかしている。これは、論理的には成り立たなくても、心情としては殉死ということにしたい、と宣言していると解されます。なぜこんなことになるのか?

346.  ここで、第二の「人生の意味」に関する問いがかかわってきます。上に、『こゝろ』は、自己不信に付きまとわれる個人が、国民国家の運命に自分の生と死を同期させて、自分の人生の意味を見出す物語だ、と述べました。「国民国家の運命に自分の生と死を同期させて」というのは、「心情的には明治の精神への殉死なのだと宣言して」ということです。では、「人生の意味を見出す」とはどういうことか。

347.  「意味」とは、抽象的に言えば、ある物や出来事が指し示す何らかの事柄です。簡単に、意味とは記号の指示対象だといってもよい。赤信号は「止まれ」という命令を〝意味して〟いる。これは赤信号が「止まれ」という命令を〝指し示して〟いると言っても同じことです*。だから、赤信号の意味とは、「「止まれ」という命令」という指示対象なのです。「意味」という概念はやっかいで、論者の立場や使われる文脈に応じてそれこそ意味がいろいろ分かれます。でも、私が以下に述べる範囲では、意味とはあるもの(記号)の指示対象だ、と言っておけば足ります。

注*: 「意味する」と「指し示す」はちがう、同じことじゃない、と感じる人も多いと思います。

「「ポチ」という名前は、ポチという犬を指している。だから名前「ポチ」の〝指示対象〟はその犬だ。」

これは納得する人が多いでしょう。でもこのとき、「指示対象」を「意味」に置き換えて、

「……だから名前「ポチ」の〝意味〟はその犬だ」

というと、なんかちがう、と感じる人の方が多くなると思う。「ポチ」の意味は、むしろ「ポチ」という名前で話し手が言い表そうとする概念とか思考とか、そういう類いのものじゃないか、と主張する人が出て来そうだ。

 現代日本語で「意味」というと、記号が指し示す事柄ではなくて、記号の使い手(話者)の思い入れとか、含みとか、陰翳ニュアンスといった、使い手側の〝気持ち〟を考えることが多いように思います。しかし、陰翳ニュアンスや思い入れは、ある記号がある事柄を指し示すという原始的な関係が話し手と聞き手に了解されているかぎりで、現実の発話の中で、その原始的な関係からずれている差分として立ち現れるものです。だから、「意味」について、最初に押さえておくべきなのは、記号の意味とは記号の指示対象だ、という原則なのです。この原則は、1+1=2みたいな初歩的なものですが、この原則が成り立つからこそ、幼児は母語を習得でき、成人は未知の言語を学習できる。その意味で大事な原則です。

 ある表現の意味とは指示対象だ、という考え方はドイツの数学者・論理学者・哲学者のゴットロープ・フレーゲ(1848-1925)に由来します。この考え方は意味論の原理として現代論理学および言語哲学の出発点となりました。もちろん、異論はいろいろ提出されていて、特に固有名(proper name)の意味(sense)と指示(reference)という哲学問題は、20世紀後半には研究論文が次々に生み出される一大産業に発展しました。私は、フレーゲに似た発想がここでの私の論点にうまく合うから使ったまでで、特にフレーゲ主義者だというわけではありません。

348.  「人生の意味」とは、だから、人生が指し示している事柄であると考えればよい。例えば、ある人が、世界平和に貢献したとか、幸福な家庭を築いたとか、そういったこと。あるいは、脱魂的エクスタティック意識変容トランスの体験とか、なにかそういう特別な一瞬でもいい。もちろん、悪人の人生ならば、悪事をはたらいて人々に不幸をまき散らしたとか、そういう事柄も考えられる。結局、その人の生きて来た全事跡が指し示していると解釈できるような何らかの事柄が、その人の人生の意味であると考えられます。

349.  大事なのは、ある人の人生が、その人自身とは別の何らかの事柄と結びつくという点です。その人がそこに生きているだけではなく、その人が生きていることが、世界の平和とか、幸福な家庭とか、意識変容体験とか、他人の不幸とか、その人とは区別される別のものごとに結びついて行く。これが、指し示すという作用の大事なところです。――なお、あるものがそのもの自身を指し示すという自己指示(自己言及)も考えられますが、人生の意味を考える場合、取り上げなくてよい。私の人生が指し示すのは私の人生そのものだ、というのは、いつでもどこでも誰の人生でも成り立つので、言っても仕方がありません。

350.  さて、「先生」は、みずから思い立って何かをするということ自体が出来なくなっていました。自分の外に在る何ものかに向けて、自分を奮い立たせ、人生を押し進めていくことができない。世界平和に貢献することも、幸福な家庭を築くことも、意識変容体験を追求することも、不幸をまき散らすこともできない。「先生」の人生には何か別のものを指し示すはたらきが欠けている。要するに、「先生」の人生には意味がないのです。生きることに意味がないのだから、死んでも意味はない。というのも、「先生」が生きていることが指し示している事柄が無いのだから、生きるのを止めてもそういう事柄が無いことに変わりはない。生きる意味が無いときは死ぬことにも意味が無い。だから「先生」は自殺も出来ないのです。

351.  こういう状態で「先生」は長く生きて来ました。しかし、乃木大将の死のように、自分の自殺が明治の精神への殉死になるのなら、乃木大将が死せる明治天皇と死んで行く自分の作る共同体に自殺を通じて帰属できたように、「先生」も、終りを迎えた明治の精神と死んで行く自分の作る共同体に自殺を通じて帰属できることになる。要するに、殉死なら、自殺が共同体への帰属になる。「先生」は、自分の死の意味は一つの共同体への帰属である、と言えることになります。

352.  かくして、「先生」が自分の自殺を殉死であると見なすことは、論理的には無理でも、心情的にはそう見なす必然性のあることがわかります。というのも、殉死であることによって、人生の意味が再建できるからです。殉死であるかぎりで、その死が指し示す一つの共同体が生み出され、そこへ自分が帰属すると言える。こういう仕方で、自分の人生が全体として自分とは別のある事柄へ向かって行くと主張できるようになる。「先生」は人生の意味を見出したのです。

353.  ここへ来て、〈共同意志〉に根ざした自分が身体としての自分を殺す、という自殺の一般形式(本稿323, 335)を、「先生」の自殺にあてはめることができるようになります。さしあたり単純に、殉死という行動図式を心情的に受け入れた自分が身体としての自分を殺す、と言うことができます。「先生」の自殺とはまさにそういうものでした。さらに、「先生」の場合の殉死のあり方を考えると、国民国家と共に生き、共に死ぬことをよしとする〈共同意志〉に根ざした自分が、身体としての自分を殺す、と言うことができます。

354.  殉死の内実は、死せる主君と共にあるために臣下が後を追って死ぬ、ということです。臣下は、自分の人生の意味を、死んで行く自分が死んだ君主と共に作る死者の共同体に見出す。後継ぎの君主が人々と共に作りあげる生者の共同体は、自分が本来いるべき場所ではない。同じ構図で、「先生」の自殺が説明できます。「先生」は、自分の人生の意味を、死んで行く自分が終りを迎えた明治の精神と共に作る過ぎ去った共同体に見出す。新しい時代精神が人々と共に作りあげる新たな共同体は、「先生」が本来いるべき場所ではない。

355.  漱石は、明治期の日本という国民国家に対して、必ずしも好意的な評価を下してはいません。『三四郎』では、広田先生に「亡びるね」と言わせています*。『こゝろ』の「先生」は、だから、かなり問題を含んだ共同体のために殉死することになる。上で(339)言及した「漱石の他の言説」を一つ紹介します。

注*: 「三四郎」一、『漱石全集 第四巻 三四郎・それから・門』(昭和60年(1985)発行第三刷)p.22。

356.  漱石は1911年(明治44)の講演「現代日本の開化」の中で、近代化の波に洗われる日本人をこのように評しています。

「日本の現代の開化を支配している波は西洋の潮流でその波を渡る日本人は西洋人でないのだから、新らしい波が寄せるたびに自分がその中で食客いそうろうをして気兼きがねをしているような気持になる。新らしい波はとにかく、今しがたようやくのおもいで脱却した旧い波の特質やら真相やらもわきまえるひまのないうちにもう棄てなければならなくなってしまう。」(「現代日本の開化」*p.33)

次から次に近代化の波が寄せて来る。人々はその波頭を無我夢中で飛び移って行くだけで、理解するひまがない。漱石は、これではまるで食膳に料理が並べられたら、すぐに下げられて、また新しいのを並べられるようなものだと言います。それぞれの料理を味わうどころか、どんな御馳走が出たかも判らぬうちに皿が引かれてしまう。まったくあわただしくて、人々は、近代化の過程を吟味することも検証することもできない。

注*: 三好行雄編『漱石文明論集』(岩波文庫1986)所収。

357.  明治は大変動の時代でした。幕藩体制は解体され、国民国家を建設するために、徳川の公儀とはまったく異なる西欧・北米的な政治・経済・法律・軍事・学術・教育の制度が移植され促成栽培されました。さらに村から都市への人口の移動が始まり、特に都市において家庭生活や風俗習慣が改まり、生活文化の西洋化が推進されました。それにともなって、美術、音楽、演劇、詩歌、小説など芸術のあり方も一新されます。こういったことは常識ですが、今さらながらに、明治という時代が驚くほど急激な変化の時代だったことに気付きます。

「こういう開化の影響を受ける国民はどこかに空虚の感がなければなりません。またどこかに不満と不安の念をいだかなければなりません。」(「現代日本の開化」p.33)

明治期の日本人たちは、自分ではそう思っていないかも知れないけれど、心の中に空虚と不満と不安の念を懐いて生きている。それは、漱石の目には明らかだった。かといって、漱石は、こんな文明開化は「皮相上滑りの開化」(同上p.34)にすぎないから止めろ、とは言わない。「やむをえない、涙を呑んで上滑りに滑って行かなければならない」(同上)と言います。

358.  明治人の一人である「先生」は、上滑りに滑って行く時代を生きてきた。そして、このような時代と社会を、自分の帰属すべき共同体として選び取ります。「先生」の人生の意味、即ち、自分の人生が結びついて行く自分以外の何か、となるようなものは、建設中の国民国家のほかに何もなかったからです。国民国家と共にあるという仕方で、はじめて「先生」は自分の死を意味づけることができた。底なしの無意味から「先生」を救い出してくれたのは、殉死という行動図式と、乃木大将という範例であり、そこに表現されている〝国家のために生きて死ぬ〟という人生の送り方だった。漱石は、『こゝろ』において、このように、心に空虚を抱いた明治人がナショナリズムに呑み込まれて行く物語を語りました。

漱石の個人主義
359.  これは、ある意味で、予想外のことです。というのも、漱石は国家主義が好きではなかったはずだからです。すでに見たように(番外編2の4:130, 131)、「豆腐屋が豆腐を売ってあるくのは、決して国家のため売ってあるくのではない」(「私の個人主義」p.135)、「国家のために飯を食わせられたり、国家のために顔を洗わせられたり、また国家のために便所に行かせられたりしては大変である」(同上)と言い切っています。人は国家のために生業に励むのではない。個人の生活は国家の存立と別の水準にある。それなのに、あたかもそれが国家のためであるかのように言いくるめるのは欺瞞である。漱石はこう考えていた。しかし、『こゝろ』では、このような安定した個人と国家の関係が維持できなくなるような状況を考え抜くことになりました。その状況は、やや意外ですが、個人の私生活の深刻な破綻に端を発しています。

360.  「先生」は、底なしの自己不信に陥った個人です。自分と親友の幸福が両立し得ない決定的な対立の場に置かれたとき、「先生」は自分の意思や良心の統制を破って、親友を欺いてしまう。その結果、行動の拠りどころとなる自分への信頼感を失ってしまい、「豆腐屋が豆腐を売ってあるく」ように安定した個人としての生活をやっていくことはできなくなる。

361.  このとき過ちを犯した「先生」が、みずからの内面に「神在り」の認識を得ることができれば、神の命令(道徳的原理)にしたがって、自分の生き方を改め、他者との関係を作り直すことが可能になったはずです。というのも、万物の造り主である神の命令は、自分だけでなく他人にも妥当することが自明だからです。しかし、「先生」の懐疑(自己不信)は、デカルトと違って「神在り」に通じるものではなかった(番外編2の8:314-316)。事ここに至って、「先生」が、自己をも他者をも包含するものとして見出したのは、明治という国民国家だった。

362.  『こゝろ』の検討に取りかかる前に、「漱石の個人主義は、自他の両立が不可能となる究極の場面で、国家を含む他なる存在に対し、どのような選択を強いるのか」(番外編2の4:137)という問いを立てました。ここまでの検討から得られた結論として、漱石の個人主義は、自他の両立が不可能となる究極の場面においては、国家主義に道を譲るものだった、と答えることができます。これは、近代日本における個人主義の運命を示しています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?