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いきるちから

はじめに

中村たいら。2023年9月現在43歳、都内で働くゲームクリエイター。既婚。奥さんと息子2人の4人家族。

子供の頃から不幸という不幸を経験することなく生きてきた。大学を卒業して子供の頃から好きだったゲームの会社に入った。仕事もそこそこ上手くいき、30歳で結婚、子供も2人産まれた。

当時は気付いていなかったけれど、とても幸せな人生を歩んでいたのだと思う。

今から4年前、2019年9月18日までは。

長男「ちから」

2013年のはじめに生まれた長男は「ちから」と名付けた。

生まれたばかりの頃はとにかく寝ない赤ん坊で寝不足の毎日だった。

身体が弱く、保育園に行っては風邪をもらって熱を出し、その度に妻と交代で会社を休んだり、お互いの親に来てもらったり、とにかく手の掛かる子だった。

反面、性格は穏やかで優しくて、聞き分けが良く、誰に似たのかとても良い子で育てやすかった。子供ながらに相手の気持ちを考えられる子で、親でも関心するような発想をしたり、親バカかもしれないけれど賢い子だなあと思っていた。少し繊細で臆病なところもあるけれど、そこがまた父親であるぼくの弱いところを写しているようで余計に愛おしかった。

大きくなるにつれて徐々に熱を出す回数も減り元気に小学校に通うようになった。

その頃にはNintendo Switchに夢中になり、ぼくがゲームをつくる仕事をしていることを認識してからは、将来はゲームクリエイターになりたいと言っていた。何になっても良いと思っていたけれど、息子が自分と同じ道を目指したいと言ってくれるのは、悪い気はしなかった。

ちからはどんな大人になるのだろう?

ほとんどの親がそうであるように、ぼくたち夫婦はちからの成長を楽しみながら、大切に、大切に育ててきた。

2019年9月18日

そのちからが、2019年9月18日明け方4時頃、突如40度を超える高熱を出し、急いで連れて行った病院で痙攣を起こし、そのまま意識を失った。小学1年生の9月。2学期が始まってすぐのことだった。

最初はただの熱性痙攣で、すぐに意識が戻り、帰れると思っていた。しかし病室に連れていかれた後、なかなか呼び出しがかからない。

しばらくして呼び出しがあり、安堵の気持ちで会いに行ったが、目の焦点が合わず言葉を発しても言葉になっていない。今まで見たことがない、明らかに普通ではない様子に大きなショックを受けた。とても嫌な予感がした。

一度病室から出るように指示され、その後再び長い、長い待ち時間があった。怖くて、怖くて仕方なかった。次に呼ばれたのは病院の個室だった。そこには何人もの先生や看護師さんがいて、医療ドラマのワンシーンのような異質さがただ事ではない何かが起きたことを確信させた。

先生から告げられたのは「敗血症性脳症」という病気だった。命の危険があり、何かしらの後遺症が残る可能性が高いという。長い説明があったが、それ以降の話は頭に入って来なかった。

数時間前まで熱はあったものの、普通に話もできていた息子が死んでしまうかもしれない。命だけは助かってほしいと泣きながら必死に祈り続ける妻の横で、現実味が湧かずどこか他人事のような不思議な感覚だった。両手を強く組んで祈る妻の手の甲には爪が食い込み血が滲んでいた。

それから数日間、輸血や様々な処置が行われ、一命は取り留めたが、意識不明の状態は約1ヶ月続いた。息子が生死を彷徨う姿を毎日、何もできずただ見ていた。

毎朝、目が覚めては全てが夢であることを期待した。何事もなかったようにちからが飛び乗って起こしに来て、夢で良かったと思いたかった。けれどやっぱり、現実のちからは意識不明のままだった。

命が助かること、そして奇跡的に後遺症が残らないことを祈り続けた。

2019年10月

1ヶ月後、目を覚ましたちからはやはり重度の脳障がいを持つことになった。脳の状態からは寝たきりになる可能性が高いと言われ、自分で呼吸をすることも、食べることも、動くことも出来なかった。

「抱いてあげてください。」と看護師さんに言われ、鼻からは管が通り、足は筋肉が落ちて痩せ細り、父親である自分のこともわからなくなってしまった息子を抱いたときは人目も憚らずに号泣した。

泣きながら、生まれたばかりのちからを初めて抱いたときのことを思い出していた。名札の付いた足を見て、生まれたばかりの赤ちゃんの足はこんなに細いのかと驚いた。そこからおっぱいを飲んで、離乳食を食べて、大人と同じものを食べられるようになって、立ち上がって、歩いて、走って。成長と共にだんだんと大きく、太くなっていった足。一緒に、手を繋いでいろいろなところに行った足。その足が生まれたてに戻ったように細くなっていた。これまでの成長の全てが失われた気がした。

それと同時に、あるはずだったたくさんの未来もなくなったことを実感した。

楽しかったはずの学校生活、できるはずだったたくさんの友達。勉強はできるほうだったから、どこの中学に、高校に進学しただろうか?奥手そうだけど、年頃になったら女の子付き合ったりするのかな?仕事は何をするのだろう?なりたいって言っていたゲームクリエイターになれるかな?結婚はするかな?いつか孫の顔が見れたらいいな。

そういった親として今まで当然あるものだと思っていたちからの"普通の未来"は、これでもう、なくなったのだ。

目を覚まして奇跡的に後遺症もなく、元のちからに戻る。状況的にそんなことはないだろうとは思いつつ、心のどこかで自身を支えていた最後の望みが打ち砕かれ、ダムが決壊したかのように悲しみが溢れ出した。涙が止まらなかった。

なぜ自分の息子がこんなことにならなければならなかったのか、あのときもっと早く病院に連れて行っていたら、あのとき熱を出さなければこうはならなかったのか、次々と沸き上がる負の感情や後悔を、過去を振り返っても仕方がない、前向きに生きなければ、と自分に言い聞かせて打ち消す。毎日毎日、何度それを繰り返しただろうか。

悲しすぎて、つらすぎて、生まれて初めて「死んでしまいたい」という想いすら頭をよぎった。

そんな状況の中でギリギリ心を保たせてくれたのは、まだ状況がよく理解できず、以前と変わらず毎日底抜けに明るく無邪気に過ごす当時4歳の次男の存在だった。

次男のためにも悲しみを乗り越え、前を向く必要があった。

2019年12月

寝たきりになるかもしれない、といわれていたちからは毎日少しずつ、いろいろな機能が回復し、自発呼吸をし、口に食べ物を運んであげれば食べて、飲み込めるようになった。また入院中の3ヶ月間のリハビリによって自分で立って、歩けるようにもなった。

しかし、知的障がいは重く、ぼくらの話を理解することも、喋ることもできるようにはならなかった。

命が助かり、少しでも機能が回復するのは嬉しいことのはずなのに、その度に失ったものを再度実感させられるようで心からは喜べなかった。

この頃は悲しくて毎日泣いていた。家でも会社でも、ふとした瞬間に元気だった頃のちからを思い出したり、避けていてもSNSやスマホから昔の写真を目にしてしまい、その度に涙が出た。

毎日楽しみにしていたFacebookの過去の投稿や、親族みんなでちからの成長を共有し、楽しんでいた「みてね」がこんなにも苦しいもの変わるとは思ってもみなかった。

身体が回復したちからは退院することになり、家族4人での生活がまた始まることになった。2019年末、ちからが高熱を出し、痙攣を起こしてから3カ月経っていた。悲しみは大きいけれど、家族と、そしてちからの為にも4人でまた楽しく幸せに暮らしていこう。そう思ってスタートした退院後の生活だったが、待っていたのは厳しい現実だった。

2020年

立つことや歩くことなど、身体の機能は回復したちからだったが、知能は回復せず、家の中で衝動的に様々な行動をしてしまうようになった。

テレビや椅子など、掴めるものを掴んでは倒してしまう。人や物などあらゆるものを噛んでしまう。テレビのリモコンやスマホなども噛んで壊してしまうので、ちからの手が届く場所には何も置けなくなった。

また、机や椅子などにはとにかく登ってしまい、降りれなくなるので、その都度抱いて降ろしてあげる必要があった。自分でトイレに行くこともできなくなったのでおむつを履いているのだが、ズボンごと脱いでしまうのでそれもその都度戻してやらなければならなかった。

さらには脳障がいの影響で、一日に何度も、突然痙攣を起こして倒れてしまうので、とにかく一瞬も目が離せない状態になった。

言葉が分からなくなってしまったので「ダメ」とか「やめて」は通じない。ひとつひとつは大したことはなくても、言葉が通じず、永遠と繰り返されるそれらの行動に、こちらがおかしくなりそうだった。

仕方のないことだとわかっていても、大事にしていた家や家具が次々と破壊されていくことには苛立った。置いてあったコップをひっくり返し、床を拭いている間にスマホをかじられ、画面が割れたときはぶつけようのない怒りに震えた。

毎日数回のおむつの交換も、赤ちゃんのときと違って静かに寝ていてくれるわけではなく、動き回るので大変だった。交換に失敗して床が汚れてまったときなどは、おむつが取れ、自分でトイレにいけるようになった昔の姿を思い出し、泣きながら掃除した。

食事も毎食、口に運んであげる必要があった。更に痙攣を止めるために毎食後、大量の薬を飲ませなければならないのだが、薬の味がすると吐き出してしまうので、甘いジュースに混ぜたり、好きな食べ物の中に入れるなど、工夫しながら毎回数十分かけて飲ませた。それでもどうしても飲まず、咀嚼された食べ物や甘いジュースを床に大量に吐き出されたときなどは気が狂いそうになった。

夜中に目を覚ましたと思ったら、立ち上がり、笑いながら暗闇に向かってパチパチと手を叩き始めたときは、最初はその様子が可笑しくも感じたが、永遠にやめようとしない変わり果てた息子の姿に涙が出た。あんなに聞き分けが良く、良い子だったのに…。考えても仕方のないことだとわかっていても、そう思わずにはいられなかった。

今まで毎週のように家族でどこかに遊びに行っていたが、それもできなくなり、家族全員家に閉じこもり、ひたすらちからを見張る日々。

とにかく毎日がしんどかった。ちからが突然病気になり、あるはずだった未来がなくなっただけでも悲しく、その悲しみは一切癒えていないのに、その代わりの生活がこんなに大変だなんて、神も仏もないと思った。

更にこの頃は病状も安定せず、新たな病気も併発して頭の手術をしたり、痙攣を起こして救急車を呼んだり、とにかく壮絶な日々だった。

正直に言って、この時ぼくは、この生活をこのまま続けていくのは無理だと思った。そういった今後の生活についての考え方のズレにより、妻とも衝突し関係性も悪化した。

日本で初めて新型コロナウイルスが流行し始めた頃、家庭は崩壊しかけていた。

2021年

ちからが病気になって1年が過ぎると、さすがに毎日涙が出ることはなくなった。病状も安定し、ちからは特別支援学校に通うようになった。この頃になると、モノを倒したり、噛んだりする癖が少し落ち着いてきて、ちからに合わせた部屋の改修など、工夫することによって、少しだけ生活としては安定してきた。

しかし安定すればするほど、これから先の生活がはっきりとしていき、今までの生活や思い描いていた理想の生活とのギャップに苦しくなった。相変わらず食事や排泄等、介護世話は大変だったし、一緒にいるときは常に目は離せない。家族揃っての外出もほとんどできなくなった。

子供を連れた家族を見るのがつらかった。楽しそうに外出していく家族を見ては羨ましいと思った。男の子2人の兄弟を見ると特につらくて、ちからが元気だった頃は良かったな、なぜうちはこうなってしまったのかと涙が出た。

毎朝、特別支援学校のバスまで送る際、小学校の登校時間と被り、元気だった頃一緒に登校していた友達に会うのもとてもつらかった。楽しそうにおしゃべりしながら自分の足で登校する子供たちを見ては、逃げるようにちからの手を引き特別支援学校のバスに向かった。

コロナウイルスの影響による、学校の閉鎖等も共働きの我が家の厳しい状況に追い打ちをかけた。普通の小学生であれば学校に行けなくても、家でテレビでも観せておけばとりあえず仕事にはなるが、ちからはそうはいかない。家にいればどちらかが必ず見ていなければならない。会社や同僚の理解を得ながら、手分けして面倒を見つつ仕事をするしかなかった。

仕事のことを考えながら毎朝1時間ほど散歩をするのが日課だったのだが、仕事のことを考えていても、いつの間にかちからや家庭のことを考えてしまう。

ちからが病気になっていなければ、今頃どんなに幸せだっただろうか。なぜちからは、ぼくの人生はこうなってしまったのだろうか。この苦しみからどうやったら抜け出せるのだろうか。

考えても考えても、答えは出てこなかった。前向きに生きなければと頭では分かっていても、全くそんな気持ちはなれなかった。毎朝、何度もため息をつきながら、時には涙を流しながら散歩した。

2022年

3年目に入ると、更にちからとの生活にも慣れてきた。どうしたらこの苦しみから抜け出せるか考え尽くし、人にも相談し尽くしたが、答えなんて出ないことがわかり、徐々に考えるのをやめた。同時に苦しいと思うことや、つらいと思うことも減っていった。

月日の経過でちからの病前の記憶が薄れ、今のちからや生活が「当たり前」になってきたのも要因だろう。

結局自分を1番苦しめていたのは、病前のちからや、生活とのギャップだったのだと思う。良く言えば「受け入れた」ことで、悪く言えば「諦めた」ことで徐々に苦しみから解放されていった。

相変わらず介護生活は大変だったが、ちからのたくさんのクセや不思議な行動を、家族で笑って楽しめるようにもなってきた。

特別支援学校や放課後預かってくれるデイサービスなどを通じて、様々な障がいを持つ子供を見たり、先生やそういった子供を育てる親の話を聞くようになり、自分たちだけが大変なのではないことも知った。

家族4人で今のちからでも行ける場所に遊びに行ったり、施設や病院の協力を得ながら、ちからを預かってもらえるときには妻と次男と3人で遊びにいくことも増えた。

この環境の中で、今のちからと、家族と少しでも楽しく、幸せに生きるにはどうしたら良いかを少しづつ考えるようになった。

もちろん、つらいと思う回数が減っただけで、ふとした時に病前のことを思い出して絶望的な気持ちになることはあった。

でも確実に、少しづつ、時間の経過とともにそういう気持ちになることは減っていった。

2023年9月18日

ちからが病気になって4年が経った。

最近開幕したラグビーW杯の日本戦を観ながら、前回のW杯のときはボロボロの精神状態で、気を紛らすために泣きながら試合を観ていたことを思い出し、あれから4年経ったことを実感した。

あの日、突然降ってきた巨大隕石のようなちからの病気は、ちからと、ぼくら家族の人生を大きく変えた。

当時を振り返ると、毎日悲しくて苦しくて、出口のない地獄にいるような感覚だったけれど、時間の経過と共に悲しみや苦しみは薄れ、今はそれなりに毎日を楽しく暮らしている。

昔を思い出してつらくなることも随分と減ったし、昔の写真もみんなで笑って見れるようになってきた。

それでも楽しいとき、幸せを感じたときなどにふと「ちからが病気になっていなかったら、ちからが一緒だったら、きっともっと楽しかったんだろうな…」と我に返ってしまうことがある。たぶんぼくが心の底から幸せだと思えることは、もうないのだろう。

でもちからが病気になってしまったことも、障がいを持ってしまったことも、今となっては「仕方がない」ことなのだ。毎日つらいと思って後ろ向きに生きようが、前向きに生きようが、事実は変わらないし元には戻らない。だったら残りの人生、少しでも楽しくちからと生きよう。今はそう思えるようになった。

ちからは脳に重い障がいを持ち、昔のようにおしゃべりはできなくなってしまったけれど、いつも笑顔で、元気に、周りの人たちに愛されながら毎日を生きている。

このnoteでは、重度の脳障がい児であるちからと、ぼくたち家族の生活や、その中で想うことなどを書いていこうと思う。

今、こうして家族のことを公開しようと思ったのは、ぼくが自分のつらさを吐露したいからでも、同情して欲しいからでもない。

4年前、ちからの病名がわかったとき、泣きながら、震える手で病気のことをインターネットで調べた。

ちからは助かるのか、後遺症は残るのか。病気について調べ尽くしたあとは、子供が同じ脳症という病気になってしまった親が書いたであろうblogを見付けて、読み漁った。

その多くは病気になった直後の内容で、病気の経緯と悲しみが綴られていたが、途中で途絶え、その後、その子や家族がどうなったかは、わからなかった。

なぜblogは途絶えてしまったのか、その家族はどうなったのか。不安を少しでも軽減したい気持ちで読んだblogだったけれど、更に不安になったことを覚えている。

ぼくがそうであったように、今、この瞬間も突然お子さんが病気になり、震える手でここに辿り着く人がいるかもしれない。

またお子さんが障がいを持ち、これからどうなってしまうのか不安でたまらない気持ちの方もいるかもしれない。

そういう人たちに今のちからとぼくたちの生活や、想いを公開することで、ほんの少しでも救いになればいいな、と思う。

また子供が病気になり、悲しみや苦しみを乗り越える中で色々なことを考え、残りの人生で、同じような境遇の方たちや障がいを持つ方たちのために何かをしたいと思うようになった。

今はまだ何ができるのか、何をすべきなのかははっきりしないけれど、このnoteが何かのきっかけになればいいなと思っている。

絶望の中にいる4年前のぼくへ。

めちゃめちゃ悲しくて、めちゃめちゃしんどかったけど、4年後、家族4人で毎日そこそこ楽しく生きています。

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