「勉強しなさい」は効果なし、どころか逆効果。子どもに理想の姿を要求したことを反省し、結局たどり着いた答えとは。

息子の成績がよくないので、なんとか勉強する気になってくれないかと気をもんでいるんだけど、実際のところ、大事なのは成績ではなくて、「勉強体質」になってもらいたいというのが、親としての願いである。

何かを学ぶということはとても面白いことだし、勉強体質であれば、将来何かのスキルが必要になっても、自ら学ぶことができるので、やりたいことができるようになるはずだ。

でも、それができれば苦労しないよね~。

「勉強体質になること」ほど子どもにとって難しいことはないのではないだろうか。それさえできれば、成績なんて絶対にあがるはず。成績が良くない子は特にそう。勉強していないから成績が悪いだけなのだ。成績をあげたかったらもっと勉強する。それだけだ。

塾をやっているので、いろいろな生徒さんを見ているけれど、生徒の成績を上げるには、教科を教えることよりも、生活習慣や勉強への取り組み方を変えることの方が大事だと思う。勉強しているのに成績が悪い子っていないもの。

だからといって、子どもを「勉強体質」にさせることほど難しいことはない。「勉強しなさい」は効果がないばかりか、逆効果であることも多い。言っても無駄だとわかっているのに、言わずにはいわれない不思議なことば、それが「勉強しなさい」。そしてそれに続く逆切れ。負の連鎖はどこまでも続く。

ただ、今日からはちょっと違う目で見てみようと思う。子どもとは、自分よりもさらに不完全な生き物である。「小さな大人」ではないということを思い出さなくてはいけない。あまりの馬鹿さ加減についカッとして、同じ次元で怒ってしまうけど、同じ次元で言い争うべきではない。

大人になった自分が、過去の経験から学んでいくぶん賢くなっただけで、自分だって子どものときは同じように、嫌なことからは逃げ、勉強なんてできるだけしたくない、と思っていたはず。自分がどうだったかという記憶は、年を取って経験を積んだ今の自分のメンタリティで上書きされていて、子どもの気持ちを思い出すことが困難になっている。

自分が大人になって勉強したくなったから、勉強は主体的にやれば楽しいものだと言って、子どもに主体的に勉強するべきだとか、勉強は楽しいと思え、と言うのはとんでもない要求なんじゃないか。子どもが不完全な存在であることを思い出さなくてはいけない。

だいたい、大人だっていつまでもなまけ心と日々戦っているのではないか。人によってはやりたいことが仕事にかわっただけで、それが収入につながっている点をのぞけば、ゲームばかりやっている子どもと大きな違いがあるだろうか。いや、その収入だって、ゲームの中のポイントと大差はないのかもしれない。 それに自分だって、「めんどくさっ」が口癖じゃない?

子どもに理想の姿を要求するのは間違いだと気づいたとはいえ、ゲーム中心の生活を許すわけにはいかない。ウチの子を見ていると、嫌な事、面倒なことから逃げることばっかり考えている。課題はギリギリまでださないか、いっそやらない。勉強やる前にゲームやらせろ、とか。

よく、「うちの子は全然勉強しなくて」って言う親御さんがいるけど、それをうのみにしてはいけない。「全然」の内容が人によって違うから。
宿題はやるけど、自主勉を「全然」しない子もいれば、授業をしっかり聞いているけど、家では「全然」勉強しないって子もいると思う。そういう子ならば、いっそ「勉強しなさい」なんて言わなくてもいいし、言わない方がいいと思う。そういう子は自分でちゃんと自分の力をわかっていると思う。それに満足しているか、どうか。満足しなくなったら、もっと勉強するようになるはず。だから、子どもを信じていればいい。信じてもらっていることに、子どもは責任を感じ、ちゃんとそれにこたえるようになると思う。

けれど、そのどちらにも当てはまらず、宿題もやらなくて、授業も聞いていなくて、テストがいつあるかも知らず、プリントはなくすし、家でも全然勉強しないばかりか、ゲームをやるためならあらゆるウソをつくって子もいる。そんな子も同じように「全然勉強しない子」と呼ばれるけれども、前述の子達と同じ扱いにはできないでしょう。でも、いるんですよ、そういう子が(ウチに)。

子どもに理想の姿を要求するのはやめるべきだ。今日からちょっと、子どもを見る目を変えてみよう。でも、だからといってウチの子の場合は野放しにしたら危険すぎる。さて、どうしましょう。

いろいろ考えたのに、結局ふり出しにもどってしまった。やれやれ。


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