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新しくて若くて内省的、これからの香港映画

新世代香港映画特集の2本、「私のプリンスエドワード」と「遠路はるばる」 その1

私が初めて行った海外旅行は香港で、90年代、齢は20代の半ばだった。こちらの存在にまったく気が付いていないかの如く、ものすごいスピードで向かってくる香港人を避けるのに右往左往し、男性からは笑顔を向けられ、女性(店員さんとか)からはけんもほろろの扱いを受けた。(実はそういう国は多いらしいけど、女性店員の「営業笑顔」をビジネスマナーとして受け取らず、少々自分に都合のいい解釈をする男性が少なくないらしく、自然女性は不愛想になるのだそうだ。)
あらゆる食べ物から漂う八角の匂いと、収容所(行ったことないけど)のごとき殺伐とした有名百貨店のお手洗いに恐れをなし、マクドナルドのハンバーガーを齧ってほっとしながら眺めるビクトリアハーバーは、初めて日本を出た田舎娘に背後に控える大陸の影を感じさせた。
ああ、ここははるか昔から、中国にも、ロシアにも、インドにも、アラブにもヨーロッパにもつながってたんだな。なんだか大都会に住む親戚ってカンジ。日本は置いてけぼりだなあ。
そんなことを思いながら、なぜ自分はあんな極東の離れ小島みたいな国に生まれたんだろ、ああ、いつかここに住みたいなあなどと(八角の匂いのする食べ物も食べられないくせに)夢見ていた。
携帯電話の普及もまだそれほどではない時代のことだから、あのころに比べれば、知識としての香港の解像度は格段に上がった。
あんなに自分には話しかけることすらはばかられる都会人の従兄弟みたいな存在だった香港人が、ボーダレスに世界を往来しつつ中華圏の伝統を色濃く残し、日本とは異なりながらけして極東の田舎者の親戚に無関心なわけではないことを知り、私自身の香港に対する思慕はますます募るのであった。
それなのに、子どももある程度大きくなり、そろそろ海外行ってもよさそう?というときに民主主義の維持とその保証を求める市民と、立法府親中派の衝突が先鋭化し、続けてコロナ禍に突入、やっと明けたと思ったら今度は未曽有の円安ですよ。
イヤ、行けばいいんですけどね。行きますけどね。いつ行こうかなー。

そんな私に、長い長い中断を経て、「今」の香港の若者の姿を伝える、2本の映画が立て続けに公開された。先日の「星くずの片隅で」といい、もしかして香港映画、また盛り上がってる!?

踏んでる方は、そのことに気付かないこともある

一本目は、「私のプリンスエドワード」
こんな、女性の気持ちが細かいところまで分かる男性監督っているの!?と思いながら見ていたら、女性監督だった。ですよね。
はからずも自分の「監督は男性」バイアスに気付いてしまった。
プリンスエドワードは太子ね。九龍半島側佐敦通り沿いの、深水埗と旺角の間。大都会じゃん。

中華圏の伝統!?周囲にゴリゴリアピールするマリッジイベントを不意打ちで打たれる

もう公開からだいぶ日が経ってるから、ネタバレしてしまうけどいいよね?と言ってもガッツリではないけど、ちょっとのネタバレも許せない方は自衛お願いします。

主人公は、結婚式の総合ショッピングモール「金都商場」でスタイリスト的なお仕事をしている若い女性フォン。同じモールのウエディングフォトショップのオーナーで恋人のエドワードと同棲している。
付き合いは長いけどちょっとマンネリ気味の二人だったが、実に香港らしいあるきっかけがあって、フォンはエドワードからプロポーズを受ける。
だがフォンは、若き日の過ち(それなりに切実な理由があったんだけど)で大陸の中国人と偽装結婚しており、その婚姻が解消できていないことを密かに悩んでいた。プロポーズを機に一刻も早い解決を迫られることになったフォンに、ある日大陸から一本の電話が入る。

まず、役者さんがかわいそうなくらい「クソ彼氏オブザイヤー」な設定に笑ってしまった。いやー、でもある!ありますよ、こういうの!!
ていうか、香港とかでも一緒なんだ!ヤダナニソレ絶望。
まあ、けしてたくさんの男性と付き合ったことがあるワケじゃありませんがね、付き合いが長くなると、男性ってびっくりするくらい相手に関心が無くなる傾向はあるよね。なんていうか、もう自分の生活である決まった役割を果たしている人のひとりって感じで、その役割をちゃんとやってくれてる限り意識に上らないというか。役割を果たしてないときだけ存在に気が付くと言うか…何かに似てるな…家電、かな…。
男性にとってはちょっと不愉快な面もある映画かもしれませんね。もっとも、ネットで彼氏のどこが悪いのか分からないという意見も見たからイミフなところもあるのかな?女性から見るとホントにクソカウンターが回りまくってるので、どうしてそうまでしてこの男と結婚せねばならぬのか????と思ってしまうわけですよ。
大陸の人の方が良いような…と思わせといて、うーんやっぱりこっちもなー(彼女に対する態度とか、子どもの性別のとことかね)なんですよね笑

で、色んな「うーん。」を封殺して、人はなぜ結婚するのか。
そりゃあ、結婚による家族こそ社会の基礎単位だから。親族Aと親族Bが婚姻により親族Cを作る、それが社会。(もちろん法人や団体という社会単位もありますが)人間は社会を形成する動物。その結果を私たちは今享受している。
だから、他人と家庭を作って生きるということは、ヒトにとってかなり大事な営みなんではないだろうか。
まあ、私は結婚自体は失敗してるんですけどね。子は一応一人産みましたが。別の社会単位ができる可能性を残したわけです。(人口は減らしたけど)
ちょっと個人的な話をすると、元ダンナと私、お互い再婚はしてません。つまり結婚には向いてなかったなーと思ってます。だって少なくとも私の方は、元ダンナ以外だったら多分結婚自体無理だった、自分を飾る必要が無く、結婚できる唯一の人だったと今でも思ってますからね。私は、男性に合わせて生きることは無理。(もちろん向こうは死んでも合わせない笑。)
でも、女性は結婚したら妥協しがちなんじゃないですかね、生活のために。子どもを産み育てるなら体力的にも経済的にも脆弱な状態に陥るし、それでなくてもよっぽど健康体に生まれないと、男性並みに働くことは難しい。
その間、或いはその後もパートナーの経済的補填をしている男性が、無意識に相手が自分に合わせることを当然と受け止めている、でもそれは正しいのかね?
だいたい、それってそこまで大したことなのかな?

80になろうとする母から祖父(明治の男)の家長としての在り方を聞いたことがある。
昔の家長は確かに一家皆絶対服従だけど、その分重い責任を担い、季節ごとや日常の家事に気を配り采配し、同時に妻子の福利も図らねばならず、多忙さは今の比ではなかったはず。
貧しい時代、給料日前の米の前借りも、家族全員正月に与えられる晴着も、算段するのは祖父だったそう。そもそも資産のない家では次男三男は結婚すら危うかった。家父長制は男性にとっても大変なことだったのではないだろうか。
今はむしろ、ちょっといいとこ取りになってはいないかい、と思うわけです。

と、周囲の状況も、自分の迷いも、彼の本音もすべて見えながらフォンは、あえて踏み込もうとします。勇気をもって、未知の世界に。(と私は解釈しました。)
きっと自分の中で、どのような結末になっても大切にすることというのが見えてきたのでしょう。いいよね、がんばれーーー!!!!

近年、出生率の低下は東アジア全体の大きな社会問題で、香港もまた例外ではありません。
それには、ダブルスタンダードの男女平等が女性に出産・育児(必然的に自分が最も脆弱な状態になるので法定婚が前提になる)をためらわせる面があるのではないでしょうか。
もちろん、香港や台湾の出生率の異常な低さは、ほかにも大きな理由があるんでしょうけど…。

曲がりなりにも仕事して自活できてる若い女性は、全てを家長に任せて家事と子育てに専念したいわけではないと思うんですよ。
でも、一緒に暮らす男性は、ダブスタ男女平等(ダブスタ男尊女卑)ではなく、一緒に戦ってくれる同士がいい、んじゃないのかなぁ、多分ね。
あの、黙り込んじゃう若い男の子(フォトショップの子ね)だけが、きっとその素養でもしかしたら女性の意見に耳を傾ける繊細な感性を持っているのではないのかしら…と期待させて、上手いこと次の作品に繋がるという。え?凄くない!?

あ、ちなみに私的に無いわーなシーンは、男が怒鳴り散らしといて、隣人が苦情を言いに来るとフッと引っ込み彼女に謝らせたシーン、クソカウンターが高速回転しました。

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