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純真素朴な幼い頃の自分を忘れると・・・

 幼友達とどんな遊びをしていたかを想い出してみた。先輩後輩関係なく、毎日、幼友達とのコミュニケーションが生活の大半を占めていた。

 周囲には2歳上の幼友達ばかりで、彼らを「たかしちゃん」、「やっちゃん」、「りょうちゃん」と呼び、今でも彼らは「ちかちゃん」と呼んでくれるに違いない。

 どんなに歳を重ねようが、幼い頃に刻まれた強烈な記憶は、そう簡単に消せるものではない。ただ、その頃の周囲の幼友達や自分自身を思い起こせば、何事にも興味津々にて、首を突っ込んでいたように、バカの大騒ぎであった。

 痛いことや辛いことがあれば、それから遠ざかる信号が脳裏に記録される。しかし、全てにポジティブな動きの中で、日々何度も同じ失敗を繰り返す有様である。

 学習能力が欠落していると言われればそれまでだが、善きも悪しきも、その刺激が幼子には堪らなく愉快なものに違いない。変化も刺激も貪欲に追い求める、妙な生き物である。

 或る日のこと、小学校時代の同級生とぱったり逢った。彼は元気者で喧嘩早い性格であった。再会したのは30代の時だったが、彼は小学校時代の頃を全く覚えていないと言っていた。

 悪いけれども、毎晩深酒をしているのか、薬物依存になっているのかと、記憶障害のように記憶がないとボソッと呟いていたことを想い出す。そんな人もいるんだと、一応、頭の中では理解するようにした。

 筆者は男性なので、男としての半生を振り返れば、いつになっても子供心が宿っており、幼子をそのまま大きくしたのが自分自身のように思えてならない。現実からは程遠いが、幼い頃の心地良い幸福袋を背負っている。

 或る時、「そんな昔のことを想い出したとしても現実的ではないし、大人気ないよ!」を言われたことがあったが、記憶の箱から幼い頃からの記憶を吐き出してしまうのは、どうしても気が進まない。

 我が半生が幾重にも折り重なったアルバムとして共有できる心友がいるだけで、十分楽しめる。よって、過去の想い出深き人たちとの遣り取りは、「我が人生の宝箱」にしっかりと納めている。

 自らを評価すると、悪く言えば「大人気ない」。良く言えば「記憶力がある」程度の話だろうと。

 先ほど、高校1年生の頃に出逢った心友と久し振りに長電話したが、ここ数年は、熊本地震やコロナ禍により、直接会うことがない。昔のことを語らずとも、何事も包み隠さず話ができることに感謝しかない。

 父親同士が法曹関係者であった為に、互いの信頼のほどは絶大であると、筆者なりに思っている。しかし、筆者の方が随分迷惑を掛けっぱなしのところも否めないが、その存在は、家族以上であることは間違いない。

 面白いもので、互いにいい大人ではあるが、喋る口調なりトーン、リアクションは昔のままである。思いの外、互いの声は若々しいと、自画自賛。

 心友は熟考型、慎重派のクレバーな人間。筆者は即断即決、体当たり型の人間なのかも知れない。だから、互いに波形が真逆なので、それを重ねると、ノイズキャンセリング機能が働き、漣さえ立たず、和やかな会話が可能なのだろうと。

 このように、歳を幾つ重ねるとしても、純真素朴な幼い頃の自分は忘れたくはないと、日々言い聞かせている。万が一、それを失くしてしまえば、今の自分を創造した源泉さえも埋めてしまうことになるからだ。

 よって、これからも、こっそりと「大人気ない」を貫き通そうかと企んでいるところである。

サポート、心より感謝申し上げます。これからも精進しますので、ご支援、ご協力のほどよろしくお願いいたします。