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#005 F1サーキットにて(2)ブラジルGP

 初めてブラジルの空港に降り立ったときはびっくりした。タラップを降りながら見渡すと、そこには小さな2階建てビルがあるだけだった。その上、ビルに到着してもパスポートチェックがない。ロビーでしばらく立っていると、空港職員らしい男がやってきて、「これに乗れ」と言う。観光バスのような大きなバスが待っていて、それに乗り込んでからの説明で、やっとわかったことが、「これから、グァルーリョス国際空港に向かう」ということだった。サンパウロを集中豪雨が襲い、グァルーリョス空港には降りれないため、一旦地方空港に着陸したので、これから当初の目的地である空港まで送るというのだ。
 
 2時間近く、どこまでも続くジャングルのような緑の木々の中の高速道路らしい道を走り続けてサンパウロの玄関口、グァルーリョス空港に到着した。
 空港会社の事務所まで行って、リコンファームをしてから(当時は、これを必ず出発の3日前までに行うこととされていた。この帰りの便の確認をしておかないとダブルブッキングで乗れないことがあった)ロビーに下りると、ぷーんと甘い香りが鼻をついた。「ふーん、これが、サトウキビから作ったというアルコール燃料の香りか」
 しばし甘酸っぱい空気を吸った後、ドルを現地のクルゼーロ(当時のブラジル通貨単位。現在はレアルに移行している)に換えようとしたのだが、どの銀行も閉まっていている。聞いてみると、インフレ率がすごくて毎日のようにレートが変わるために換金は停止中だという返事。こちらはドルしか持っていないのに、小銭がなかったらタクシー代も払えない。どうしたらいいのかと尋ねると、ドルでもタクシーは大丈夫だとの答え。それで、とりあえずホテルに行ってしまおうと、タクシーをつかまえて市内に向かった。

 ブラジルは1か月前に通貨の切り替えが行われたばかりだった。物価が一気に3倍に跳ね上がり、国民はパニック状態。新貨幣への切り替わりと同時に、預貯金の引き出しもひとり5万クルゼーロ(日本円で約20万円)に制限されたうえに、残金は18か月間の凍結が宣言されていた。それも果たして18か月後に戻ってくるかどうか? 「何年もかけて中産階級が貯めた貯金は水泡に帰した」と新聞が伝えていた。
 ホテルに入ると、フロントが、とにかく早く支払いを済ましてしまったほうがいい、明日になったら幾らに跳ね上がるかわからない、今払え、今払えと急かす。たぶん親切心からだったと思う。なぜなら、その日、日本円に換算すると5万円ほどだった1泊料金が、2日目に計算すると8万円、3日目には12万円と上がっていったからだ。青ざめると言うよりも、あきれてしまった。しかたがないので、現地支払いはやめることにした。クレジット決済にしてサインだけして帰ってきた。
 後日、クレジット会社から幾らの請求が来るかと気をもんでいたが、結局、1泊が3万円くらいで納まってほっとした記憶がある。クレジットはサイン日ではなく、月末の決済日のレートで計算されるため、そのときまでにブラジル経済も落ち着きを取り戻していた、ということなのだろう。

 さて、大会だが、地元の英雄アイルトン・セナが日本の中嶋悟のマシンと接触してノーズを破損、3位に後退する中、ライバルのプロストが優勝して終わったのだが、この帰りがまた大変だった(デジタルカメラの現在だったら、インターネット回線につないで、送稿すれば一発で済んでしまうのに、当時は未現像フィルムを抱えて持ち帰らなければ、写真原稿が作れなかった。そんな信じられない時代だった)。
 この当時、速報誌は大会の6日後に発売というスケジュールで進行していた。それに間に合わせるようにカメラマンの撮影したフィルムを火曜日の朝までに日本に確実に持ち帰るのも、私の任務だった。
 どの大会でも大体そうなのだが、決勝レースは午後1時か2時にスタートし、約2時間で終わる。そこですぐカメラマンからフィルムを回収して、空港に駆けつけ、午後7時から8時くらいの便に飛び乗るというのがルーチンワークになっていた。(日本への決勝レースの原稿は、もう一人が書いて、翌日の便で帰るように分担していた)
 サーキットから空港までは1時間ほどなのだが、いろいろと聞いてわかったのは、タクシーがサーキットの手前の鉄橋の所までしか入れないということだった。そこまで、連日タクシーで乗り付けていたので、そこでタクシーをつかまえればいいのだが、決勝当日はこの辺りは大混乱で、とてもタクシーを拾える状態ではないという。拾えないというよりも、レース終了直後はファンでごった返すため危険で、タクシーは入ってこないと言われた。
 それで考えたのが、会場から選手宿舎となっているサンパウロ中心街とサーキットの中間にあるオフィシャルホテルまで、フィルムを持って歩くという方法だった。
 そこで、3日間の大会が始まる前日の木曜日に、サーキットからホテルまで一人で歩いてみることにした。歩いてみると、約2時間の距離だった。
 これなら3時にサーキットを出ても5時にはホテルに着き、そこでタクシーをつかまえれば、空港には6時につき、7時の便に間に合う。この手で行こうということになった。

 ところが、練習と本番の違いというのは、大きかった。

 練習では何も持っていなかったので、2時間の歩きも苦にならなかったのだが、決勝当日はフィルムのほかに自分のバッグが加わり、フィルムを入れたためにバッグから出したカメラと望遠レンズも肩にかけている。その重さでバッグが食い込む肩が痛い。南半球ブラジルの3月は夏の終わりに当たっているが、日本で言えば正に真夏の暑さだ。照り付ける太陽でじりじりと焼かれる。何度も立ち止まっては休憩するはめになる。2時間が経過してもまだホテルは見えてこなかった。「俺は、こんなところに来て、こんな痛いめをして、いったい何をしているのだろう」そんなことを思いながら、ひたすら歩いた。
 やっとホテルまでたどり着いた。だが、前日までは何台も停まっていたタクシーが1台も見当たらない。ホテルのフロントに頼むと、「こんな状態だからタクシーも逃げてしまった」と言って、前の道路を行く帰りの車の大渋滞を指差すだけだった。
 列車の駅は近くにはない。タクシーもない。もう2時間もすれば飛行機は出てしまう。そう思って、諦めかけたとき、1台のタクシーが入ってきた。ところがそれは予約待ちで、どう交渉しても、その人を待たないとだめだと言うばかり。
 しかたがない。これで今大会号は出ないことになる。今からいくらしゃかりきになって歩こうにも、空港の方向さえ見当がつかないのだ。
 完全に諦めて、ホテルに入ろうとしたとき、件の運転手がやってきた。「いいよ、行ってやるよ」と言ってくれたのだ。約束の人が来なかったのか、それとも、こちらの落胆ぶりに何かを感じてくれたのか? それはわからないが、大渋滞の中を懸命に走ってくれた。そのタクシーのおかげで、1990年のブラジルGP号は、無事予定どおりに書店に並ぶことになった。


 随分長くなってしまったが、これには後日談がある。

 翌年、今度はレンタカーをして、車でサーキットから空港に向かおうと計画してブラジル入りしたのだが、前年のレンタカー経験者に聞くと、これがまた大変で、サーキットの周辺が大混乱し、レースが終了しても2時間ほどは、駐車場から車を出せなかったというではないか(レースの終了前に金網を切断して外に出たあるカメラマン氏は、渋滞に巻き込まれなくて済んだと言っていたが)。それでは同じことだということになって、やはり、途中のホテルまで歩いていくのが間違いないということになった。前年、一度経験していることでもあるし、というわけだ。ただし、今度はその中間のホテルのフロントに頼んで、確実にタクシーを待たせておくということになった。そうすれば、前年のようなことにはならないだろう。

 決勝当日。レースが終わり、インテルラゴスの屋根もない家々の間を抜け、大通りに出て、前年と同じ路をたどって歩いた。すると、その脇にすっと1台の車が止まる。ちょっとばかり不安になって立ち止まると、手招きしている。「すぐに乗れ」と言う。
 見るとプレス関係者らしく、プレスルームで見て知っているから声をかけたと言うので、安心して乗り込んだ。
 すると、激しい口調で怒られた。「こんな所を一人で歩くものではない、ここは、地元の自分たちでさえ、こうして車で通り過ぎて、一人で歩いたりしない! ましてや、カメラを裸で出して歩くなんて!」
 サンパウロ中心街にあって、空港へのバスが出ている地下鉄のセー駅まで送ってくれたその記者に、初めてその辺りが、旅行者が歩いていると時々引きずり込まれて、バッグを取られたり、身ぐるみ剥がされる地帯だと聞かされたのだった。

・・・・ブラジルは世情が安定しておらず、危険だという話は当然聞かされてはいた。1990年の取材時には、台北(だったか、香港だったか、はっきりは思い出せないのだが)から来ていた一人のカメラマン氏が、格安ホテルに泊まっていたある日、ドアをノックする者がいるので、注意して覗き穴から覗くとホテルの制服を着た男が立っていた。それで安心してドアを開けると、それは手引き役で、ドアを開けると同時に隠れていた別の男二人に踏み込まれカメラ一式を奪われるという事件が起こっている。彼は、それが初めてのFI取材だったようで、プレスルームにやってきて意気消沈しているので、その話を聞いたカメラマン有志が集まって余っている機材を融通し、それを使って撮影をして帰って行ったのだが、以後、二度と彼がサーキットに姿を見せることはなかった。