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目標達成の悦びは、高級黒毛和牛A-5のシャトーブリアンよりも、旨い!

 長崎県南松浦郡奈良尾町(現在の長崎県南松浦郡新上五島町)でトライアスロン大会を企画運営したことが、筆者の企画人生では最高のものだった。

 1987年に、同町観光協会の笹井専務理事が、熊本市在住である筆者の友人を介して、地域興しの相談が事の発端となる。

 当時、新聞社で企画を担当していたが、わざわざ長崎から遠路はるばる来られた笹井専務理事の話を聞くことにした。集合場所は、当時の交通センターホテルだった。

 笹井専務理事の印象は、寡黙で、とても気の優しい人であった。名刺交換をして、早速会議へ突入。聞けば、人口4000弱の小さな同町だが、高校卒業後にほとんど島外へ進学、就職で、若者が居なくなってしまうと言う。

 笹井専務理事が、過疎化対策のイベントは何が良いか考えていたが、なかなかまとまらず、結局、知り合いである筆者の友人を訪ねて来られたのだった。

 筆者は、たまさか九州トライアスロン協議会との接点があったので、同町に全国、いや、海外からも人を呼ぶには、トライアスロン競技が最適なスポーツであると感じ、開口一番、「では、奈良町にトライアスロン大会を作りましょ!」と言ってしまった。(無責任に言ってしまった)

 ただ、開催地は長崎県の上五島となるので、地元新聞社にも事業部があり、前もって事情を話し説得し、そのイベント企画をこちらの新聞社で強行開催(奈良尾町と筆者側新聞社の共催)の段取りを作り始めたのである。

 翌月、公休を取り、自腹にて、同島へ九州トライアスロン協議会を引き連れ、初上陸。町長や観光協会長、体育協会長と会い、筆者が書き上げた大まかな企画案を提示したのである。町長からは「やりましょ1」と即答を得流ことができた。

 しかし、筆者が勤務する新聞社には無許可のまま、個人的に動いていたので、早々にこちら側の足元を固める必要があった。同町、同島の地形などを具に調査し、トライアスロン企画の可能性を書き上げ、更には、所轄の警察、消防、海上保安庁などの許可を取る必要がある。

 7回目の上陸の時には、筆者勤務の新聞社役員会に企画内容を直に説明し、やっと役員全員の承諾を得ることができた。気づけば、笹井専務理事の相談の日から、1年以上が経過していた。

 そして、待ちに待った、1988年6月。「第1回トライアスロン in 奈良尾」を開催することになった。役員会では、「万が一事故が起きた場合、大会は初回で終了せよ。参加選手は初回50人を上限とし、細心の注意を払い主催にあたれ!失敗したら、君が全責任を負うことになる!」の条件付きだったが、何とか役員会を通過した。

 熊本や長崎のトライアスリートが、積極的にサポートしてくれる。一人で企画書を書き綴ったものの、それを運営へ持ち込むには、一人の力では到底できない大仕事となった。

 これは、既に時効ではあるので、ここで事実を暴露しておくが、「万が一、事故が起きた場合」の条件の話。実は、一人の選手が自転車で転倒し、側溝に落ち、右膝を骨折したのである。水面下にて、その通知を聞き、顔色無しの状態となった。

 ゴール付近に立っていた筆者だが、周囲に気づかれぬように、即座に負傷した選手のところに走って行き、怪我の状態を確認することに。地元医師の応急措置した直後だったが、心音がバクバクと体を揺らした。

 熊本から参加した選手だったが、筆者に重い口を開いてくれた。

「申し訳ないです。急な坂の下りでスピードを出し過ぎて、曲がり切れず、側溝に嵌って、ひざの皿を割ったようです。事故があったら、大会はこれでお終いだと聞いていたので、本当に申し訳ないです。西田さん、先ほど私の友人に電話して、熊本空港から自家用機を飛ばし、2時間もすれば上五島空港に着くと思います。そこで、私はそのセスナ機に乗り込み、熊本の病院へ直行しますので、急用で帰ったと説明してもらえませんか!?」と、苦笑いしながら語ってくれた。

 4000人ほどの全町民が応援の旗を振り、ゴールする選手たちを迎えている。町長も他の団体の長たちも、1年3ヶ月もの歳月を掛けて創り上げたスポーツイベントを満足してくれている。それが、この初回で終わり、2回目以降は筆者側の新聞社が共催しないとなれば、大会が消えてしまう可能性もある。

 負傷した選手に、筆者が「大変な怪我にも関わらず、ご配慮頂き感謝します。熊本に戻りましたら、直ぐにご入院先へ見舞いに行きますので、ご提案の流れで、宜しいですか!?」と言って、負傷した選手をタクシーに乗せて、手を挙げ、別れを告げた。

 メイン会場では表彰式の準備が整いつつある。完走した選手たちが整列していたが、スタート時点では50名。完走者は49名である。虚偽報告をすることに、とても抵抗があったけれども、この大会を終わらせる訳には行かない。断腸の思いで、虚偽報告を是と判断したのだった。

 よって、「急用で一人の選手は既に戻った」ということにして、無事、「第一回 トライアスロン in 奈良尾」が終了した。この事実を知るのは、負傷した選手、現地の医者、筆者、そして九州トライアスロン協議会役員の一部のみで、本日まで不開門(あかずのもん)として胸に秘めていたのである。

 同大会は、思いの外、全国雑誌に派手に取り上げられ、すこぶる好評だった。「マナー日本一のカーボパーティーのトライアスロン奈良尾大会」というタイトルにて紹介した記事もあった。長崎県内のテレビ局も大々的に、長崎県初のトライアスロン大会を連日報じてくれた。

 筆者が企画した同大会は、3回目には新聞社の手を離れることになった。実は、3回目の時、筆者は新聞社を退社し、起業した年だったので、筆者の創立早々の会社で企画運営を担当することになった。

 小さな会社だが、全社員を同島へ送り込み、前夜祭のカーボパーティ、そして翌日の本番の管理運営に皆が東奔西走したことを、昨日のように覚えている。マルチメディアのスタッフたちが、スポーツイベントの管理だから、浮き足立っていたに違いない。

 同島の島民の方々は、とても温かかった。そして、美味しい郷土料理を沢山運んでくれた。五島うどん、五島ちゃんぽん、山盛り新鮮ウニ丼、石鯛の皮焼き刺身など、滞在2泊で数キロ太るほどの海の幸三昧であった。

 それから第5回大会まで弊社が企画運営を行い、第6回目以降の同イベントの権利を、弊社より同町へ委譲することに決めたのだった。それから、同大会は、同町が統合合併し、新上五島町となるまで、開催20回を超えたと聞き及んでいる。特に、同町の歯科医師がご尽力頂いたとのこと。

 ただ、とても残念だったことは、最初に相談を持ち込んで来られた同町観光協会の笹井専務理事が第一回大会開催直前に急死されたこと。更には、当時、筆者に絶大なる支援を頂いた長老の野村さん(町議11期、町のドン)も数年後に他界されたことである。

 第5回大会以降、同町へ足を運んではいないが、筆者にとっては、とても、とても、とても想い出深く、爽やかで心地よい島風の香りと言うものを生涯忘れることはない。近場であれば、毎日でも足を運び入れたい処である。

 当時、お世話になった宿の女将さんにも、今年になって電話連絡をして、想い出話に花が咲いたが、すこぶる元気なご様子だった。

 歳月が経てば、当時の方々の姿も次第に見えなくなってしまう。これが人生なのだろうと思うけれども、この想い出は、意識的に作ろうとしても出来るものではない。一つの目標に向かって、県内外の関係者全員が一丸となり、達成に向けて走り続けた「地域興し」は、一つの「縁」が齎してくれたものである。感謝以外に言葉はない。

 いつの日か、旧奈良尾町へ足を運び入れ、当時同じベクトルにて夜な夜な議論、口論お構いなしにやった仲間たちと共に、再び、美酒を酌み交わしたいものである。

 いやはや、「地域興し」って、一度やったら、止められない!!!どんなに高級な黒毛和牛A-5のシャトーブリアンと雖も、この満足感には及ばない。それほど、「地域興し」の達成感は旨く、至福の極みと言うことである。

写真はイメージ


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