0H6A0145のコピー

「楽譜の新機軸」④ 楽譜をめぐって川島素晴さんとの対談(2018/11/27)質疑応答編

・質疑応答

質問者1:『VOX-AUTOPOIESIS』では、スタートの音にラの音を選ばれてらっしゃるじゃないですか。この音を選ばれていることには意図があるのでしょうか?

小宮:演奏家と話して、ラの音がちょうどボイスチェンジの場所なので、歌いやすいと言われました。スタートの音は演奏家の身体的な条件に合わせています。ですから、男性のスタートの音はレの音なんです。それぞれの声域に合わせて最初の音を決めています。

質問者1:ということは、その時コラボレーションしてる演奏家の方が別の人だったら、ひょっとしたらスタートの音は違ったかもしれないですね。

小宮:そうですね。

川島:なんでそんなところだけ人に媚びるんですか(笑)。なぜそこで伺い立ててしまったのか。

小宮:いずれにしろラとかシとかソとか、最初の音を決めなくてはいけないじゃないですか。その決める必然性が何も見出せなくて。サイコロとかで決めるのでも良かったかもしれないですが、そうしたら偶然性とか色々意味が乗ってきてしまう。そうであるならば、それぞれの身体の条件ということで、最初の音を決めました。日和っているのかもしれないですが。

川島:一番歌いにくい音はどれですかと聞くべきではないですか。

小宮:なるほど!

質問者2:小宮君の作品は、例えば『VOX-AUTOPOIESIS』では最初の音が単純明快な440hz のラ、つまりオーケストラで言えばチューニングのするときの一番基本的なピッチです。先ほどのオーケストラ曲や、それ以前の室内楽作品なども最初はすごく単純なところから始まり、だんだんエントロピーが増大して、複雑になっていき、最後は急に終わるみたい手法でかなり一貫していると思うのですが、それはなぜなのでしょうか。そこに進化論的なプロセスが少し感じられるなと思うのですが。

小宮:なぜなんでしょうね。今回のオーケストラ作品では、痙攣的な2つの極というところがコンセプトにあります。ですので、音楽の時間的なプロセスにおいても、音が単純な時と複雑な時の二項を移動することしか考えていませんでした。また、曲を突然終わらせるのは、終わらせ方が分からないからです。何をもってここに有限とするのか。それを与えられるものが時間しかないので、決まった時間でばさっと曲を終えています。

質問者2:例えばその時に、曲の最初が一番複雑でだんだん単純化していくとか、そういうことは考えないですか。

小宮:そこはやはり、自分の好みみたいなのが出てしまうかもしれないです。

川島:演奏できなくなるまで続けて終わるとかにすればいいんじゃないですか。

小宮:それもよく言われます。でも変なところモラリストと言うか。

川島:本当?(笑)

小宮:結構そうですよ。

川島:どこまでをモラルと考えるかですよね。

小宮:人によって違いますよね。

川島:声で高いラとか書いていいんだとか、それはモラル違反かどうかみたいな話ですよね

小宮:確かにそうですよね。

川島:出来るんだからいいのか。

質問者3:川島先生に質問お答え頂きたいのですが、僕はコントラバスの学生で、今、トム・ジョンソンの『失敗』という曲を試験で弾こうと思っていて勉強しています。その曲はコントラバスを弾きながら喋り続けるという曲で、だんだん難しくなっていき、演奏が失敗するだろうという意図で作られた作品です。トム・ジョンソン自体は他の楽曲で演奏不可能を前提としている譜面を書いているのですが、その『失敗』という曲も、演奏会で弾いている時に失敗していくだろうということを想定していて、そのつもりで書かれた曲です。しかし、1年ほど練習したら、もちろん人前に出て緊張して間違えるということはあるかもしれないですが、ほとんど間違いなく弾けるようになってしまって、弾ける状態になってしまった今では、この曲は人前では弾かない方がいいのでしょうか?

川島:そうですね、それもまた一つ、面白いパフォーマンスとして、本当に完璧に弾きましたと言うのもあるかもしれないですね。

小宮:本当に完璧に弾けたやつを録音して、誰にも明かさず、誰も来ない、例えば核シェルターとかに置いておくとかはどうでしょうか?誰も聞けませんが、でも実は世界に存在しているみたいな。

川島:それか、さらに自分に高負荷をかけていくというやり方もありますよね。目隠しするとか。左右反対で弾くとか。

質問者3:演奏不可能なものを想定した場合に、完璧に演奏できてしまったら、それは失敗することを前提に書いているので、演奏が失敗しないことは失敗なんでしょうか。

小宮:自分の『VOX-AUTOPOIESIS』においては失敗です。しかし、オーケストラ作品は、全部を完璧に演奏されても失敗ではない。

質問者3:完璧に弾かれては困るということではない。

小宮:オーケストラ曲は困ることはないですが、こちらの声の作品においては困るという感じですね。

川島:プログラムにエラーが組み込まれているんですよね。でもオーケストラ曲も、100年たったらみんな完璧にやるんじゃないですか。例えば、春の祭典とかも、100年経ったら完璧に演奏しましたよね。

小宮:それこそ身体がどんどん変わっていく感じがしますね。

川島:100年後には人間が演奏してないオーケストラとかあるかもしれないですね。なんてことないですよ、とか言いながら、アンドロイドがピピピピピピピピって。いくらでも弾きますよみたいな。

小宮:最高ですね。

川島:それ、人間じゃなくていいの?

小宮:半分人間であって欲しいですよね。というかそもそも、人間と人間じゃない境目もわからなくなってきていそうな気がしますね。

川島:そうですね。小宮作品を弾くために私は舌を移植しましたみたいな。

小宮:最高ですね。

川島:そうやって身体を開発してほしい。

小宮:というか自分が舌を開発してるかもしれないですね。

川島:やばいな。

川島:クセナキスでも何でも完璧にできる人だってだんだん出てきているので。そういう時代にどんどん入ってきているから、さらに上を目指さなくてはいけないんじゃないんですかね。

小宮:はい。頑張ります。

質問者4:不可能性に挑む身体にすごく興味があり、楽しく聞かせて頂きました。クセナキスやファーニホウなど、お伺いしたい何人かがリファレンスとしてお話に出てきて、大変納得して聞いていました。不可能性に挑む身体のような系譜の中でクセナキスとファーニホウで何が異なり、何を小宮さんは共通して持っていて、何が自分の独自性なのかお伺いしたいです。僕はグロボカールの研究をしていて、川島先生の作品に通じるものがあると思うのですが、グロボカールの作品では音が一切書いていなくて、ただ行為だけが書いてある。ミュートの種類が4種類書いてあって発音が4種類書いてあって音の長さも音高も書いていない。ただ方法だけが書いてあります。そういうものとどう違うことをするのか、それらと共通する部分と更に新しくする部分はどこなのか、自らの立ち位置みたいなところをお伺いしたいです。

小宮:ファーニホウとクセナキスの演奏不可能性の違いは、先ほども出てきましたが、クセナキスはそもそも演奏する身体を考慮していないのに対し、ファーニホウは楽器法をとても調べ尽くした上で複雑な楽譜を書いています。これは身体を考えてないものと逆で、考えに考えた上での演奏不可能な楽譜。その二つの系譜がある中で自らの立ち位置がどこかというと、クセナキスのほうに近いかなと思っています。そもそも身体を考えずに演奏不可能になってしまう。クセナキスと自らの立ち位置の違いは、不可能になっていることに気付いているか否かというところだと思っています。不可能になっているという状態を知っていて、それを作品化しようとしているところがクセナキスとは違うのではないか。

質問者4:一方、クセナキスは、midiとかで打ちこんで聞いたら、あ、こういうことだったんだ、とすごく理路整然と分かる理想的な音響みたいなものがあり、それに対しての演奏不可能性がある。身体では太刀打ちできないみたいな。理想的な音響を求めるがゆえに、付加的に身体性みたいのが出てきて面白いというのがあると思うのですが。でも小宮さんは音響に対する興味が薄い。そこら辺の違いについてはどうでしょうか?

小宮:それこそ身体性を考えないこと、それ自体が自分の中で作品化しているというところではないかと思っています。クセナキスは、理想的な音響を作るために全く身体性を考えないものになってしまいますが、クセナキスとの違いでいうと、いかに作曲を身体性の外にやって、作曲するかということを意識して考えているという感じですかね。

川島:もう一人、少し上の世代の人でいうと、木山光さんという方がいるんです。彼の作品では、ものすごい真っ黒な譜面で、およそ不可能なことが書いてあって、ぐちゃぐちゃなんですよ。本当にできないことが書いてあるけど、それを無理やりやろうとする姿みたいなを極めているタイプの作曲家ですね。彼にも色々な曲がありますが、そういうタイプの作品が結構あって、そういう態度とはやはり違いますよね。木山光さんは色々な意味で少しスレスレな人なんですけど。その点小宮さんは何かある種常識的なところに収まろうとしている感じもありますが、その辺どうなんでしょうね。

小宮:先ほども言ったのですが、あえてオーケストラという既存のもので勝負したいというところがあります。既存のオーケストラで演奏してもらうのには、どうしても無理なところの角を落とさなくてはいけない。理想的には木山さんみたいになることだと思うのですが、自分は規範性とか制度性みたいなその内部から、批判的な視座を持った作品を作ってみたいというほうに向いていると思うんですよ。ですので、どうしてもその制度とか規範みたいなところに立ち入るために、譲歩しなくてはいけない部分があるなと感じています。

川島:あと、先ほどの質問で、グロボカールみたいなスタンスは先ほどの文脈で言うと、図形楽譜みたいなものもそうですし、従来の五線に記譜されているものだけではない、色々な意味での規範的な楽譜があり得ます。ある音響的な結果を記述していないかもしれないですが、その通りやれば、ある一定の演奏結果が生まれると言う意味でのグロボカールの音楽は、そういう意味での規範性があると思うんですよね。ですので、グロボカールという人の譜面は、どこまでも言っても規範的楽譜であり、私はそこに近い、つまり、一応こうしてほしいっていうことは必ずあるということだと思うんですよ。その結果に演奏上の幅がある可能性あるかもしれないですが、譜面通りやると言うことはあり得るということですよね。誰もが演奏が一緒になるとは限らないですが、譜面通りかそうじゃないかということはあるじゃないですか。そういう意味ではグロボカールという人は規範的譜面の範疇だと思います。

質問者5:クセナキスの、音響を追求した結果、身体に演奏不可能なものになってしまう点は、クセナキスのうぬぼれではないでしょうか。例えばそれが身体性みたいのを考慮していなくて音響だけを求めたと言っても、その音響が身体的に不可能なら音響的に実現できないじゃないですか。そういう意味では、本当に小宮さんの作品は全く違うと思います。小宮さんと音響の概念や、音楽の考え方が違う。小宮さんは、もっと人間というか演奏家の情熱みたいなところにむしろ興味があるのではないかと思ったのですがどうでしょうか?

川島:新しい若い人たちの世代が、例えばゲームに挑戦するみたいな、何面クリアするみたいなモチベーションをみんな持っていて、そういう世代なのではないかなと思いますね。そういうモチベーションがあることを前提にしている世代と言うか。昔から、ショパンを弾くとかリストを弾くとかにもあったかもしれないですが。でも、何かそういうものを感じますね。演奏家の情熱と言った時に。

小宮:『VOX-AUTOPOIESIS』の演奏家たちは結構面白がっていますね。結構ゲーム感覚。

質問者5:例えば、先ほどの、楽譜が完璧に自動生成されない問題でいうと、楽譜として提示されたものが完璧に演奏できたとして、そこには演奏家の努力があるじゃないですか。あるいは天才的に完璧に歌い続けられて、できてしまったと言う場合。どちらにしてもできてしまったとしたら、そこに小宮さんの音楽としての違いはあるんだろうかということを思いました。全く情熱とかじゃなくて、本当に完璧に出来てしまった場合と、最高の努力を続けてやっとできた場合。多分、音としては同じだと思うんですよね。小宮さんの音楽の在り方としては、極端に言うとステージにあるんじゃなくて、プロセスがあることの方が大事ということなのでしょうか。

小宮:そうですね。プロセスの方が。

質問者5:そうすると、先ほど川島先生がおっしゃったように、 AI 集団のオーケストラが小宮さんの音楽を演奏することは全く意味がないということになるんですか。

川島:AIじゃなくても、コンピューターシミュレーションでも完璧にできますしね。

小宮:そうですね。Finale(楽譜浄書ソフト)とかでシミュレーションしても完璧な演奏と言えます。でも、それは意味がないと言うか、また違う意味を持ちそうな気がします。それはそれで何か違うことを考えられるんだろうなと。違う作品なんだろうなという感じがします。

川島:シミュレーションでしたら、ものすごく簡単ですよね。それだとすると、もう少し音楽自体が変わるんだろうなと思います。それを聞いていたら、もうちょっと響きを変えたいなと思うだろうし。やはり、小宮さんの作品は人間がこれをやっていると言う大前提のもとに作曲されたのではないかなと思いますけどね。

質問者5:先ほど、歌いやすい場所で始めるとか日和るという話がありましたが、演奏してもらいたいから妥協しているというよりかは、人間を超越する者に演奏してもらう必要はないからではないでしょうか?人間にあえて寄せているというのは、それは小宮さんが負けているのではなく、それが情熱なのかなと思うのですが。

川島:つまりどうにかして人間にやってもらうという前提があると言うこと。

小宮:それはそうなのかもしれないですね。そういう風に考えるのであれば、日和るという言い方ではなく、別の言い方ができるかもしれないですね。

質問者5:日和るのもある意味、日和らないで欲しいわけではないと言うか。

小宮:頑張って人間に演奏してもらえるように、頑張ります(笑)。ではこんな感じで2時間も、長い時間やってしまいました。今日はありがとうございました。

2018/11/27(火) 東京藝術大学芸術情報センターLABにて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?