僧侶とは、かくあるべき

なりたいと思うものはどんなもの??

 毎年発表されて、その都度ニュースになるものの中に、『子供に聞いた、将来なりたいものランキング』というものがあります。

 これは時代を反映するもので、昔からプロスポーツ選手や、お医者さんや警察官、最近ではYouTuberなどといったものが常連だそうです。

 これらの共通点を考えてみると、

①テレビや身近なところで、その姿や仕事ぶりを知ることが出来る。
②その姿、存在が素晴らしい(かっこいい)と思える。
③人の役に立つ、人を勇気づける事ができる。
④対価(収入ややりがい)がいい。

 などが挙げられるでしょう。

 素晴らしい職業はこの世に数多くあれども、ここからわかる事は、私たちが憧れたり、なりたいと思うものというのはその姿、内容を知る事、見ることが出来るものであるということだと思います。

 逆を言えば、まったく得体のしれないものにはなろうと思わないということであります。

仏教の目標とは、仏に成る=成仏する事

 ここで確認ですが、私達、仏教の究極、絶対の目標は仏に成る事。すなわち成仏する事です。悟りを開いて、迷い苦しみから解き放たれる仏という存在になる事が仏教を学び、信仰する意味です。

 先祖を供養する事が仏教の目的ではありません。

 ここでようやくタイトルの件に繋がるんですが、仏教信仰者の目的が成仏する事なら、僧侶とはなんでしょうか??

 僧侶とは、職業‥ではなく生き方だという事は僧侶になる時に何度も念を押されて言われます。

 利益を目的とした活動ではなく、教えを弘める為、わかりやすくいうと「仏って何?」「仏になるってどういう事?」という事を示す為に活動するのが僧侶です。

僧侶はレンズの如し

 ほとんどの人は(私も含め)仏様の姿を見た事がありません。どんな存在かと聞かれてもちんぷんかんぷんだと思います。(お経に示されていると言われますがまさに難信難解)

 仏になりましょうといくら勧められても、冒頭に書いた様に、得体の知れないものに本気でなろうなんて誰も思わないでしょう。

 僧侶は勉強や修行をして、そんな人達に、「仏になるってこういう事だよ」「こうすればいいんだよ」という事を伝えられる様に色々と努力をしていきます。

 私は、この僧侶の役割は『レンズ』に例えられるのではないかと考えています。

 自分の目で見ようといくら目を凝らしてもよく見えないものでも、メガネの様にレンズを通すと見える様になります。

 遠くにあるものも望遠鏡を使えば、小さいものでも顕微鏡を使えばよくみる事ができます。

 すなわち、実感しづらい仏様という存在を、より正確に、より素晴らしいと感じてもらえるレンズになる事が僧侶の役割だと言えます。

 時には言葉で、時には自身の立ち振る舞いで仏様の姿を見せるのが僧侶だと私は考えるのです。

 仏法を専念して学んでる僧侶の生き方を通して、その行動や姿の延長線上に仏様の姿があると考えてもらう事が布教だと思います。

 仏法に沿った生き方をする事であんな素晴らしい仏様の様になれるんだよ、という事を少しでも感じてもらうのが布教の目指すところではないでしょうか?

 ただ、レンズにも様々な種類があります。

 凸レンズもあれば凹レンズもあります。望遠鏡でも逆さまに使うとより小さく見えます。

 汚れてると、よく見えなかったり、汚く見えたりもします。レンズ自体が歪んでいたら、どんなに素晴らしくても化け物みたいに見えてしまいます。

 僧侶自身が批判を受ける様な行いをしたり、後ろ指刺される様な事があれば、仏様自体が歪められてしまうのではないでしょうか。

 昔から「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という風に言われます。まさに芯を食った言葉です。「坊主汚れりゃ仏も汚ない」と言われかねません。

 より仏様を信仰して頂くためには、日々の生活から見直し、レンズを磨き上げていかなければと、自戒の念を強くする毎日です。

 学生時代にとある先輩から「僧侶のオシャレは襟元から」と言われた事があります。

 色々な意味で、襟を正して生きていこうと思う日々です。

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