4.20
先週からもう夜になればぐったりで動けなくてなんでかなあと思ったんだけれど、もうすぐ半年になる息子が持つエネルギー量が増えたからだと思う。叫ぶか泣くか声を出して笑うか腕をぶん回すか足をバタバタしているか寝返りをうっているか、と、なんだか常に動いていて、エネルギーというものが具現化したらこんな感じなんかなとか思っている。
なにかを伝えたいとか私を知ってほしいとかそういうのじゃなくて(というかそう思うのには疲れすぎていて)、それでも何かしらを書き殴りたい描き散らかしたいと思うのは、ふと振り返れば指のあいだからさらさらこぼれおちてゆく海の砂のような毎日を送っているからだと思う。ままならないこともあるし退屈で平凡なんだろうけれど、でもある角度から見ればそれはとても美しくて、私は頭の片隅でうっすらとそれを認識しているから、だからスーパーのチラシの裏にメモを走らせるように、何かしらを残しておきたいんだと思う。
ざらりとした生(活)の手ざわり、というのを書きたくて、それは誰しもがみな、それぞれの〝ままならなさ〝をもちながら生活しているからで、私が書くひとつの、そうしたままならない生活めいたものを通じて、明日も私のままで、生活するか、と思ってくれるといいな、と思っているからだと思う。ちっともきれいでピュアな生活でも私でもないけれど、そんなままならなさを認めることで多様性というものをちょっとでも積み重ねられないかな、と。きれいな生活とピュアな私というのは一見すてきだけど、排他的でかつ自分もどこかで行き詰まると考えている。
そんなことを、最果タヒのエッセイを湯船で読みながら考えていた。
それでは、また。
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