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どうか時間を敵にしないで

子育てをしていると、時間が敵としてやってくる。

「ああもうこんな時間」って思うことが、子どもが生まれる前より、圧倒的に増えたのだ。

7時になったから子どもを起こさないと。起きてベッドのとこでずかん読んでるけど、そろそろリビングに行ってごはん食べさせないと。おむつなかなか変えてくれない、早く変えてごはん食べさせないと保育園に遅れちゃう。8時半になったから玄関に向かってもらわないと。子どもが帰ってくる前に晩ごはんつくっておかないと。お迎え時間になったから家でなきゃ。公園で遊んでるけどそろそろ6時だからおうち帰らないと。7時までにお風呂先入らないと。8時までにごはん食べさせて、寝る前になったからユーチューブやめさせないと。8時半になったから寝室行かないと。

寝かしつけ終わったらもう9時半だ。ああ10時半までには家事終わらせて、でもダラダラもしたいし、そうするともう少し起きてたいけど11時までにはベッド行きたいよね。朝はやく起きてみよう6時に目覚まししたけど起きれなくて、さあ起きようと思ったら子どもが起きちゃった。

休日、昼寝しているあいだに体力回復して、家事もして、ちょっと読書とか、なんか書いたりもしたいよね。ああでも3時間寝てくれないかも2時間で起きるかもだから早くやらないと。

…エトセトラエトセトラ。

こうやって書き出してみると、「もうこんな時間だから、〇〇しないと」「この時間までに〇〇しないと」って、常に焦っているなあと、思う。

在宅ワークなので仕事の合間に家事ができるし、夫も在宅ワークで家事や子どもの面倒見ているし、親は近くに住んでいるし、家事の外注とかもしているし、ヘルシオとか乾燥機とか家電も使ってるのに、それでも日々のこの、焦りっぷりはなんなんだろう。

「〇〇までに〇〇しないと」がクセになっちゃって、気づいたら子どもがいないときも常に焦っているし、子どもがいつ起きるかとか、夜泣きするかとか、わからないから、時間があるときも、前もって〇〇しておかないと、と、前のめりで焦っている。

リビングの壁にかかっている時計を見やって、ああもうこんな時間じゃん、とイライラしている自分に気づく。

時間は、今の私の敵だ。

***

と、ここまで書いて、ふうううう…と、息を吐いてみる。

時間が敵だなんて、哀しい

っていう気持ちが、湧き上がってきた。

時間が流れていることは、私が生きていること、そのものなのに。

どうしてこんなに、時間が敵になっちゃっているんだろう。

時間が読めない、やることが多い、それはそうだけど。

「客観的な時間」に、自分自身が管理されすぎなのかな。

夏は日が長いから、寝るのが遅くなってもいいし、
眠たくなったら昼寝を長めにすればいい。

今日睡眠時間が少なかったとしても、
明日ちょっと長めに寝れればいい。

今日掃除機かけれなかったけど、
玄関の掃き掃除はできた。

毎日同じ、ルーティンできなきゃいけない、じゃなくて、例えば1週間単位でなんとなくできてたらOKなら、やることも少なくなるのかな。

今日は夜ふかししたかったらすればいいし、
子どもも寝たくないんだったら、
10時まで起きてればいいんじゃないか。

時間が体重の4分の1乗に比例するということは、体重が2倍になると時間が1.2倍長くゆっくりになる関係です。体重が10倍になると時間は1.8倍になるんです。例えば、30gのハツカネズミと3tのゾウでは体重が10万倍違いますから、時間は18倍違い、ゾウはネズミに比べ時間が18倍ゆっくりだということになります。

現代のわれわれ人間社会では、時間というものを1秒とか1分、1時間、1日、1週間、1か月、1年・・・といったように、物理的、絶対的な単位を基準に考えますが、このように、自然界における時間、生物学的に見る時間というのも別な概念で存在するということです。

https://www.athome-academy.jp/archive/biology/0000000104_all.html

これは、生物のからだのサイズによって流れる時間が違う、という話で、少し視点は違うけれど、相対的な時間、生物学的な時間、というのは、「時間は敵」とみなしてしまうときの、なにかヒントになるんじゃないかと思った。

絶対的な時間、物理的な時間、に自分や子どもや生活全体をあわせすぎることによって、容赦なく刻まれていく「時計的な数字」、支配者みたいな時間に、疲れたり焦ったり敵のように感じてしまうのは、相対的な時間、生物学的な時間も持っている人間としては、ある意味自然なことなのかもしれない。

「常に焦っている自分」、「時間を敵にしてしまう自分」に落ち込むんじゃなくて、支配者みたいな「物理的な時間」に反発してしまうのは、ある意味当たり前なこと。

まずは、そのことを意識したいなあと、思う。

***


じゃあ、生物学的な、自分の時間ってなんだろう。

これは、まだこたえは出ていない。

けれど、時計的、物理的な時間が、時間という概念のひとつでしかない、ということ、絶対的な時間が、実は相対的なものであること。

まずはこれを、念頭に置く。

時計的な時間と、少し距離を置くために、今日からできることは、なんだろう。

*

時計を見ようとしたら、その前に、今自分は何がしたいのかを、自分に問いかけてみる。お腹すいたからごはん食べたい。寝たい。ソファに寝転びたい。スマホみたい。部屋片付けたい、とか。

できれば自分がそのときしたいことに対して時間を過ごせればいいけれど、難しいときも、「今自分はほんとうはこれがしたかったんだ」ってなるべく気付けるようにする。

*

一日じゃなくて、一週間という単位で把握する。トイレ掃除が1週間で2,3回できればいいや、とか、一週間でみてなんとなく7時間くらい、子どもは9時くらいに寝れてればいいや、とか、週に2回SNS発信できればいいや、とか。

一週間でできたら、一ヶ月、一ヶ月でできたら、季節ごと(三ヶ月)で、やってみる。個人的には、季節ごとにテーマ的なの決めて、その季節はそれに注力する、とかやりたい(春は家事、夏はごろごろゲーム、秋は子どもと遊ぶ、冬は読書、とか)

絶対的な時間の指標を長くすることで、焦ることとか、一日にやらないといけないことも、できればやるべきことも、やりたいことも詰め込みまくる、というのを減らしていければな、と。

*

季節や天候によって時間を変えてみる。

江戸時代の日本では、不定時法と呼ばれる時刻制度を使っていました。不定時法では、1日を昼と夜に分けてそれぞれを6等分にし、その一つの長さを1刻(いっとき)と呼んでいました。時間の単位は刻のみで、現在のような、分や秒の単位はありませんでした。
…不定時法は、季節によって1刻の長さが異なる、自然にそった時刻制度でした。

https://oshihaku.jp/nenkan/page/13726721

冬たくさん寝て、夏は日が長いから活動時間を増やして睡眠時間は短い、というのは自然なことなので、夏しっかり寝れなくてもしょうがない、とか。

曇りの日は起きるの遅くなったり、副交感神経が優位になるのでからだがだるいから、家事減らそう、だらだらしよう、とか。

ある程度、自然に合わせた時間の過ごし方を取り入れてみる。

*

時間を「リソース」とか、「コスト」って捉えるのをやめてみる。「Time is money」って考えると、時間を単位とか量で把握して、効率良く「時間を使って」…って考えてしまう。仕事上はそれが必要なときもあるけれど(ない働き方が増えていくのかもしれないと個人的には思うけれど)、それ以外のときは、「時間をどう使うか」っていう効率的な考え方をやめてみる、っていうのも手かなあと。

「時間を使う」じゃなくて、「時間を過ごす」って言葉を変えるだけでも少し意識が変わるというか、時間が自分と切り離された物理的なもの、として考えるのではなく、時間と自分を一体として、時間は自分(の人生そのもの)って考えられる気がする。

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時間を意識しなくてすむ過ごし方をする。いわゆるフロー的な時間。個人的にはこの過ごし方が増えるのが理想。

人がフローに入るときの条件として 7つの条件があると考えています

このポイントが十分強まると忘我の感覚
明晰な感覚に到達するのです

それは 時間の経過と共に常に自分が何をしたいのか分かっていて ただちにフィードバックが得られること

何をする必要があるか分かっていて それが難しくても 可能なことで 時間の感覚が消失すること

自分自身のことを忘れてしまうこと

自分はもっと大きな何かの一部であると感じること

これらの条件が満たされるなら あなたがしていることはそれ自体で価値のあることになります

https://www.ted.com/talks/mihaly_csikszentmihalyi_flow_the_secret_to_happiness/transcript?language=ja

時間の感覚がなくなる、自分という意識と時間という感覚がひとつにとけあっていく。

集中している時間の、その先。

そういう時間がいちにちのなかで、一年のなかで、人生のなかで増えていけば、それは理想だなあと思う。

***

この書きものを経て少しでも、時間とともに過ごすことが増えたら嬉しいです。

すぐに時間とともに生きていくのは難しいなあと自分でも思うのだけど、「今したいことはなんだろう」って、時計を見る前にふと立ち止まれたらなあと思います。

それでは、また。


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