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山鹿豊前街道絵巻(六)・・・豊前街道をそぞろ歩く

 『有働自轉車』を出て、豊前街道をそぞろ歩くことに。方角としては北へ向かい、『さくら湯』を目指す。昔の街道=今のメインストリートを歩くのは、何となく不思議な感じである。当時は、土で固めた細道であったろうし、その頃の人々は、皆、草鞋(わらじ)を履いて歩いていた。

 漆喰固めの家々は、100年以上の昔に建っていたものばかりだが、街灯はガス灯のイメージデザイン。江戸から明治、大正、昭和、平成、そして令和へと、この道沿いの古民家や商店は、長きに亘り、山鹿の人々の生活を見守ってきたに違いない。 

 筆者がこの街に生まれ、物心ついた頃と全く変わらぬ豊前街道沿い。有働自轉車の裏にある家に幼友達がいたので、その家の二階で遊んでいたことを覚えている。二階の窓から菊池川が見え、毎年開催される『山鹿灯篭まつり』(8月15日・16日)では、すぐ近くで打ち上げられる大輪の花火が頭上に広がり、ドーン♪という爆音が腹に響いてきた。

 明治時代には、西南の役から19年後に創業した酒蔵 千代の園(明治29年創業)を中心に街が栄え、明治43年には、山鹿の若旦那衆が、全国でも珍しく貴重な芝居小屋『八千代座』を建てている。

 我が生まれ故郷(旧鹿本町)ながら、とても『ハイカラ』な街であったに違いない。県内でも小さな市であるが、昔電話が開通する時は、熊本市の次に開通したのが山鹿であったと聞き及んでいる。

 旧鹿本町は政治家や法律家を多く輩出しているが、実は、明治天皇のご推挙により、熊本県出身初の内閣総理大臣 清浦奎吾(明治時代)を排出している。清浦奎吾も元々は法曹界の出身(検事)であり、法務大臣の時に『現行犯逮捕』の『現行犯』という法律用語を作っている。

 その隣の旧菊鹿町からは、吉田茂内閣を支えた松野鶴平(元鉄道大臣、参議院議長)、田中角栄内閣を支えた松野頼三(総理府総務長官、労働大臣、防衛庁長官、農林大臣を歴任)、そして3代目の松野頼久(旧日本維新の会 国会議員団代表)と、3代に亘り90年間、日本政治の中枢で活躍していた。

 最後に、戦後間もない頃の熊本市の市長になったのは、旧鹿本町出身の星子敏雄。因みに、戦前は『満州国警務総局長』(現在の警察庁長官にあたる!?)に就任、戦後はシベリア抑留11年を経て、帰郷。1970年に熊本市長になっている。また、現在の熊本県の蒲島郁夫知事も、何と、旧鹿本町出身である。

※各政治家の詳細については『ウィキペディア』を参考

有働自轉車
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有働自轉車
有働自轉車
有働自轉車 看板
有働自轉車 父と息子
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豊前街道
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