私の死生観 4 中編

母の死

母の病気が発覚
初期の胃がんと安心していたのだが手術後に明かされたのは悲しい現実だった
(注:後編を書いているうちに内容が多すぎて前中後編にわけることにしました)

母の闘病生活

術後1日目から離床を開始した
胃の半分を摘出したと言う
白湯から重湯と徐々に食事も元通りになり1週間で退院となった

食事は大量に摂取しないこと、よく噛むこと、
消化の良いものを食べるよう心がければ特に制限はなし
酒たばこはやめるよう説明を受ける

母は退院した足でファミレスに行きたいと言った
なぜか
母はお子様ランチなら量が少なくていろんなものが食べられると思ったのだ
だが入店し注文しようとすると断られた
お子様ランチは子ども限定、大人は注文できないのだそうだ
母は見ず知らずの店員に自分の事情を説明してどうにかならないかと願い出たがだめだった
しょうがなく違うものを注文し半分私が食べた
今でもお子様ランチは子ども限定なのだろうか
ファミリーレストランなのだから小食の大人や高齢者向けにミニランチやシルバーランチなんてあったらよかっただろう

母はぼそっと「不親切だね」と言った

手術後に食べたいものが自分の食べたいものや好きなものではなく少なくて食べられるものというのはなんだかやるせない気持ちだった

母は手術をしたので自分の病気が治ったと思っていた
再発リスクはあるものの予防的な抗がん剤をすれば5年以上自分は元気に生きられると思っていた

だこらすぐに仕事にも復帰した

私はそれまでは数か月に1回帰る程度のところ頻繁に帰るようになった

母は仕事をして家事もこなしいつもの日常を送る
ただどうしても疲労感のような体に重りが乗ったような感覚があり、よくソファーで横になっていることが多かった

手術をしてどれくらい経ったころか忘れたが1回目の抗がん剤治療が行われた
1泊2日の入院
特に大きな副作用もなく帰宅する

手術を受けたのが12月
抗がん剤治療を開始して春が近づく
母はなかなか改善しない体調、重だるい日々が続く
自分のがんは手術でなくなった、良くなるものと信じていた
だが一向にそんな気配はない
その頃からよく話していた言葉
「ママ、がんになんて負けない」

何かを察知していたのかもしれない
本当は良くなっていないのかもしれない
もしかすると・・・

母は5月の連休に東京へ旅行がしたいと言い出した
東京なんて行ったことがなかった
行きたいと言ったこともない
私たちは母の希望は叶えてあげたい
もしかしたら最後の旅行かもしれないのだから

東京、横浜、ディズニーランドと行きたい場所を決めて旅行の計画を立てていた
父と母、妹の3人で東京へと旅立った

私は留守番を買って出た
当時白の雑種犬、チワワの親子3匹を実家で飼っていた
私はわんこたちのお世話係
わんこたちは主人のいない数日間、とてもさみしそうにしていた
夜には私の体にぴったりとくっついて眠っていた
おかげで毎晩寝返りが打てず体がバキバキだったのを覚えている

東京から帰ってくると初めてのディズニーランド、東京はどこへ行って何をして横浜の中華街でおいしいものをたくさん食べ歩いたと楽しそうに話していた

抗がん剤治療は3か月に1回の1クールで東京から帰った後にもう一度行っていた
大きな副作用もなく過ぎたが、その後の検査の結果
肝臓に転移しているとのことだった
手術はできない
抗がん剤でどうにか小さくして小さくできれば放射線治療も考えていくと説明を受ける
治療を受けるのは母なのでその説明は母も受けていた

夏、肝転移による黄疸が出始めた
腹水も溜まり始め母のおなかは常にパンパンで張った状態だった
食道から腸にかけて大きな手術の痕が痛々しく残り、その傷が今にも張り裂けそうなくらいおなかが膨らんでいた

胆汁をうまく排泄できていないのでチューブを入れる必要があります

わき腹からチューブが挿入された
チューブとそれにつながるボトルを袋にいれて肩から下げ、
胆汁がたまったら捨てるの繰り返し
そのおかげで黄疸は消えていった

その頃から母は時々煙草を吸い、お酒も少し飲むようになった

病気に負けない、絶対に長生きすると家族には言っていたが
それはただの不安に対する決意表明だったのかもしれない
母は自分の命が残りわずかかもしれないと悟り始めた

母は主治医へ余命はどれくらいですかと聞いたことがある

だが主治医はそれはなんとも言えませんと返した

8月終わり、胆管チューブを入れて数日が経った頃
母は自分の生まれ育った町に行きたい、自分の家族たちに会いたいと言った
どうしても伝えたいことがあると
昔は毎年のように帰省していたが車で9時間ほどかかる距離でその頃には親戚の冠婚葬祭で行く程度、疎遠となっていた
他の親戚とは少し距離も近いので時々会っていたりもしていたからお互いの状況は知っていた

祖母は腰が曲がり仕事はできなくなったが自宅でどうにか生活していた
母には異父きょうだいの弟がいる
その弟は仕事を転々とし一度結婚をしたが祖母が嫁を追い出し離婚
孫は祖母が育てていた
掘っ立て小屋のような台風が来たら吹き飛ばされてしまうのではないかと思うほど古い家に住んでいた
それは母が結婚するまで住んでいた家、私を出産するときに里帰りした家だ

その弟はその家から1時間半ほど離れた大きな町に住んでいるという
一人息子を田舎の家に預けて
そして連れ子3人の女性と結婚、借金がありさらに弟も末期がんを患っているという

なんだか信じがたいほどの不幸、私にとっては辛気臭いおじの現状

でも母はその弟を哀れんだ
自分もがんを患い、苦しい気持ちが痛いほどわかる
末期がんともなればいつ死ぬかの恐怖も大きいだろう
これが最後かもしれない、会いたい
母は強い気持ちを家族に伝えた

母と私の2人で行くことになった
私はペーパードライバー、病気の母に運転を任せるのは気がひけたが事故って死ぬのはなんだか申し訳ない
母の運転する車で途中ほかの親戚にも会いつつ、9時間離れた母の故郷へたどり着いた

母が行きたかったもう一つの理由は祖父母の墓参りだ
お墓の前で手を合わせて母は涙を流していた

その足で実家に行き祖母に会う
祖母はとても自分勝手な人だった
娘を自分の両親に預けて再婚したくらいだ
でも母にとって母親は母親だ
顔を見たい、元気な姿を
そういう気持ちで行ったのだが
祖母は会うなり自分の苦労話を延々話す
こちらのことなどお構いなしだ
なんて非常な人間なのか、こんな理不尽なことはあるのかと心の中で憤慨した
母ががんで手術をしたことは知っているはずなのに、ひたすら腰が痛いだ、お金がなくて困っているだと訴えるばかり

母も自分の母はそういう人だったと受け入れて、少しのお金を渡してその家を後にした
それが今生の別れだった


弟の住む町へ向かいホテルで1泊した
時間が経ち母が体調の悪さと自分の母とのやり取りからくる苛立ちが後からこみ上げてきて機嫌が悪かった
私と母は少し喧嘩をした
母は一人になりたいとホテルの部屋は別々にとった
夜は自由行動になった

海岸近くの町
涼しい潮風が私の頬をかすめていく
血のつながりってなんなのだろう
生きるってなんなのだろう
そんなことを考えた一晩だった

次の日弟と母は約束した場所で2人であった
私はその間自由行動で町をぶらぶらしていた
数時間後母と合流しわが家へ帰った

後日、祖母からひどい電話がかかってきたという
母は弟と会ったときいろいろ話をした
その時に治療費としてたくさんのお金を渡したらしい

祖母の話は嘘ばかりの内容だった
もう関わりたくないからと手切れ金としてお金を渡されたと弟が祖母に話したと言う

母は怒りというよりも悲しさで打ちひしがれた
どういうやりとりをしたのかわからないけれど
母の弟もまた非常な人間なのだ

その弟は数年後も元気に生きていた
末期がんとなぜ嘘をついていたのだろうか
ろくでもない人間たち
彼らと血のつながりがあることに嫌気がさした


最後の入院

9月に入り検査の結果大腸にも転移していることが発覚する
それまでは抗がん剤治療は系列の小さな病院で行っていたのだがその時は検査入院も兼ねて手術を受けた大学病院に入院した

母は隠れて喫煙室に行きたまにたばこを吸っていた
「これくらい息抜きしたっていいでしょ」と笑っていた

だが日に日に病状は悪化していった
食事がのどを通らず点滴が必要になった

闘病生活はあてもない砂漠を歩き続けるようなものだ
がんの痛みは健康な人には想像もできないほどの苦痛となる
だから麻薬を使うことが許される
以前勤めていた病院の院長が言うには健康な人がモルヒネを使ったら死ぬよね、と冗談交じりに話していた
麻薬でどうにか痛みを抑えても消えることはない
体の重だるさも消えない
食事は全くのどを通らずどんどんやせ細り、顔色は常に悪い

あてもなく歩き続けるような感覚は家族も同じだ
当時は普通の会社員の私、今でこそ看護師となり最低限の医療知識があり、患者の苦痛を理解することはできなくとも想像することは可能だ
だけどその時の私はなにも知らなかった
そして母の日々弱っていく姿をみて知ろうとする努力から逃げていた

毎日仕事があるしバイトもしていた
休みの日は毎回母の病室に足を運ぶ日が続く

面会に行っているから良い、と思っていた
私には優しさがない
絶食中の母の前で私は何も考えずにポテトチップスを食べた
「食べられない私の前でよく食べられるね」
面会に行くのが義務のようになっていて、仕事やバイトで疲れて休みたいところ頑張って行っているんだからいいでしょ、くらいの感覚だった
本当に私には優しさがない
思いやりもない
自分勝手な娘だった

反省した

そして次に面会に行ったときに母といろいろ話をした
「あんたは結婚するんじゃない、苦労しないで自分の人生楽しみなさい」
まるで遺言のように言う
母はたくさん苦労してきた
実の母はあんなだし弟も信用できない、自分の親戚たちもいろいろと精神的ストレスを与える存在だった
さらに義母との関わりでも相当努力をしていた
(これについてはいつか結婚について記事を書こうと思っているのでここでは割愛します)

家族のため、特にこどものためにと毎日頑張って生きていた
だけど本音は苦しかったんだと思う
そんな苦しみを娘にはしてほしくないという思いで私に伝えたのだろう
その言葉のあとに「こどもを4人も産んで育てられたことは本当に幸せなことなんだけどね、あんたは結婚しちゃいけないよ」と言った

そして「あんたが私の娘で本当によかったと思っている」と最後に言った
こんな母に優しさを届けられない娘にだ
ごめんね、こんな娘で

私も母が私の母親でよかったと伝え2人で泣きながら笑った


母の急変

その2、3日後
母方の親戚のおじさんが亡くなったと知らせを受ける
突然倒れてそのまま息を引き取ったという
そして父と祖父がお通夜に行くとのことだった

その日も母の面会に行った
土気色の生気のない顔で母は眠っていた
額にタオルを置いている

なんだろうか
胸が苦しくなる
息をしている?
顔に近づくと小さく呼吸をしている
大丈夫だ
でも、なんだろうこのよくわからない怖さ

少しの間母の顔を眺めていると母が目を覚ます
「来てたんだ」
起き上がりベッドの上に体育座りをする
数日前と明らかに違う
動きがゆっくりで声をだすのも辛そうだ
「汗がたくさんでて頭が熱いからタオル当ててるんだ」
熱はないらしい

おじさんが亡くなったことを伝える
今日がお通夜ということも

と同時に母の表情が一瞬で消えていった
力が抜けたというか何かがすとんと落ちるように
真顔とは違う完全に表情を失った感じ

そして窓の外に顔を向けた
一点を見つめている
見つめているというより
ただ目が前を向いているというか
ただ開いているような

それまでは生きることを強く望んでいた
がんになんて負けない
そう強く言っていた

でも知り合いの死の知らせを聞き、死が現実に起こるもの
そして現在の自分の状況を考えたのか悟ったのか
生きる力のようなものが一瞬で母の体から抜け落ちたように窓の外を見ていた

それから私が話しかけても
「うん」と言うだけだった


帰りのエレベーター前
母はもう死んでしまうんだ
そう思った
エレベーターの中に入り
私は一人泣き崩れた
止めどなく涙が流れる
母は死ぬ
もうすぐ

戻って母のそばについていようか
でもこんな泣き顔みせられない
私のそんな顔を見たら母は完全に生きることをやめるだろう
明日は仕事がある
帰って寝よう
私はそのまま自宅に帰った


その日の夜中、着信があった
私は寝たら火事が起きても起きないくらい熟睡する人
どうも着信があっても気づかず寝ていたらしい

朝起きる
着信音で目が覚めた

おかあさんが夜中に下血して現在意識不明の状態です
病院に来てもらえますか

昨日母が死ぬかもしれないと泣いていたのに熟睡して気づかない愚かな娘
最後の最後まで最悪だ

どうしよう
どうしよう
何をすればいい
私は本当に土壇場になると頭が働かなくなるようだ

とりあえず歯磨きをする
その間に冷静にいろいろ考える

仕事
その当時働いていた店のカギを私が持っていた
私が行かなきゃ店を開けられない
6時過ぎ、相棒は起きているだろうか

電話をすると出てくれた

事情を説明し私の家まで取りに来てくれるという
その間に支度をして、相棒にカギを渡し病院へ向かった

話しかけても何も返してくれない
手を握ってあげてください
看護師が言う

触ることができなかった
母が横たわるベッドの傍らでただ座っていることしかできなかった
父たちが到着する数時間、ずっと
ただただ私は座っていた


つづく










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