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『似非宗教』にのめり込むと、一生台無しになる。不安な心、寂しい心は、心友とのコミュニケーションにて払拭せよ!

 長年、危機管理をもってヒューマンコミュニケーションを交わしていると、『人間とは何ぞや!?』が良く判るようになってくる。

 時折、『似非宗教』にのめり込み、仰々しいほどの数珠を首や手首に巻いたり、親から授かった名前を宗教色たっぷりに改名したり、仏壇の前での手の合わせ方まで変わった人を見掛けることがある。

 勿論、『信教の自由』を前提に話をしているが、その宗教が『似非宗教』か否かを見抜けない人も多い。以前のコラムにも書いたように、とうりゃんせ『行きはよいよい帰りは怖い』(子売りの話という説もある)となる訳だ。

 『似非宗教』に嵌る人は、大方、精神的に弱いが、反面、プライドは高く、人の助言に耳を傾けぬ人が多いように思えてならない。所謂、自己中心的で、自らの『幸』ばかりを求めている人である。

 よって、『似非宗教』に噛まれるのは、その人の性格にもよりけりとなるが、一度噛まれた腕を引っ張って『似非宗教』と断絶、抜け出すには、思いの外、容易なものではないことを覚悟すべき。

 本人が『似非宗教』に騙されていることを理解せず、その場が何より心地良いと『洗脳』されているので、尚更のこと。自分自身を客観視できない視野狭窄な人たちが、『似非宗教』の餌食となっているのが現状。

 解決方法は色んな手法があろうけれども、個人的な問題なので、他人が介在することもできず、何らかの事件が発生しない限り、警察も『民事不介入』の原則にて、踏み込むことが困難となっている。だから、悪行三昧を繰り返す『似非宗教』が、堂々と闊歩することになる。

 色んなところからの『似非宗教』への勧誘。大変困るのは、仲の良い知人友人からの誘いである。下手をすると交友関係が壊れてしまう場合もあるが、そこで『似非宗教』を選んでしまうと、人生は真っ暗闇となる。

 知人友人が、どんなに親しい善人であるとしても、『似非宗教』に噛まれるよりも、親しい人とは『絶縁』を選択するが懸命なる判断と言える。

 勿論、『似非宗教』の悪行三昧の実態を親しい人へ確と伝え、気づかせるのも重要なプロセスだが、間、髪を入れず本人が拒絶すれば、それまでとなってしまう。これまで良好だった友人関係が破綻してしまうのである。

 仕方ない。

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