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7.19

最近は小説モードなので(読書は、小説とエッセイとそれ以外、人文学とか、をぐるぐる行き来して読んでいる)、台北プライベートアイの次は、レイモンドチャンドラーのロング・グッドバイを読み(途中で挫折するかと思ったら最後まで通しで読めて嬉しい)、買ったままで本棚にほったらかしにしていた多和田葉子の星に仄めかされて、を読む。私は小説を読んでもわりかしその筋書きをすっからかんに忘れてしまうので、ロング・グッドバイは真相をさっぱり覚えておらずはらはら楽しめたし、星に仄めかされての方は、第一部の地球にちりばめられての方を一から読み返さなくてはならなかった。

前作の地球に〜の方はわりかし楽しんで読んだから続きを買ったんだけれど、残念ながら、星に〜の方は個人的に合わず、そっとページを閉じることになってしまった。小説で読んでから「合わないなあ」とはっきり思ったのは久しぶりかもしれない。でもレビューを見るととても評価が高く、なおさらもやもや。作者の言葉に対する鋭敏さ、とか、その観察眼、リズムやセンスみたいなものはすごいなあ、と思うのだけれど、そこで「仄めかされている社会的課題」があまりにも多岐にわたりすぎており(ジェンダー、原発事故、LGBT、難民移民etc.)、そちらに気を取られてしまって、肝心の物語のドライブ感みたいなものが失われているというか、作者はむしろその社会的課題、や、言葉とは、コミュニケーションとは、というところに着目してほしいのかもしれないけれど、それにしては提示されている社会的課題が多岐にわたっていて、「提示されている」にとどまってしまっているんじゃないか、と感じてしまい、そこが合わないなあ、というか、正直イライラしてしまった。

でも、これを読んで逆に、自分がどういう物語、が合わないと感じるか、が前よりクリアになった気がする。映画、天気の子でもそうだったのだけれど、登場人物が多く、提示されている社会的課題が多く、結果として(小説であれ映画であれ、紙面や上映時間といった限られた枠組みがあるので)、人物や提示されたものに対しての深堀りがあんまりされていないんじゃないか、と感じるときに(もちろんこちらが読み取れてない可能性は大いにあるとして)、「この作品合わないなあ」と感じる、ということがわかった。

あんまり好きじゃない、合わない、ものについて書くのは好きじゃないのだけれど、もやもやしていたので記す。合わない、好きではない、を窓ガラスを磨くようにクリアにさせていくと、合う、好き、もだんだんはっきりしてくるとは思う、ただしすごく個人的な営みではある、ので、シェアすることに抵抗があったり、している。

それでは、また。

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