これからのお寺のあり方を考える

【簡単な経歴】

 私は、仏教 日蓮宗の僧侶をしています。

 お寺の次男として生まれ育ち、学生時代に僧侶の教育機関である宗立学寮に入ってから仏道を歩み始め、かれこれ20年経ちました。

 その節目もあり、ここで自分の頭の中を整理する意味でも、一度、今考えていることをアウトプットしておきたいと考え、noteをはじめることにしました。随想のような形で書き留めていこうと思いますので、気軽にお読みいただければと思います。

【他人の釜の飯を食う】

 私は、仏道を歩むようになってからの約20年間の半分以上を、役僧(お寺に勤める事)として過ごしてきました。その間の出会いや経験が今の私に大きな影響を与えました。

 昔から「他人の釜の飯を食う」ことは将来役に立つ、なんてことが言われますが、その環境はわたしにとって今を形作る大きな基礎となっています。

 役僧で学んだことを大まかにまとめると

1)「言葉にしなくてもわかる」が通用しない

 一般社会では当然との声も聞こえてきそうですが、お寺というのは親子でなることが比較的多く、親子だと基本的な前提事項が初めから共有されているので、語らずとも察するというのがうまくいきやすいのですが、住職と役僧の関係だと簡単にはいきません。

 大事なことは言葉を選び、伝える。そんな普通の事を丁寧にする様になりました。少しでも誤解を与える可能性のあることは逆に中途半端にはいわなくもなりました。

2)自分以外の思考を持つ

 お寺というのは住職によって「何を大切にするか」「何を伝えるのか」がそれぞれ違います。違うというより方向性が変わってきます。

 言うまでもなく、お寺は布教をするためにあり、さらに言うまでもなくその布教の方針を決めるのは代表役員の住職です。

 役僧はお寺の看板を背負って、あくまで住職の代わりに人と接する事になるので、その住職と矛盾することは混乱を生むことになります。その教えに沿った話をする様に心がけなければいけないので、自分以外の思考を深く考えることになる。それが、自分が今まで気づけなかった引き出しとなってきたと思います。

3)様々なお寺のやり方を知ることが出来る

 お寺の行事のやり方も、大筋は変わらなくても細かい部分では色々違います。それぞれのお寺の良さがあったり、イベントをやってたり、お寺の活動方針も千差万別なので、新たな見識を得られることがあります。

 既存のやり方と、融合させることで新たな形を生み出せることもあります。

4)お寺に対する不満は直接言われない

 檀信徒と深く接していると、中にはお寺等に対する不満を耳にすることもあります。

 その時必ず頭につく言葉が「住職には言えないけどさ」「お寺にはないしょだけどさ」というものでした。

 もちろん、そうして聞く不満の中には単なる誤解や、改善すれば解決するものもありましたが、問題なのはそういった不満はお寺の人間の耳には入りづらいという事だと思います。

 私も役僧でお寺の人間の一人なので、全てを話せるわけではないでしょうが、それでも住職やお寺の家族よりは話しやすかったのだと思います。

 面と向かって不満を言われる事はよっぽどの時。それ以外はたいてい俗にいうところの「ヨイショ」されている、というのが今の僧侶の立ち位置かと私は考えています。

 常に真実の声を聴ける存在でいようとする事はもちろん、声にならない声にも寄り添う事を忘れないようにすることが大切だと考えています。


 以上が私が役僧をする中で学んだことの一部です。
 本当はまだまだあるんでしょうが、細かくはこれからここで書いていこうかと思います。

 お読みいただきありがとうございました。 








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