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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の28]


4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.5 愛の思想と日本語人

はじめに

1113.  愛について、思いのほか長くこのブログで考えてきました。振り返ると、「番外編2の5」で夏目漱石の『こころ』を取り上げて以来、ずっと近代日本における愛について考えて来たことになります。こういうことになると予想してはいなかった。ブログ第2期は、「ものごとを実現して行く根底には力がある、その力とは何か」(番外編2の1:8)という問いから始まっています。そして、思想史を展望して、「ものごとを実現していく力」は、近代世界においては、まずもって懐疑する個人に宿る(2の2:74)という見通しを得ました。

1114.  では、「ものごとを実現していく力」は、近代日本においても懐疑する個人に宿るのかということが問題になる。この流れで、『こころ』の分析に取り掛かったわけです。だが、Kにも「先生」にも、自分の恋愛を成就させる力が宿っていないことが見いだされた。

1115.  近代日本における愛には、何かが足りないのです。今回は、『こころ』が提起した問題を整理して、西洋思想史における愛の思想と対比し、自分自身の愛を生きるために、Kや「先生」には西洋の愛の思想に宿るどんな要素が足りなかったのかを考えます。

1116.  なお、漱石作品に続いて本居宣長の「物のあわれ」論を取り上げ、前近代の日本で愛がどのようにとらえられていたのかを考えてきました。「物のあわれ」と西洋の愛の思想の対比は、次回扱うことにします。

4.5.1 漱石『こころ』の問題

1117.  Kが恋愛を成就させることができず、自殺を選ぶしかなかったのは、性的な愛(恋愛)を肯定する思想を、自分の中にも、社会の中にも、信頼する友の言葉の中にも見いだすことができなかったからでした。Kは求道的で女性蔑視の傾向があった。仮に、Kが求道精神も恋愛蔑視も投げ捨て、社会に反逆し、友人の言葉も意に介さず、恋に生きることができていたら、Kは死なないで済んだはずです。愛を肯定する思想を持っていなかったがために、Kは自殺に追い込まれたと考えられます。(番外編2の8:262-282)

1118.  一方、「先生」が自殺に追い詰められる過程はもっと複雑で、その過程と愛とのかかわりも、ずっと見えにくいものとなっています。「先生」は、愛には両端があって、高い端には神聖な感じがあり、低い端には性欲がある。私の愛はその高い極点を捕らえたものだ、と言っています(番外編2の5:154, 163)。この言葉からすると、Kと違って、「先生」は自分の恋愛を肯定することはできたのです。

1119.  しかし、「先生」は、Kから御嬢さんへの恋心を打ち明けられたとき、自分もその人が好きなんだ、と正直に打ち明けることはできなかった。恋愛を人間心理として肯定することはできるのに、自分の恋心と友人の恋心の競合を肯定することはできない。この事実は、「先生」がぶつかっている問題が、Kとは違って、個人心理としての愛の肯定の問題ではなかったことを示しています。

1120.  「先生」のぶつかっているのは、親しい他者と利害が対立したら、自分の方が身を引くようにすべきだ、という暗黙の社会規範だった。「先生」は恋愛を肯定しているので、自分が身を引くのは受け入れられない。かといって、Kと対立し競合するのは、身を引くべしという規範に反する。その結果、「先生」は自分の恋心をKに打ち明けることを避けて、あたかもそれが存在しないかのように振る舞ってしまう。つまり、嘘をついた。「先生」は、Kの恋心を批判しながら、Kを出し抜いて御嬢さんと結婚し、結果的にKを自殺に追い込んでしまいます(番外編2の5:142-167)。

1121.  御嬢さんと結婚したけれど、「先生」はKの死を忘れることができず、結婚生活はうまく行かない。妻にすべてを打ち明けようと思うけれど、どうしてもそれができない。こうして、Kを裏切った事実が「先生」から自分を信頼する力を奪って行きます。何かをしようとすると、いつも、お前は何をする資格もないという内心の声が聞こえてくる(番外編2の8:297-316)。そんな風にして日々を送っていると、明治天皇が死に、乃木大将がその後を追います。こうして明治という時代が終わって行く。「先生」は、「明治の精神に殉死する」という言葉を遺して自殺します(番外編2の9:326-336)。

1122.  Kは愛を肯定する思想を持ち得なかったがゆえに自殺に追い込まれた。他方、「先生」の自殺は愛をめぐる過ちがもたらしたものですが、「先生」における愛のどんな欠陥が破滅をもたらしたのか。この問題は、Kの場合のように分かりやすくありません。以下、『こころ』について、Kの自殺と愛の思想のかかわり、「先生」の自殺と愛の思想のかかわり、という二つの問題を考えます。

『こころ』と愛の思想――Kの場合

1123.  これまでに、愛の思想としては、プラトンのエロース論、アリストテレスのピリアー論、キリスト教のアガペー論を紹介し、検討してきました(番外編2の17~26)。「愛」は明治期に『英華辞典』を経由して“love”の訳語としての使用が広まった(番外編2の11:416)。明治以前における漢語「愛」の受容と使用は、今の日本語人が理解する「愛」の概念構成の一要素ではあるものの、さほど重要ではなさそうです(同417-419)。というわけで、『こころ』が提起する問題を、西洋思想史のなかの愛の思想と対比しながら検討することにします。

1124.  Kについては話は単純です。Kは自分の性愛を肯定できればよかった。だから、Kに必要なのは、プラトン『饗宴』のエロース論のように、性愛を肯定する思想だった。「エロース」には「愛」「恋」「欲求」などさまざまな訳語が当てられますが、おおまかに、性的な欲求に根ざした愛と考えておけばよいと思います。

1125.  『饗宴』はエロースを褒め称える演説を6人のアテナイ市民が次々に披露するという構成になっている。最後に語るソクラテスは、エロースに衝き動かされて恋の道を究めることには大きな価値がある、と説きます。ソクラテスは、どういう理由付けで個々人の性的欲求(エロース)を肯定的に評価したのか。

1126.  まず、悲劇作者アガトンは、『饗宴』のなかで、ソクラテスに先立って、「この神(エロース)が生まれるや、美しいものを恋い求めることからして、神々にも人間にもすべてのよきことが生じた」と演説します(番外編2の17:691)。エロースは神々の一員であり、一般に、好ましいものと見なされていたことが分かります。

1127.  ソクラテスは、アガトンと一問一答をくり返して、エロースは美や善を追い求めるものに過ぎず、神々の一員ではないこと、それだけでなく、エロース自身は美や善を備えていないこと、を明らかにします(番外編2の17:689, 690)。エロースは美しくも善くもなく、したがって神ではない。だが醜くもない。死すべき人間と不死なる神々との間の中間的な存在だと言うのです(同695)。

1128.  知は最も美しいものの一つです。エロースは美しいものに対する恋です。したがって、エロースは知を恋い求めるが、それ自身は知ある者ではない。知を求めて、知をまだ得ていない者です。つまり、知ある者と無知なる者の中間に位置する。このように、美しく善きものを求めるエロースは、本来的に、知への欲求にほかならない、とされます。(番外編2の17:695, 696)

1129.  これだけでは、性的欲望に根ざすエロースを、知を求める哲学的欲求に置き換えたに過ぎません。『饗宴』のエロース論の興味深いところは、性的欲求を知的欲求と融合させる仕組みを備えているところです。この仕組みは、エロースとはたんに美しいものを恋い求めるのではなく、美しいものの中で出産と分娩を目指すものなのだ、という叙述を通じて導入されます(番外編2の7:697)。出産と分娩をめぐる記述は少しわかりにくいものですが、あえて単純化すれば次のようになります。

1130.  性的欲求は死すべきものである生物個体のうちに、世代交代を越えて生き続けること、つまり不死性へ向かう力として内在する。動物は、性的欲求に衝き動かされて交尾し、子孫を生む。人間も、子孫を生むことによって、不死性にあずかる。性愛(エロース)はこの不死性へと人間を駆動する力である。エロースに衝き動かされ、個体を越えて残るものを生みだすことによって、人は不死なるものに参与する。かくしてエロースは、不死を求める欲求としてある。(番外編2の17:698)

1131.  プラトンは、ソクラテスの口を通して、個体を越えて残るものとして、子孫よりもむしろ〝ロゴス〟に多く言及します。この文脈では「ロゴス」は「言論」と訳されます。演説や書き物として残される言語表現を指すと解されます。恋の道は、まずは一つの美しい肉体を求めることから始まる、ここで美しい言論を産み出さねばならないというのです。これは恋人や恋そのものを称える詩や弁論を作ることでしょう。

1132.  人は、一つの美しい肉体から、すべての美しい肉体を求める段階へ進み、次いで肉体ではなく人間の営みの美しさへ、また諸々の知識の美しさへと進んで行き、最後には永遠にして不生不滅なる美のイデアを知る段階に達する。エロースにもとづく美しいものへの欲求は、永遠不変の美のイデアを知る水準に人を導く。これが恋の道の到達点なのです。そこへ至る過程では、美しいロゴス(言論)を数多く生み出さねばならない。ロゴスを生むことによって、人は不死に参与する。というのも、言葉は意味する作用において、意味されるものとしてのイデア、即ち永遠不変の存在に触れるからです(番外編2の17:719-723)。

1133.  以上をKの関心事に合わせて簡潔に言えば、道を究めるための根源の力は性愛であって、性愛に衝き動かされることによってのみ、人は永遠不滅の真理に到達する道を進むことができる。こうなります。ソクラテスに言わせれば、Kは、御嬢さんへの恋に本気で没入しない限り、道を究めることなどできるはずがない。性愛は、ロゴスを介して、この世を超越して真理を見る根源的な力となるのです。

1134.  人は、性愛を抑圧せず、むしろ成長させることによって、価値ある経験に到達する。しかしKは、性欲を抑圧することによって真理に到達する、というまったく逆の発想をしていました。『饗宴』のソクラテスの告げる〝真に価値あるものは、個人の性的欲求を抑圧せずに伸ばして行ったときにはじめて到達可能になる〟という発想は、Kだけでなく、現代の日本語人の大多数にとって、依然としておよそ馴染みのない考え方だと思います。

1135.  現代の日本語人は、いったい性愛をどのようにとらえているのか。以下に、大江健三郎が2006年に、インタビューのなかで語った一節を、一つのエピソードとして紹介します。若くして「性的人間」を書いた作家は、晩年にいたって自分が性について何を書くことができなかったのかを述べています。それは、現代の日本語人の性愛のとらえ方にどういう限界があるのかを示唆している。

「私は「性的人間」という中篇で、いわばある情景をスケッチするようにとらえるかたちで、痴漢になろうとしている青年を書きました。そういう人間が電車に乗っているということの強い緊張感。その結果、劇的な破局にいたるということで、その限りでは作品として成立しているものです。しかしその青年がたとえば三、四年の間、そうやって過ごしているうちに、人間として次の段階に至る――崩れていってしまうか、あるいは成長していくか。そんな仕方でスケッチの段階のものがその青年の人生の物語になる、それが小説だと思うんですね。…(中略)…私の場合は、性的な状況をスケッチする短篇はいくつも書いたけれども、一人の人間がはっきり成長していく過程として、それをとらえることはできなかった。(大江健三郎『大江健三郎 作家自身を語る』聞き手・構成 尾崎真理子、新潮文庫、2013、p.75)」

1136.  この一節は、性愛に関する現代の日本語人の限界をよく示していると思います。大江健三郎は、性的な状況を「スケッチするようにとらえる」ことはできた。だが、性的な状況を「一人の人間がはっきり成長していく過程として」とらえることはできなかった。いいかえれば、性愛を、強い印象を与える特別な体験としてとらえることはできる。だが、当事者がそれまでとは異なる何ものかになっていく過程においてとらえることはできない。

1137.  大江健三郎は、現代の日本語人が自分の一生を作り上げる内在的な力として性愛を肯定し、自分の中に位置づけるさまを、小説家として想像することができなかったわけです。「性的人間」の主人公は、自分の性的欲求を、破局をもたらす外部的な力として受け止めて生きることしかできなかった。大江健三郎のとらえた現代日本語人は、夏目漱石のとらえたKと、本質的に同じ限界のなかにいます。

『こころ』と愛の思想――「先生」の場合

1138.  『こころ』における「先生」の語りには、あそこで違う選択をしていれば自殺しなくてもすんだはずだ、と思わされる場面が二つあります。一つは、Kが恋心を打ち明けたときに、自分も御嬢さんを好きなのだと正直に打ち明けなかった場面。このとき打ち明けていれば、Kも「先生」も自殺しないですんだはずです。もう一つは、結婚後に奥さんにすべてを打ち明けようと思いながら、やはり打ち明けられなかった場面。このときも打ち明けていれば、「先生」は底なしの自己不信から立ち直り、自殺しないですんだはずです。

1139.  第一の場面の葛藤は、上で述べたように、「先生」の恋心と社会規範の間にあります。漱石は、利害が対立したら自分が身を引くべきだ、という暗黙の社会規範を設定していた。『それから』の代助は、いったんはこの暗黙の規範に服従し、次いでその服従を断然破棄して社会的な窮地に陥ります。「先生」は、自分が断念して身を引くことは受け入れられなかった。かといって、社会規範を断固拒絶することもできなかった。そこで、自分の恋心を秘匿して、葛藤があたかも存在しないかのように嘘をついた。この選択がKと「先生」に死をもたらしました。

1140.  第二の場面の葛藤は、小説のなかで分かるように書かれていません。漱石は、なぜ「先生」が奥さんにすべてを打ち明けることができないのか、説得力のある理由を述べることができなかった。「先生」は思い切ってありのままを打ち明けようとする。けれど、「いざという間際になると自分以外のある力が不意に来て私を抑え付ける」(「先生と遺書」五十二)と記しています。正体不明の「ある力」では説明にならない。(番外編2の8:301-305)

1141.  とはいうものの、ここで打ち明けて、「妻は嬉し涙をこぼして私の罪を許してくれたに違いない」(「先生と遺書」五十二)という展開になっていたら、『こころ』は終ってしまいます。理解者を得て、「先生」は自己不信から立ち直ったでしょう。

1142.  もちろん漱石は、「先生」の自殺という結末にもっていくために、奥さんに打ち明ける展開を避けたわけではないだろう。避ける理由は漱石本人にもよく分からない。理由が分からないから、小説のなかで説得的に理由を述べることもできない。だから「自分以外のある力」なんていう正体不明の原因を「先生」に語らせるしかなかったんだと思います。

1143.  第一の場面の葛藤を解消するために必要な手立てと、第二の場面のために必要な手立ては、基本的に同じです。それは、アガペー的な愛だと私は思う。「先生」はアガペー的な人間関係の理念を心にもっていないから、友人に自分の恋心を打ち明けることができず、奥さんに自分の過ちを打ち明けることもできない。その結果、自殺に追い込まれる。そのように解釈できるのです。

第一の場面とアガペー的な愛

1144.  第一の場面の葛藤を解決するためには、恋心を抑圧するか、または、利害対立があるときは自分が身を引けという社会規範を拒絶するか、どちらかが必要になります。恋心の抑圧は受け入れられない。すると、嘘をつかないためには、社会規範を拒絶するしかない。社会規範を拒絶することと、アガペー的な愛の理念がどのように関係するのか。

1145.  アガペー的な愛の理念は、神から人への無差別の愛を原型として、愛の律法の形で告げられていました。それは、「神を愛せ」という部分と、「隣人を愛せ」という部分から成る。社会規範にかかわるのは、隣人愛の教えの方です。

1146.  イエスは、「敵を愛せ」という言葉によって、これまでの関係がどうあろうと、そういう外的な条件や動機をすべて度外視して、相手の善を目指して自発的にはたらきかけよと告げています。この隣人愛の教えは、以下のように、アガペー的な人間関係のあり方として要約できます。

〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける。〉(番外編2の23:917)

過去のいきさつの度外視と自発的な善意という二つが、アガペーとしての隣人愛の特徴です(同921-924)。

1147.  敵〝だから〟憎む、身内〝だから〟愛するというのはアガペーとしての愛ではない。となると、Kが友人〝だから〟「先生」の方が身を引くというのも、アガペー的な人間関係のあり方ではない。規範に従うのか自分の恋心を優先するのか、諸条件をすべて対象化して自分で決定しなくてはならない。これが、事前のいきさつから自由に、自発的に行動するということです。

1148.  すると、アガペー的な人間関係の理念を「先生」が自分の原理として心の中に抱いていれば、少なくとも、恋心を秘匿してKを欺くという振る舞いは出てきません。「先生」は、たぶん

「実は、ぼくも御嬢さんが好きなんだ、君とはこれからもずっと親友だけど、恋敵になってしまうね、でもお互いがんばろう」

と言うだろう。あるいは、土壇場で気持ちを変えて、

「実は、ぼくも御嬢さんが好きなんだ、でも君とはこれからもずっと親友だから、恋敵にはなれない、ぼくは身を引くから、君、どうぞがんばってくれたまえ」

と言うかもしれません。どっちになるかは分からない。どちらになるにしても、善を意志して決断した結果の行動ということができます。

第二の場面とアガペー的な愛

1149.  「先生」が奥さんにすべてを打ち明けることができない理由は、小説の中で二つ述べられています。一つは上に記したように、「自分以外のある力」が押しとどめるという理由。これは理由になりません。とにかく自分は打ち明けられなかったのだ、と言っているに過ぎない。もう一つは、自分の過ちを告げることで「妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかったから」(「先生と遺書」五十二)という理由です。

1150.  こちらも理由として機能しません。この理由づけを受け入れると、「先生」は奥さんの記憶を汚したくないから事の真相を告げず、その結果「先生」は自殺した、という筋立てになる。「先生」は、記憶を汚すという奥さんにとって比較的小さな不幸を避けて、かえって夫の自殺という巨大な不幸を強いた形です。これは、小なる悪を避けて大なる悪を選ぶという不合理な行動に見えます。つまり、理由が理由としてまともに機能していない。

1151.  漱石もそれは自覚していたのかもしれません。真相を告げて奥さんの記憶を汚すのは「私にとって大変苦痛だったのだと解釈してください」(「先生と遺書」五十二)と記している。文体が、読み手に懇願する書き方になっています。

1152.  結局、「先生」が奥さんにすべてを打ち明けない理由がはっきり見えてこない。これは『こころ』という小説の弱点だと思います。ちゃんと話して、ほんとうのことを言やぁいいのに、と素朴に思ってしまう。長い遺書を書いて、語り手の「私」に死後に渡るように手配したりするのじゃなく、生きてるあいだに奥さんに話すのが普通じゃないか。奥さんに話すと、しかし、「先生」の自己不信という『こころ』の根本的な動機は消滅します。小説の弱点は、小説の根本動機に結びついている。

1153.  漱石には女性への軽視ないし蔑視の傾向がかなり強くある。この傾向についてはいろんな人が述べていると思います。ただし一種の常識なので、誰がどのように指摘しているか、典拠を示す用意がありません。『こころ』の場合、この傾向は、奥さんがずっと事の真相から遠ざけられているところに典型的に現れる。

1154.  なぜ奥さんに事の真相を隠すのか。「妻の記憶に暗黒な一点を印するに忍びなかった」という理由づけは、奥さんが対等の相手として「先生」から扱われていないことをはっきり表現しています。真相を隠し、事実から遠ざけて、保護しておかなければいけない相手として扱われている。真相から遠ざけ、保護する理由は、結局のところ、女性だからという以外にはないでしょう。

1155.  敵だから憎む、身内だから愛するというのは、アガペー的な愛のあり方ではない。女性だから事の真相を告げないというのも、アガペー的な人間関係のあり方ではない。〈愛(アガペー)に生きる人は、過去のいきさつから自由に、どんな相手に対しても、相手にとっての善を願って自発的にはたらきかける〉のです。

1156.  事の真相を知らせること、事実を共有することは、相手が相手の視点から善を目指して合理的に行動するための基本的な条件です。情報を改竄したり秘匿したりすることは、相手が善に到達するのを妨害するので、〝相手にとっての善を願う〟行動ではありません。それゆえ、「先生」はアガペー的な愛をもって奥さんを遇しているとはいえない。むしろ、事の真相を打ち明けることが、奥さんを愛することだった。

1157.  奥さんに事の真相を打ち明けていれば、「先生」は、自己不信から立ち直ったでしょう。その心理的な仕組みは、懐疑からどうやって脱け出すかという問題として扱いました(番外編2の24:989-1010)。「自分は間違っているかもしれない」という疑いを脱け出す唯一の方法は、誰かから「あなたは間違ってはいない」と告げてもらうことです。あからさまにそう告げてくれなくてもいい。相手が善意をもって応答してくれるだけで足ります。

1158.  人の善意は、「愛」「向社会性」「利他性」などさまざまに呼ばれます。これらの言葉は、人が相手に協力して何かを成し遂げる働きを言います。他人が私に協力してくれているとき、私は許容され、承認されている。相手が善意をもって応答してくれて、協力が成り立つとき、その背景として、「あなたはそれでいい」という承認のメッセージが暗黙のうちに伝えられるのです(番外編2の25:1019)。「先生」は、奥さんが善意をもって応答してくれるだけで、底なしの自己不信から立ち直ることができたはずです。

1159.  Kはエロースの真価がわからなかったために自殺した。「先生」はアガペー的な愛を心に抱いていなかったために自殺した。二人の明治人は、結局のところ、エロースとアガペーをわがものとして持っていなかったために破滅せざるを得なかった。西洋の愛の思想によって『こころ』を分析すると、こういうことになります。

1160.  一言つけくわえると、西洋近代のキリスト教文化圏であっても、プラトン的なエロースやイエスの説くアガペーが日々実践されているわけではないと思います。美のイデアとは無縁の性行動や、虚言を弄して他人を操作する人間関係は、洋の東西を問わず存在するにちがいない。ちがいがあるとすれば、エロースやアガペーの思想が、知ってる人は知っている理念として、社会のなかで受け継がれているかどうかだけでしょう。この種の違いは、ある社会の人々が何を想像できて何を想像できないか、という想像力の地平を限る要因となる。その意味で、『こころ』は、現代の日本語人が受け継いでいる地平の限界をとてもよく示していると思います。

1161.  年末年始は休養します。次回は1月27日に公開の予定です。主題は本居宣長の「物のあわれ」論と西洋の愛の思想の対比。それでは、みなさまよいお年をお迎えください。

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