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西洋近代と日本語人 第2期[番外編2の16]

4.近代日本における懐疑論と個人主義(続き)

4.4 愛の思想について

4.4.2  中休み ――ここまでを振り返る

643. 本居宣長の話が一段落したので、本ブログ第2期の、ここまでの話の流れを振り返りたくなりました。一つの記事を書きながら、次の回ぐらいは論題を考えていますが、それより先はどうなるかわからない。そんな感じで議論をつないで来ました。ある程度予定を立てて、あとは論理と連想の流れにまかせる。自分の頭の中を散歩する感覚です。『こゝろ』についてあんなに長く(2の5*~9)検討することになるとは思っていなかった。本居宣長なんて、手を付けてしまってからも、なんでこんなことになったんだ(よく知らないのに他人様に得々と話してる!)、と慌てました。このあたりで、ちょっと話を整理したい。

注*: 正式には「第2期、番外編2の5」ですが、「2の5」と略します。

644. 第2期は、「ものごとを実現して行く根底には力がある、その力とは何か」(2の1:8)という問いから始まった。この問いは、ユルスナール描くところのハドリアヌス帝の言葉から派生したのですが、第1期の暴力をめぐる一連の話とゆるやかにつながっています。

645. 第1期は「私たち現代日本人は自信をもって〝正しい暴力〟を振るうことができない」(その2*:3.8)という私の直感が議論の出発点にあった。この直感に導かれて、進化生物学から現代美術まで、いろいろな話をしました。この話はまだ締めくくりまで到達していません。なお、締めくくりは、当初の予定どおり(2の1:3)、村上春樹の『海辺のカフカ』の検討にするつもりです。でも、その前に、第2期で暴力から力一般に論点を拡張したわけです。暴力は政治権力の核心に位置しますが、「ものごとを実現していく力」の一部です。

注*: 詳しくは「第1期その2」ですが、「その2」と略します。「そのX」は第1期のX番目の記事、「2のX」は第2期のX番目の記事、ということで紛れは生じないと思うので。

646. 「ものごとを実現していく力」を、プラトンのように感覚的世界の外に在るイデア(理想形)と見るか、アリストテレスにならって感覚的世界の内に在るピュシス(自然本性)と見るか、という対立が古代ギリシア哲学に見出される(2の1:8-31)。この対立はキリスト教の教義に流れ込む(2の1:33-36)。中世盛期(12、13世紀)にはアリストテレスの学問体系がヨーロッパの学界を席巻するが、中世末期から初期近代には、世界の外に立つ神 God が、みずからの意志をこの世界に刻み付けたという考え方(神意論 voluntarism)が優勢になる。

647. 物体の世界に刻み付けられた神の命令が自然法則であり、人間の世界に刻み付けられた命令が道徳的自然法である。私たちは、この二系統の命令を見出す努力を続けることによって、よく生きることが可能になる。大略こういう枠組みで西洋近代文明はできている。そう私には思われます。

648. 近代文明は、17世紀の西ヨーロッパにおいて、宗教改革と科学革命と市民革命のなかから生み出されました。人々は、大変動に翻弄されながら、懐疑論と個人主義を拠りどころにして文明の新しい形を作り出した。懐疑論とは、人間は何かを確実に知ることはできないのではないか、という疑いををいいます。また、個人主義とは、ここでは知識についての個人主義なのですが、人間は、自分が確かめて本当だとしか考えようがないことだけを真理として受け入れることが許される、という立場をいいます。(2の2:49)

649. 疑うことと自分で確かめることは、近代という生活様式の根幹に組み込まれている。近代社会では、人は、自分の理性的判断だけを根拠として、どんな社会的権威を疑ってもよい。また、自分が確かめて本当だと思ったことは、どんな権威にも忖度せず、率直に表明することが奨励される(2の2:52)。「ものごとを実現していく力」は、近代においても根本的には神の意志なのですが、人間の理性は、通念や定説を疑い、自分の見方に徹底してこだわることを通じて、未知の真理(隠されていた神の意志)に迫ることができる。この意味で、「ものごとを実現していく力」は、近代世界においては、まず懐疑する個人に宿るのです(2の2:73)。

650. 日本は、「文明開化」の名のもと、19世紀半ばから精力的に近代化に取り組みます。日本の場合、懐疑する個人は、近代化を推進した側よりも、むしろ近代化に抵抗した側に見出される(2の2:53-57)。そういうわけで、「私は懐疑派だ」の二葉亭四迷と「私の個人主義」の夏目漱石を取り上げ、さらに個人と国家の関係をめぐって(2の4:137)、漱石『こゝろ』の解釈に深入りすることになりました。

651. 『こゝろ』のKは、「愛を高く評価する〈共同意志〉のない社会に生きて、一人の友人を頼り、欺かれ、自殺するに至った」(2の8:282)のでした。その自殺は、「性愛に惑う自分の身体を罰することで、Kが元々所属したいと願っていた求道者たちの理想の共同体に自分が復帰できると考えた」(2の9:325)ことの帰結だった。

652. 「先生」は、「乃木の殉死に自分の死をなぞらえることによって、自分の過ちを罰する力」(2の9:338)を獲得する。殉死という不可解な選択は、「国民国家と共にあるという仕方で、はじめて「先生」は自分の死を意味づけることができた」(2の9:358)ことを表している。「先生」の生涯において、「人生の意味、…〔中略〕…となるようなものは、建設中の国民国家のほかに何もなかった」(2の9:358)のです。自殺にいたる「先生」の一生は、「心に空虚を抱いた明治人がナショナリズムに呑み込まれて行く」(同)過程を描き出しています。

653. こうしてふりかえってみると、Kや「先生」の運命を考えることは、近代日本において、「ものごとを実現していく力」は懐疑する個人に宿りうるのか、という問いに答える作業だったことがわかります。Kにも「先生」にも、自分の恋愛を成就させる力は宿っていなかった。

654. 近代的個人は、この世界の外に在る神の意志と直に結びつくことで、国家や社会と対等にわたりあう力を獲得します。この図式に照らすと、神という世界外の存在を知らないKや「先生」には、世界内の権力に逆らって自分の愛を貫く力が宿るはずはなかった。自殺することによってKは求道者たちの理想の共同体に復帰し、「先生」は建設途上の国民国家に殉じます。二人とも、最期には、神の意志ではなく、世界内の共同体と結びつくことによって人生を意味づけたのでした。

655. Kも「先生」も、性愛の欲求に屈した自分を罰することで、共同体への帰属を許してもらう形になっています。二人とも、自分の心情を自分で肯定できれば、共同体に許してもらう必要はなく、自殺なんかしないで済んだはずです。

656. Kの場合、求道精神を投げ捨て、社会常識に反逆し、友人の批判など一笑に付して、恋に生きればよかった(2の8:279)。「先生」の場合、御嬢さんへの恋心をKから打ち明けられたとき、自分も同じ気持ちであることを率直に打ち明けて、公明正大に競争すればよかった(2の5:165, 166)。たったそれだけのことができないのは、我が国に愛を高く評価する思想がないからでしょう(2の8:282)。そういう次第で、愛を高く評価する思想の候補として、本居宣長の「物のあわれを知る」の説の検討に着手したのでした(2の11:422)。

宣長の恋
657. 宣長について、これまでほんのすこし触れただけで、取り上げなかった挿話が一つあります。大野晋の推定によれば、おそらく結婚、離縁、再婚をめぐって、宣長自身に苦しい恋の体験があった(2の12:478注)。社会的に認められない恋慕の情を宣長は経験しており、その孤独な煩悶のなかから「物のあわれを知る」ことの意義の認識が生まれた。大野晋はそう見ています。

658. この説を信じてよいとすると、宣長は、〝自分の性愛を自分で肯定する〟という思想的な仕事を、かなり効果的にやってのけたことになります。恋愛の意義を「物のあわれを知る」という点で肯定したことは、少なくとも『源氏物語』の解釈を一変させる効果があった。ただし、これが広く受容されるには没後百年以上かかりました。「物のあわれ」の説はそれだけ先駆的な仕事だったと言えるでしょう。

659. あるいは、紀記の伝える神代を、儒仏の教えによらずに穏やかに治まっていた理想状態として描き、このことを通じて、勿体ぶった戒めに依拠せずに、互いの感情を共有する(物のあわれを知る)だけで成り立つ社会がありうることを素描してみせた(2の13)。ただし、描かれたのは「おのわたくしのかしこだて」を排する社会であり、現代の私たちにとってはおよそ魅力に欠けます(2の13:540-542)。しかし、とにかくそれは、外来の教説に依存せず、自分たちの本来の心情を肯定することによって社会が成り立つ、と主張するものではあった。Kや「先生」は、自分の心情を否定して既存の共同体に帰属する道をたどりました。宣長の「物のあわれを知る」ことの意義の発見は、それと違って、自分の心情を肯定して既存の枠組みを乗り越える方向へ進んだ。

660. ではいったい宣長はどういう恋を体験したのか。大野晋の説くところをかいつまんで述べます*。宣長は、宝暦2年(1752)3月から宝暦7年(1757)10月まで、医学修行のために京都に遊学します。遊学の終わりに近いころ、宝暦6年4月に父親の法事があり、宣長は京都から松坂に一度帰って来ます。宣長の日記によれば、東海道を通り、津に立ち寄っている。津には、親友の草深玄周がいた。京都で一緒に勉強した仲間です。宣長は草深家を訪れ、泊まっています。もう一人の同門の友人も来て、歓談の夜を過ごしたらしい。同年5月、京都にもどる時も、津を通り、玄周のもとに立ち寄っている。

注*: 大野晋「語学と文学の間 ―本居宣長の場合―」、大野晋『語学と文学の間』(岩波現代文庫 2006)pp.1-45。

661. 草深玄周には妹がいて、民といった。民さんは、宣長が草深家を訪れた宝暦6年には16歳です。宣長は26歳。6年後の宝暦12年(1762)1月、宣長は民さんと結婚する。ただし、民さんも宣長も、再婚でした。何があったのか。

662. 宣長が草深家を訪れた翌年、宝暦7年(1757)に、民さんは17歳で藤枝九重郎へお嫁に行きます。その年の10月、宣長は京都から引き揚げて松阪に帰ってくる。その時点では民さんはすでにお嫁にいっていた。宣長は、このとき東海道を通っていない。津を通らずに、大和路を回って松阪に帰っている。

663. 大野晋は、「何も証拠はないのだけれども」と前置きして、「法事で松阪へ往復の途中の、二度の訪問のとき、宣長は民さんを見てはいなかったか。民さんは給仕に現れなかったろうか。宣長は民さんを見初めたのではないか」(前掲[660注], p.36)と想像しています。娘も、草深家の人々も何も気付かず、翌年民さんは他家へ縁づいた。だが、宣長の心には民さんのことが刻まれていた。きっとそうに違いないというのです。

664. 宣長の歌論『排蘆あしわけ小船をぶね』は、ちょうどこのころ書かれたと推定されています。その一節にこうある。

「ワガ妻ナラヌ女ニ心ハ掛クマジキ物トハ聖賢ノ人ハサルベケレドモ、凡人イカデトドメアヘン。我心ニモ心ハ制シガタキハ世ノ常也。サレバ克己トイフコト昔ヨリナリガタキ事也」(大野前掲書 p.37の引用)

自分の妻ではない女性に想いを懸けてはならぬというのは、聖人や賢人ならそうなのだろうが、凡人にはどうしてとどめられようか。自分の心であっても、心は制しがたいのは世の常だ。己に克つというのは昔からうまくいかないのだ。

665. 和歌一般を論じた書としては妙に具体的な例を挙げて、恋情の抑えがたさを強調しています。これは書物を読んで得た知識のはずがない。儒教も仏教もこんなことは主張しない。宣長の体験が背後にあるとしか考えようがない(大野前掲書、p.30)。ほかにも、「コノ色欲ハ、スマジキ事トハアクマデ心得ナガラモ、ヤムニシノビヌフカキ情欲ノアルモノナレバ」(同 p.37の引用)といった文言も見られる。歌はそうした深い思いによって生まれるという。そして、宣長は京都を引き払って松阪に帰ってから、三年間結婚していない。

666. 丸谷才一は大野晋の説を全面的に受け入れて、というかむしろ、かなり潤色して、「当時のことですから三十近くになつて独身なのはをかしい。当然いろいろ縁談があつて、それを断り続けてゐたと思はれます。民さんの面影がちらついて、ほかの女を迎へるきになれなかつたのぢやないか」*と推定している。宣長は、しかし、4月10日、松阪の村田孝太郎の娘、美加みかさんと結納を交しました**。

注*: 丸谷才一『恋と日本文学と本居宣長』(講談社文芸文庫2013)p.76。
注**: 大野晋は、4月8日の宣長の日記に「納采村田氏」とあると記しています。丸谷才一は結納を10日とする。日付が違う理由は分かりません。

667. 宣長の結婚が、丸谷のいうように「周囲の圧力に抗しかねて」(丸谷前掲書、p.77)だったのかどうか、それは分からない。結婚式は宝暦10年(1760)9月14日に行われました。ところが、結婚したその年の12月18日の宣長の日記に、「美加さとに帰る。離縁す」という短い一行がある(大野前掲書、p.31)。結婚はうまく行かなかった。その翌年、宝暦11年(1761)11月4日の記事に、草深玄弘の娘(草深玄周の妹)の民さんに結婚を申し入れたとある(同上 p.32)。なにがどうなっているのか。

668. 大野晋の探索によると、宣長が美加さんと結納を交した4月10日の直後、4月26日に民さんの夫の藤枝九重郎が亡くなっている。この事実は、津のいくつものお寺の過去帳を、伝手をたどり、あらいざらい調べてもらって突き止めたのだそうです(大野前掲書、p.40)。民さんの夫が死んだことを、宣長はなんらかの仕方で知っただろう。だが、それは結納を交した後のことです。どうすることもできない。予定通り、美加さんとの結婚へ向けて事態は進行した。とはいうものの、結婚はしたけれど、宣長はすぐにそれを解消した。経緯はまったく不明です。とにかく、美加さんにはひどい仕打ちですが、離縁してしまった。そして、民さんと宝暦12年(1762)1月に結婚し、死ぬまで仲睦まじく暮らします。

669. 大野晋は次のようにこの体験を意味づけています。ここにいたる経過を通じて、宣長は「恋を失うことがいかに悲しく、行方も知れずわびしいかを知った」(大野前掲書、p.39)だろう。また「人妻となった女を思い切れず、はらい除けきれない男のさまを、みずから見た」(同上)だろう。そして、「恋のためには、相手以外の女の生涯は壊し捨てても、なお男は機会に恵まれれば自分の恋を遂げようとするものだということを自分自身によって宣長は知ったに相違ありません。」(同上) この経験が宣長に儒仏の教えから独立に『源氏物語』を読み取る目を与えた(同上)。

「『源氏物語』は淫乱の書でもない。不倫を教え、あるいはそれを訓戒する書でもない。むしろ人生の最大の出来事である恋の実相をあまねく書き分け、その悲しみ、苦しみ、あはれさを描いたのが『源氏物語』である。恋とは文字の上だけのそらごとでなく、実際の人間の生存そのものを左右する大事であり、それが『源氏物語』に詳しく書いてある。そう読むべきだと宣長は主張したかったに相違ない…〔後略〕…」(大野前掲書、pp.40-41)

670. この大野晋の説は、直接的な証拠が希薄なのが難点ですが、説得力はあります。「物のあわれを知る」ことに恋愛の意義を見いだし、儒仏の教えを全否定する思想は、当時のどんな書物にも記載されてはいなかっただろう。宣長が自分の実生活での経験を通じてこの思想に到達したというのは、十分ありうる。その儒教批判がじつに執拗だったのも、自分の愛を擁護するための生涯にわたる粘着だったかもしれない。また、日野龍夫が指摘するように(2の11:426)、「物のあわれ」が同時代によく使われた言葉だったにしても、歌論や物語論で決定的な役割を果たす概念として用いるについては、本人の強い思い入れが作用した可能性は高いはずです。

671. 先にも記したように(658)、宣長は〝自分の性愛を自分で肯定する〟という思想的な仕事を、かなり効果的にやってのけたと言ってよいでしょう。宣長は、漱石の造型したKや「先生」にはできなかったことをやってのけた。自分を殺さず、権威を否定し、自分を肯定して、生きのびた。ただし、「物のあわれを知る」ことの意義の強調は、物語論や歌論においては有効だったけれど、これを生き方の原理として一般的に採用するのはうまく行きそうにありません(2の12:489-501)。たとえば、「物のあわれを知る」ことは、国を治める上でも有効なはずだと宣長は考えた(2の12:463)。けれども、社会形成の原理としては有効でないように思われます(2の12:501)。

672. 「物のあわれを知る」の説は、前近代の日本における愛の肯定の思想だったわけですが、社会を形成する根本原理としては力不足を否めない。これに対し、ユダヤ-キリスト教によれば、全世界は神 God の愛の発露である創造のわざによって成った(2の14:562)。神 God を愛し、隣人を愛すること、さらには敵をも愛することは、人間社会を成り立たせる根本の原理なのです(2の10:372、2の14:565)。この世界の根本原理としての愛は、「物のあわれを知る」ことと、どこがどのように違うのか。そのあたりを、次回、プラトンのエロース論、アリストテレスのフィーリア論、キリスト教のアガペー論をとりあげて、考えてみたいと思います。

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