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夫が将来子どもにも読んでもらおうと言って買って置いてあったわけあって絶滅しましたがおもしろい。こんなにカラーで人もたくさん関わっていて1000円って安いよなあ、海外文学の翻訳本とか平気で3000円くらいするよなあ。でも文章量が違うのか?
前に読書の日記を読んでいたらじんわりと癒される、ということを書いたんだけれど、またその続きを読みながら今度は自己肯定感、という言葉が浮かんだ。自己肯定感、というのは、文字通り自分が自分を肯定できなきゃ意味がなくて、その自己肯定感を育むために大きな影響を与えられるのは限られた人(親とか恋人とか)になると思う。だから、文章を通じて読んでくれる人の自己肯定感を高めてあげたい、というふうに考えるのは、個人的にはぴんとこなくて、そうじゃなくて、「文章を通じて自分が自分の行為や感情、性質、置かれている環境等々を認める」という行為を通じて、やがてその人自身も自分を認めるという行為(広い意味での「反省」行為)、につながっていくといいなという感じである。全然言語化できてなくて笑う。
ここでいう認めるというのは、肯定する、ではなくて、認識する、という意味での認めるである。自分が今どういう身体のコンディションで、今日何をして、今何を考え、感じているのか、自分が「良い」とラベリングするものも「悪い」とラベリングするものも、そのラベリング含めて「認識する」という意味合いに近いと思う。「肯定感」というのは、こうした認識の先に生まれるんじゃないのかなあ、と。
日記をはじめとした記録という行為は、こうした「自分のさまざまを認める」という行為を手助けするツールというか方法というか、こういう言葉あまり好きではないけれど有効な手段のひとつだと思う。日記に書くことは今日のことじゃなくてもいいし、考えたことでもいいし、もちろん今日食べたものや体重や睡眠時間といった数字に表せられる記録そのものでもいいし、ほんとのことじゃなくてもいい、その自由さが日記にあると思っていて、だから書く日記だけじゃなくて声の日記も動画の日記もゲームのログ配信も好きで、最近はそういうのばかり見ていたりする。
朝、コーヒー、バタートースト。昼、なめこの味噌汁、ケチャップライス、もも肉とじゃがいものガーリックいため。夜、焼きうどん。おにぎりせんべい、たぶん15年ぶりくらい。
それでは、また。
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