ほしいものが分からない

このごろ、遠くに行きたいとばかり考えている。
就活が始まってしまった。就活サイトが開催するオンラインのセミナーを受けたり、一日に何十通も届くメールを眺めたり。

そんなこんなで、疲れてしまった。
いついつまでにあれをやれ、これをみにつけろ、あれをやれこれをやれ。

ニンゲン、ウルサイのモードに入ってしまった。
ドラマを見ていたNetflixでは人間が一切出てこない動物のドキュメンタリーを永遠に見るようになった。

うるさい昼間とは対照的に、夜はいい。近くの道を走る車はどこかへ行ってしまって、窓を開ければ忍び込むのは春の冷たい夜風と静寂だ。時折、駅から家の帰路につく人の規則正しい足音が聞こえてくる。人間ウルサイと言っておきながら、そういう時は人間の音に心地よく耳をすませるのだから、都合のいいものだ。

いつだったか街で見かけた、全く同じリクルートスーツに身を包んだ集団が歩いていた光景を思い出す。自分もあのうちの一人になるのかと思うと、冗談でも比喩でもなく、本当に吐き気がする。これだけ多様性だと叫んでいながら、人生の大事なポイントを通過する時だというのに「みんな一緒」にならないといけないのか。

彼女たちのぴしっと後ろでまとめた黒い髪を思い出す。
私はセンターパートにしておでこを出して、毛先を外はねにしてサイドを左右それぞれS字に巻くスタイルが気に入っている。一番前を向いていられる。
いっそのこと、「みんな一緒」に対抗して自分の好きな髪形で行ってやろうかと思うが、そういうのは反骨精神とかなんとか言って落とされるのだろうか。私の志望理由やガクチカ、仕事能力とは関係がないのに?
…でも、そういう考えは「周りとの協調性よりも自分の意志を貫く」みたいなそれっぽい性格で、企業の求める像とあっているかが判断されるのだろうとも考える。それはそれで筋が通っている。
だから根本的に、私は初めから服装自由などを掲げているような会社が合うということなのだろう。

時間は私の意思とは関係なく勝手に進んでいって、私はそれに置いていかれないように走っている。
時間は同じリズムで進むけど、私の足には毎日おもりが付けられて、目の前にはメールやら説明会やらバイトやら課題やらなんやらかんやらたちが立ちはだかり、壊しても壊しても永遠に立ちはだかる。

うるさい。遠くに行きたい。
面接も何も受けてないくせにこんなになっているのだから、先が思いやられる。でもやらないと生活できなくなるんだからやるしかない。

このごろ、自分の欲しいものが分からない。
何かが食べたくてスーパーに行くけれど、何が食べたいのか分からない。
バイト終わりに行くので大抵閉店1時間前くらいの夜になるのだが、その時間はガラガラで、多くの店員さんが奥に積み上げられた商品を前に出してきれいに並べている。
私はそうして整列した食品たちを目の前に、自分に問いかける。
「私は何を食べたいのか?」

色とりどりのパッケージが並んだ棚を前に、黒い服の私は突っ立っている。困ったことに、全く分からないのだ。

何が食べたいのか分からない。何かは食べたいのだが、その不明瞭な食欲が何で満たされるのか、皆目見当がつかないのだ。

分からないが何か買っていかないと、空っぽの冷蔵庫を前にして音を上げるおなかを抱えなくてはならなくなってしまう。
砂糖不使用調整豆乳、納豆、バナナ、豆腐、野菜ジュースをかごに放り込む。このラインナップを見たら意識高い系とかなんとかと思われそうだが、単に思考の抵抗がないものを集めたら豆だらけになっただけだ。

私の食における「思考の抵抗」とは、主にお金と健康と手間だ。

元から食に興味がない。
家での食事は空腹という不快感をなくすための行為。
外で食べる食事は、友人との話を彩るものとしての行為、旅行先であればその場所の文化を知るための行為、といったところ。
あくまで手段。もちろん「あれが食べたい!」というように食べることそのものが目的になることもあるが、まれである。

だから一人の家での食事におけるお金の問題はかなりシビアに考えてしまう。
これに100円かけるのか?と。食べたいではなく、おなかがすくから仕方なく食べるという行為に対して、あまりお金をかけようと思えなかった。
今では「健康」という目標を達成するための手段である食事として捉えるようになり、結果豆製品が名を連ねた。

豆乳はそれだけでおいしいし、納豆はラップで包んだ冷凍ご飯を温めそのまま食べれば洗い物一切なしで一食をませることができるし、バナナも同様、洗い物なし。野菜ジュースも紙パックで捨てるだけ。快適。

だからあまり楽しくない。
食欲は満たされているけれど、気持ちは満たされていないのを感じる。
でも、じゃあ気持ちを満たそうと思ってスーパーに行って自分と会話をするけど、何で満たされるのかが分からないからなす術がないのだ。

就活、食事、大学、バイト、あれやこれやと色々考えていると、それらすべての結論がたったひとつ「めんどくさいなぁ」の壺に流れていく。

こないだラジオで「めんどくさいに殺される」という話があったのだが、ほんとにそうだと思う。

遠くに行きたい。
寝台列車に乗って大阪の友人に会い、串カツを食べ、長野の山奥で森の音を聞きに行きたい。
けど、今抱えている、未来に関わる物事やそれの長期的な計画を投げ出せるほど、私はしなやかではない。

経済性、計画性、将来性、安定性、現実性、エトセトラ。
どうしてか私は自分で自分をこれらで縛って生きている。
まあ、理由は分かっている。不確実な未来が怖いのだ。今ある何かを捨てて不確実な未来に飛び込めるほど、私は強くないのだ。

私は本当は、何がしたいのだろう。何が欲しいのだろうか。
自分で自分を縛っているあれらを手放すことができたなら、私は何をするのだろうか。その先で何を感じるのだろうか。

いつか分かるときがくるのだろうか。





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