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「楽譜の新機軸」③ 楽譜をめぐって川島素晴さんとの対談(2018/11/27)

・演奏不可能性について

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川島:歴史的なことを少し確認したいなと思います。この作品(VOX-AUTOPOIESIS)は、そういう意味では、演奏不可能性ということが前提になっているんですよ。ヴィルトゥオジティとかそういうこともやはりあるわけですよ。それこそ、さきほどの話で言うと、ショパンとかリストのピアノ曲とかパガニーニのヴァイオリン曲とかを思い出した時に、ヴィルトゥオーゾはどちらかというと先ほどの分類で言うところの、記述的な譜面といっていいと思うんですよね。もちろん彼は作曲をしなかったということではないと思うけれども、ほぼほぼ即興でもできてしまうようなことを記録しているような性質があります。当時としてはとりあえず書いてみて、出版したらどんどんできるような人たちが出てきた。そういう循環があると思うんです。

こういうヴィルトゥオジティはやはり演奏できることを想定しているんですね。そういう意味では小宮さんの作品は単にヴィルトゥオーゾということではない。

では、そう言ったときに歴史的に考えてどういうものがあったのか。

私、タモリ倶楽部という番組で「無理無理楽譜」という題名で現代音楽の特集をやったことがありまして。弾けない音楽の話になったんですよ。最初シュトックハウゼンの『クラヴィーアシュトゥック10番』というのを紹介しました。それは僕の中で弾けるものだと思っていて、なぜかというと楽譜に「なるべく速く」としか書いてないから、自分のできるテンポで弾けばいいんですよ。そういう意味ではこれは弾けない楽譜ではないんだということは企画会議で言ったのですが、「ちょっとネットでググったらこれ有名だったんでこれ是非!」みたいな感じで言われまして。
クセナキスも番組で紹介しました。クセナキスは本当に不可能なことを書いているんですね。

不可能性にも二つのパターンがありまして、一つにはものすごいヴィルトゥオジティの高いということによる不可能性。しかし、あの番組でも紹介したクセナキスの作品は、3段譜に全然違う音域の音が同時に出てきて、それが色々動かなくてはいけないというものです。これはどうやったって無理と言って、タモリさんとかと3人で分け持って弾いてみたんですが。

つまり一人の人では絶対弾けない数の音が書いてあり、物理的に演奏不可能なんですよね。そういう不可能性というのはヴィルトゥオジティを超えているわけですよ。演奏を本当に想定していない譜面の作り方をしているということで、クセナキスのオーケストラ作品にもそうところがたくさんあります。そういった意味で小宮さんの作品は少し近いかな思いました。それについてはどうですか。

小宮:全くその通りだと思います。前、打合せさせていただいた時にも出て来ましたが、ファーニホウはすごく難しいですが、とても楽器法を調べて、その上で、これならできるだろうと踏んで作曲している演奏不可能性ですが、クセナキスはそもそも演奏する身体が考慮に入ってないという不可能性。やはりそこに親近感を感じますね。あとクセナキス普通に好きですね、

川島:そうなんです。ですから、先ほどの、特にオーケストラ作品のスタンスのなんかは演奏不可能性という意味において、近いところがあるなと思っています。物理的に可能か不可能かギリギリ考慮しないという結果としてのものだということで。例えば、有名なクセナキスの『メタスタシス』では、弦にグリッサンドが書いてあるのですが、その後、彼は管楽器とかにも平然とたくさんグリッサンドを書き出すんですね。トランペットとかにも書いてしまうので、どうやってやるんだよ!みたいに思います。そういう譜面になるわけですが、何とか無理やりやるわけでしょ。なんとか無理やりやる姿が凄いみたいな話になってくるわけなんですが。

小宮:羨ましいですね。クセナキスぐらいだったら演奏してもらえる。

川島:そういうところまできている人だから、やってくれる。というか、「クセナキスをやる」という風に思ってくれるという事ですよね。ですので、そういう意味では、小宮作品が今後そこに立てるかなという話ですよね。やはりそういうモチベーションを喚起する何かがないといけない。

さて、この問題は置いておいて、ヴィルトゥオーゾの演奏不可能性という話になりました。

ファーニホウという人は本当に難しい譜面を書くのですが、先ほどもおっしゃったように、一応できることを書くんですよね。
『Unity Capsule』というフルートの曲があるのですが、これはフルートソロにもかかわらずシラブルと音とその他諸々、色々なものが、多層的なレイヤーで記述されていて、それを全部同時多発的に読まなくてはいけない。それをその通りやると言うのは、その一小節のために何日さらわなきゃいけないんだという事が続く。その一小節をさらうのにもちろん命がけでやればなんとかなるのかもしれませんが。

ピエール=イヴ・アルトーという人がこれを吹いていますが、彼の場合はその時見たまんま吹くみたいなことを言うわけです。つまり、最初からパーフェクトに弾こうとしていないんです。そのピエール=イヴ・アルトーのやり方が正しいかどうかわからないですが、ファーニホウは認めてやっているわけですから、そういうこともありということですよね。

『Unity Capsule』など70年代中頃の、一人の人間が複数のレイヤーを持った譜面を同時に演奏しなくてはいけないような彼の複雑な音楽というのは、完璧に演奏されることを想定していない楽譜と言えなくもないんです。そういう意味では ファーニホウの一部の作品は、理想的なものとして記述されている。これは記述というよりはさっきの議論で言う所の規範的楽譜としてある。しかし、演奏は確実にそれを全部拾いきれないはずだということで、不完全性を強要するみたいなところがあると。

ところが最近、これを本当にパーフェクトに吹いてしまうような人が現れはじめています。ですので、そういう意味では本質的に規範的な楽譜なんです。クセナキスとファーニホウは、そういう意味では本質的に違うだろうと言えると思うんです。

・様々な楽譜の有り様をめぐって

川島:もう一つのトピックとして、『VOX-AUTOPOIESIS』を巡って、譜面の有り様としてこれはなんなのかということなんです。
それは、即時的に出てくる譜面であり、だから、練習されることを想定してないということなんですね。先ほど、うまくなってきてしまうという話がありましたが、慣れることによってだんだん習得されていくプロセスもあるとすれば、さらえないけれどある種のテクニックを向上させることによって、まさにおっしゃるような可塑性を求めているような性質がありえるかもしれないですね。そういう色々な観点で言った時に、譜面の有り様をどういう風に歴史的な概観をするかというところがあります。先ほどの2つの分類だけではない議論で考えると、楽譜というものの性質として色々なことをやっている人がいる。

図形楽譜という有名なものがありますが、これは従来の五線を読むという習慣を拒絶して、習慣的ではない読み方というのを一つずつ要求します。

図形だけではなく、最近、足立智美さんの例では、ビデオにエレキギターをどうやって弾くべきかというアクションを録画しておくわけなんですよ。ですから、無音なアクションになっているんですが、テーブルで手を動かしている、という映像が延々と続きます。ギタリストはそれを見ながら、その通りのアクションをギター上で展開するという作品です。これは足立さんによれば一種のタブラチュア譜です。動画を見て練習するということにおいては、始まりから終わりまでの時間的な経過の中で何をするべきかを練習する過程があります。ですから、それはタブラチュアとしての性質があって、練習して演奏家はそれをその場で見ながら演奏します。
山田岳さんは本当に素晴らしいパフォーマンスを行っていて、ほぼ完璧にその動きを再現します。そういう新しい楽譜・アプローチがあります。つまり譜面というものが従来の譜面という性質を超えた、また何か新しい性質を持っているものに変質しています。
しかし、足立さんは、これはタブラチュア譜だと言っているわけなので、そういう意味ではギターの tab 譜と同じような性質の、演奏すべき行為がきちんと規定されているというタイプのものになります。

では小宮さんの作品はどうなのかということですよね。

それは演奏すべきことが記述されているといえばされているかもしれませんが、しかしそれは不完全性を前提としているということなんです。それがしかも自動生成されるという意味で、これもどこに定義付けられるかも難しいところに立っているなと思います。

小宮:パフォーマティヴな楽譜と呼ぶのはどうかなと思っています。耳に聞こえる音響を楽譜に記しているのではなく、体がどう使われるかを記しているという点でパフォーマティブと思っています。記述/規範から、動き/聞こえるものの楽譜の二項対立みたいなのが出てき始めているのかなと思いました。

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川島:うーん、そうですね。動きっていうものを書いているんですという議論で言えばそうかもしれない。

あと、もう一つベクトルとして考えないといけないこととして、自動生成していくのでその場で対応しなければできないというタイプのものだということですよね。
従来の、「譜面を練習して本番に臨む」ということを拒絶しているわけですよね。ですので、これは練習すれば練習はできると思うんですよ。プログラムに従って練習できる。だけど完璧な演奏をすることを練習することはできないんですね。

この作品のパフォーマンスを練習して向上させることはできますが、どこまで行っても完璧にはできない。

完璧にするということは不完全で、完璧になってしまったらプログラムを複雑にせざるを得ない。そのようないたちごっこが始まるわけです。楽譜を見て演奏する行為は本来、楽譜がまさにその規範的という性質を持ち、その規範性を持つが故にそれをなるべく習得しなさいねという前提があります。ですから、さきほどのファーニホウの例で言うと、「およそ不可能に近いよね、だから不可能でいいでしょ」という態度の人がいて、でも、「本当は理想像としてはできるはずだよね」というスタンスです。それで、最近はできる人が出てきちゃったよという話があるとすれば、小宮さんの作品は、そのいたちごっこの先にいるわけですよね。

小宮:不可能性をすでに織り込んでいます。

川島:クセナキスも、不可能性を目的化して書いているわけではないですよね。絶対不可能だとわかっていて書いているというよりかは、あまり考えていないからそうなったという話です。それは先ほどのオーケストラの作品に態度は似ているかもしれないですが。声の方の作品で言うと、あらかじめ不可能であることを前提にしているという意味において、やはり性質が違うと思うんです。クセナキスの『エヴリアリ』みたいな譜面も、物理的に不可能な所があり、クセナキスも不可能だとわかって書いているに違いないですから、それに果敢に挑戦する姿が見たいんだと言う気持ちが、ゼロではないと思いますが。しかし、不可能であることが目的ではないですよね。そういう意味では本質的にクセナキスとは違ってくるというわけです。

本質的に完成を目指して練習されることを目的化していない譜面であるという面白さが『VOX-AUTOPOIESIS』にはあるんですね。

ただ自動生成することだけを取った場合、アルゴリズム/コンピュータ音楽の様々な分野で、人間を相手にしないものは結構あります。ここでの本質的な問題は人間を相手にしているということなんですよ。この音楽は、人間がいないバージョンもありましたが、どこまで行っても人間を相手にしている音楽という態度なんだろうなということがにじみ出ています。
その意味で単なるアルゴリズム作曲でもないですし、どこまでいっても人間が相手なんだということですよね。

さて、もう一つ考えなくてはいけないベクトルがあって、それはこの譜面です。売られている譜面です。

この売られている譜面というのは先ほどご説明にもありましたけれども、プロダクトとしての譜面なんです。
つまり、普通、譜面というのは買って「よし、さらおう」と思って練習ができるわけですが、この譜面はできないというわけですね。演奏された結果物というものを単に商品として、アートワークとして提示しているという態度なんですね。これは音楽家の仕事ではないです。どちらかと言うと美術的なアートワークとしての態度だと思うんですよ。

これに関して言うと、色々な例が実はあるのですが、一つ身近な例で言うと、安野太郎さんという人がいますね。ゾンビ音楽というのをやられている方なんですが、私が企画した年の JFC 作曲賞をとりまして、副賞として譜面が出版されたんです。さて、ゾンビ音楽はどんな音楽かと言うと、リコーダーに指の模型が付いているんですね。それをコンピューター制御して運指します。しかし、これが01のツービットの信号を送っています。普通の人間でしたらドレミファソラシという運指しかできないのですが、ゾンビがやるからこの指は開く閉じるというのを全部信号化できます。そこにエアコンプレッサーで空気を送り込んで、その結果出る音というのが、何か変な微分音でしたり変な色々な音だったりになります。そうやって奏でられる音楽なんですね。この作品に提出された譜面というのがありまして、その全ての指のオンオフが譜面になっているんです。何十段という、ものすごく膨大な譜面なんですよ。四重奏で書かれていたんですが、一台につき指が8本分とかあるとすれば、それでもう8段、つまり四重奏なので8×4で32段譜みたいになっています。カルテットなのに。それで、ものすごい量のオンオフが譜面になっているんですよね。その譜面を見たところで全く音響が想像できないんですよ。この譜面、なんのための譜面なんだっていう。なぜなら彼がその作品を演奏する時は自分のコンピュータプログラミングを走らせるだけですから。スコアの一つの用途として観賞用というものがあるじゃないですか。自分がオケを演奏するわけじゃないけど、オーケストラの曲を聞きながらオーケストラの譜面を見るとかね。すると「ここでこういう風にフルートのソロがあるな」と聞けるという、リスニングガイドとしての側面があるわけです。でもその安野さんの譜面に関してはそういう意味にすらなっていないんですね。この辺やっているんだろうなと推測ぐらいはできるけど、もうなんの音かも全くわからないですから。動画でも見ていればこの指はオンオフだとか分かるかもしれませんが、音響を聞いているぶんには何の意味もないんです。

では、この譜面を欲しい人がいるのかなと言う謎があってですね。演奏する目的でもない。鑑賞ガイドにもならない。じゃあなんなのと言った時に、プロダクトであると。アートワークだということなんですよね。その作曲賞の副賞として譜面出版できますよということだったのですが、日本作曲家協議会としては「そういうものに投資しちゃったか〜」みたいな。これはむしろいい意味で言っているのですが、多分事務サイドとしては「なんだこれ」と思いながらやっているだろうなと思います。

さて、この小宮さんの譜面に関して言うと、そういった意味ではこれを見ても演奏できませんし、あるいはこれを見て演奏するということは意味がないです。鑑賞するためのガイドにはひょっとしたらなるかもしれません。できた動画を見ながら、あ、ここやっているんだろうなって思いながらね。しかし、それもあまり意味がないと思います。ですから、先ほど自筆譜みたいな話がありましたが、当日のディスプレイに表示されたものをそのままプリントするというものなので、譜面としては決して読みやすいものではないんですよ。

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楽譜『VOX-AUTOPOIESIS』 デザイン:山田悠太朗 企画出版:thoasa(コ本やhonkbooks)

小宮:段とか重なってますしね。

川島:その状態をあえて残して出されているので、これも譜面の譜ヅラそのものをアートワークとして考えているということですね。

小宮:そうですね。あとこの楽譜、とても開きにくい製本になっているじゃないですか。デザイナーとディレクターの方とディスカッションしていく中であえてこういう製本にしました。ファクシミリ版もそれを見て演奏するというよりかは、楽譜を持っているという、コレクションしているという価値があります。そういうところで開きにくい製本だし、加線で音がすごく重なっていても、段の間隔を開けないで、全て均等にしてあったりとかしています。まさに演奏するための楽譜ではなく、楽譜のアートワークと言う感じですね。

川島:一つ良心としてプログラムがダウンロードできますよということがあるんですね。しかし、それは本来楽譜という体でやる必要はないかもしれないし、多分実際これダウンロードして、よしやってやろうという人もなかなかいないと思うんですよね。いてほしいですか?

小宮:どうなんでしょう。なんか一応つけたみたいな感じですね。

川島:しかし、それがあることによって一応、ある意味では規範的楽譜というジャンルを踏襲しているんだなと思います。

小宮:ですから、楽譜が規範的であることに対するパロディなんだと思います。

川島:しかし、ダウンロードすれば演奏できますよというプログラムがあって、やり方もあって、ということで言うと、その一点においてこの楽譜は規範的楽譜を踏襲しているんですよね。ですから、いっそそれをやらなかった方がいいのではなかったのではとか思います。極論ですよ。どうせやる人いないだろうと踏んだ時に。今のこの二項対立で言うならば。記述的楽譜か規範的楽譜かどちらかわからないという話で始まったから。それで言うんでしたらダウンロードできて、やろうと思えば演奏できるプログラムもある、という一点において規範的な楽譜であると言っていいので、それがあることによってこれは、ただのアートワークではなくて、伝統的な意味での規範的楽譜だと言えるわけです。

小宮:コードがあるからこそ。なるほど。

川島:ただ、その一点を除いた時のアートワークとしての譜面のあり方は大変興味深いと思うんですよね。パフォーマンスもあって、動画みたいなものを記録して公開して、そしてこの楽譜も販売してみたいなこと。全てが連動的に小宮さんのこの作品のプロジェクトとしてあると考えたとき、作曲家としての枠だけではないところでやろうとなさっている。そういうスタンスを感じます。そういう意味でもとても興味深いアプローチをなさっているなと思ったんです。

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「楽譜の新機軸」④ 楽譜をめぐって川島素晴さんとの対談(2018/11/27)質疑応答編につづく

2018/11/27(火) 東京藝術大学芸術情報センターLABにて

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