違っている、のその奥に

先日、バイト先の主婦さんのお宅に招いていただき、ホームパーティーをした。
主催者である主婦さん含め、同じくらいの年齢のパートさん4人と、私と、仲のいい大学生のバイトの子と、合わせて6人で。

午前中に集まってみんなでカルディに行き、自分を「酒飲み」と言って笑う主婦さん中心にワインを数本選び、そのままスーパーに寄って食材を調達。
お宅で食材を切ったり、それぞれ家から持ってきた得意料理を温めたりして、わいわいがやがや準備をした。私たち大学生二人組は、たくさんのお母さんたちに囲まれながらピザを作って焼いた。

青空の下、素敵なテラスで料理を囲み、そこからずっと飲んでは食べしゃべり、もうずっと楽しかった。ずっと年上の女性でもあり、バイト仲間でもあり、ご飯仲間でもあり、東京のお母さんでもある。この空間に自分がいられることに、いていいことに、途方もない幸せを感じた。

女子が6人も集まれば、話は尽きない。
話はころころ変わり、楽しい時間はあっという間に過ぎていった。
そして夕方、すこし薄暗くなってきたころ、前のマネージャーさんの話が出た。そしてそのノリで、近くに住んでるから「呼んでみよう」という話になり、ある主婦さんが電話をしたら、休みだったそうで、数分後には合流していた。

お酒が程よく回り始めた会場で、話はやはりというべきか、「結婚」の方向に。

50代後半、独身。
聞いた感じ非正規雇用、付き合っている人はおらず、結婚願望もないというマネージャーさんは、「いい人いないの?」「結婚しないの?」「寂しくない?」という質問をする主婦さんに囲まれ、居心地が悪そうに見えた。

そして思う。

将来の私が座っているのは、きっと、このマネージャーさんの席だろう、と。

それらの質問に柔らかい笑顔で「結婚はもういいかな~」と答える姿に、自分の将来を見ていた。今のままであれば、私も、こんな風に言われ、こんな風に答えているのだろうか、と。

マネージャーさんは今の生活に満足しているようだった。だから、結婚しなくても、幸せならそれでいいと思った。隣で一緒に聞いていた大学生の子も、同じことを思っていたと思う。でも、何も言えなかった。

そのまま、私の話にもなった。
「○○ちゃん(私)は高収入のいい人と一緒になって、専業主婦になって家でのんびりしてね」「いい人つかまえるのよ」などなど。


高収入の旦那の専業主婦。それは私の母の姿だ。
母がそれで幸せなのか、幸せだったのか、私は知らない。私の幸せの定規で母を測るのはもうやめた。母には母の、考えがある。だから、ここからは私の想像の域を出ないのだが。

私の目には、母はその立ち位置を手にする代わりに、自身の自由を手放しているように見えた。

一緒にいたくなくても、一緒にいるしかない。
それは子どもがいるからとか、いろいろ理由があるのかもしれないけど、やはり大きいのは、経済的事情だろうと思う。
父の収入がなければ、母は、生活ができないのだ。

毎日文句を言いながら、「一緒にいたい」という気持ちがないにもかかわらず、離れるという選択肢がそもそも存在しない世界で生きている母の姿をまじかで見てきた私は、「経済的依存は自由を失うことだ」と考えるようになった。

だから、絶対に私は自分の生活は自分のお金で賄うと決めている。
デートに行っても、必ず自分の分は自分で払っている。そこは相手がだれであれ、恋愛関係においては譲らない。
たとえ結婚しても、仕事はやめないし、ある程度財布は分けたい。
経済的依存は絶対にしたくない。

だから、今回、主婦さんたちに「高収入の旦那、専業主婦、家でゆっくり」をすすめられたとき、「私は嫌だ」と思った。だけど、言わなかった。
場の雰囲気を優先した。「そういう道もありますね、」と笑って言った。

そう口にしてみると、少し自分で自分を否定してしまったように感じた。「経済的に依存したくない」、ひいては「ひとりで全く問題ない」と思っている自分を隠しているような、後ろめたさに似たものを感じたりもした。

多分この世界には、今こういう場で傷ついている人がいるのだろうと思う。同性が好きなのに「彼女/彼氏いるの?」など言われたら、雰囲気を優先して何も言わずに「いないかな~」などとしか言えない時、こんな気持ちになるんだろうか、と想像したりもした。

ただ、言いたいことがある。
確かに、主婦さんの発言を受けて、違和感を抱いたのは事実だ。否定もしたくなった。だけど、私が「そういう道もありますね~」と言って笑ったのは、決して場の雰囲気の為だけではない。

結婚=幸せという方程式が人生の軸を固定しない時代に生きる私たちと、
結婚が人生の軸を作り、幸せの土台となることが当たり前の時代を生きてきた60代の主婦さんたち。

私は2024年に20歳を生きているが、彼女たちは1980年代に20歳を生きていた。
考え方が違うのは当たり前だ。だけど、注目したいのは、その違いじゃなく。

幸せを作るものが、ただ違うというだけで。

.…うまく言葉にできないのだが。
何が言いたいかというと。

考え方は違っていても、もっと大事なのは、その差異ではなくて、相手がどういう意味をもってその言葉を伝えてくれているか、ということ。

主婦さんたちにとって、結婚は幸せになることとほぼ同義であり、その結婚をすすめてくれるのは、私の幸せを願っていてくれているからなのだ。幸せになってほしいから、結婚をすすめてくれるという、ただそれだけのこと。(もちろん、この場にいた主婦さん含め60代の女性すべてが、結婚=幸せと考えているとは思わない)

冗談なのか本気なのか「うちの息子、どう?」と言ってくれたりして、それも嬉しかった。

確かに「結婚=幸せ」に違和感はあった。だけど、それ以上に、私は嬉しかったのだ。
幸せになってほしい、と思ってくれていることが、十分すぎるほどに伝わってきたから。単純に、結婚の話はその幸せのためのひとつの手段なのである。

大切なのは、言葉のその奥に、どういう想いがあるか、ということ。

今の考え方が優れているとは限らない。
今の方が確かに、決めつけず緩やかに、みんなで認め合っていこうという風潮はよいことだと思う。
だけど、「今はこうなんだ、昔は間違っている」と言って昔を否定することが重要だとは思わない。結局は押し付けになってしまう。
違いを正すことばかりが、正義とは限らないと思う。

違いにばかり注目するのではなく、言葉や考え方の、その奥にある想いに目を向けること。その方が、ずっと大切なんじゃないか、と思う。

以上。
最後まで読んでいただきありがとうございました。

大屋千風

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