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2.21

コロナの影響で子どもの保育園、一週間くらいおやすみが続いている。子どもは熱どころか風邪症状すら出ていないので今のところ平静に過ごしている。むしろエネルギーの塊っていう感じなので、こちらのエネルギーをすごい勢いで吸い取られ中。

先日そんな子どもの寝かしつけをしながら、与える、と受け取る、についてうだうだ考えていて、愛情とか評価とか、承認とかいいね、とか、受け取る前にまず与えなさい、とか、与えるのが大事、みたいなことを言うけれど、なんでだろうと思ったのだけど、ひとつ考えながらひとつ腑に落ちたことがあって、それは、受け取る、というのは相手が主体であるのに対し、与える、というのは自分が主体であり、自分で自分の主導権を握れるからじゃないかな、ということだった。

うーん、言葉にするとうまく言えないのだけれど、人からの愛情とか評価とかいいね、によって自分の気持ちや自己評価が上下するというのは、自分自身に対する主導権、主体性を第三者に明け渡してしまっているので、すごく不自由で、かつ不安定なのでは、と。だから、受け取ることばかりを求めて生きていくのは、基本的には生きづらいのだと思う。

翻って与える、というのは、自分の意思と行動によって成される、主体的な行為であり、この与える行為自体に喜びが生じるのであれば、私たちはいつでもどこでも、そして今すぐ、自由にかつ幸せになれるのだ、と。

問題は、そんな与える、という行為に喜びが伴わず、自己犠牲や義務が伴う場合だけど、仕事や子育て、介護、家事、といった生きていく上で必要なこととか生活の中心なことにおいては、少なからず犠牲感や義務が伴うのであって、いったいこの場合はどうしたら良いのだろうか、というのがひとつ。

もうひとつは、与えた先の相手の反応(応答、リスポンス)を少なからず期待してしまうことである。せっかく〇〇したのに!というのは仕事においても子育て、家事、介護等(=他者のケア)においてもしょっちゅう発生するけれど、相手からの応答うんぬんに関わらず、与えるという行為そのものが与えてくれる喜びを軸にするにははたしてどうすれば良いのだろうか。

このふたつに対してはまだ自分の中で腑に落ちる考えはまとまっていないのだけれど、本棚に贈与の経済という本が眠ってるのでそれを読み進めてみようというのと、あとは、趣味の領域とか、アウトプット、発信、与える、行為そのもので満たされやすい、義務が伴いにくいところで、そういう与えるという行為を始めていけば良いのではないか、ということ。そして、フロムの愛するということ、に書いてあった気がするのだけれど、与えるという行為は、意思であり、技術であり、勇気であるのだと思う。愛するに値するから愛するのではなく、愛すると決めたから、愛するという行為を成すのである。ということを生活に落とし込むにはどうすれば良いのか。アドラー系の幸せになる勇気、も読み返したいなと思ったのだった。

それでは、また。

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