幸せな迷惑人の話

劇場版SHIROBAKOを観に行きました。
映画の感想は話しませんが、僕はもうしばらくオタク向けアニメ映画は劇場で観ないことにしました。僕もオタクだけれど、もうその空間と空気感にうんざりしたから。

今日隣に座った男は、「チケットを常時指先で弄っていないと死ぬ人」でした。ちなみに去年『Hello World』を観に行った時に隣に座っていた女は、「上映中も常時スマホを弄っていないと死ぬ女」でした。後者は前半15分でしびれを切らした僕が注意するとやめましたが、今日の男は注意が聞こえない様子でした。それが本気で「聞こえていなくて、どっぷりと作品を楽しんでいる」ことは、彼の表情でわかりました。

これは仕方の無いことだと思いなさい、というのが現代です。彼がひとりで映画を観にくることは全くの自由だし、迫害されるべきものでは決してない。誰ひとり取り残さない社会で、彼にとって今日は最高に楽しい体験だったろうし、それは誰にでも与えられるべき機会です。
僕たちはどうしたら良かったでしょうか。電車で奇声をあげられても安らかな心で過ごしましょう、と言われた時、僕たちの心は、その時間の体験は。

道いっぱいに広がってチャンバラをしながら歩く小学生。両耳にイヤホンを着けてゆっくりフラフラ車道の端を走る自転車。新幹線の満員電車で荷物を通路に置いて会話に興じる観光客。映画とTwitterを両立したい女。周りから完全に区画された気持ちになれたから、本当に自分の世界の中で映画を楽しむ男。

どこに線引きがあるんだろう。そもそも、線引きをしていいものなのでしょうか。どうしたらいいんですか?

個人の自由が声高に謳われる時代、僕は学校で「自由には責任が伴う」と教わったので、昨今の「自由」には些か違和感を覚えざるを得ません。資本主義と利己主義は同一ではないので、社会と因果関係を結んで完結させる話でもない。

「他人に迷惑をかけていることに気づかないから幸せな人間」

たくさんの「幸福な人間」がこうで、こうならないと幸せにはなれないとまで思うようになってきました。法律の話ではない、これまで自由を「縛って」「抑圧して」「弾圧して」きたものが、守っていたものが、喪われつつある。

彼は悪くないですか?そんなことも許せない狭量な僕が悪いのでしょうか。いや、「No Noise」って言ってたよね……。でもそういうひとだから仕方ないよね。あ、そういう人って言うと差別かな、なんも言わん方がええんかな。

自分が楽しければそれでいい、という人間が、好き嫌いと言うより、全く「歯が立たない」。自分の中で咀嚼できなくて、異物として、この世界を席巻しています。他人のことを常に意識して、自分のことは後回しにして、そう言った人間が報われない、意思が薄弱だと蔑まれすらする世界に、ひとり取り残されているような。

分からない。どうしたらいいのか分からないので、そういうことが起こる可能性の高いところには、暫く行かないという話です。そうやって自分が閉じこもるしかないのが、誤っていることなのだとわかっていても、そうなるのがもはや怖くなってきたから。2時間も、自分と社会との乖離を見せつけられ続け、考えさせられ続ける状態があまりにも精神的に疲弊するからです。

ワリを食っても、それも他人を思いやった結果だということです。

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