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モラル基準が低い人ほど、法を犯す可能性は高い。

 法律は何も難しいことはない。何故なら「周囲の人たちに迷惑をかけない」が鉄則であり、それらを体系的に定められているものであるからだ。よって、人の迷惑顧みず、身勝手で独り善がりな人は、法を犯す確率は高いと言える。

 逆に、コンプライアンスをしっかり頭に入れて、「周囲の人たちに迷惑をかけない」を肝に銘じて生活をしている配慮ある人々や企業は、法を犯す確率が断然低いことになる。当然である。

 「法の不知」という言葉をよく耳にするが、「法の不知」とは、例えば、商取引において民法や商法を知らぬ存ぜぬと言って逃げる。また、暴力で殺傷したり、精神的に追い詰めたり、平穏に暮らす人の自由などの権利を奪ってしまう蛮行を処罰されようが、知らぬ存ぜぬと言い張る人がいる。それが、「法の不知」の典型的なものである。

 「モラル基準」が低い人は、「法の不知」により法に抵触しているという意識もなく、周囲に迷惑を掛けていることさえ自覚はない。だから、違法行為として処罰される。皆が「六法全書」を読破する訳でもなく、「法の不知」の人が多い中でも、「モラル基準」さえ高ければ、法に抵触する可能性はすこぶる低くなるはずだ。

 公共の場で絶叫し暴れまくる。ランチの器に死んだ蠅を入れて難癖つける。レジで待つ時に前に並ぶ人をどつく。満員電車内で猥褻行為をする。SNS上でフェイクを流し世の中を混乱させる。個人情報を無闇矢鱈に吹聴し、他人の家に嫌がらせの貼り紙をするなど、全て周囲に迷惑をかけている。だから、逮捕され身を拘束される。

 従って、上述のような事件が発生し、法に裁かれ処分されるのは誰しも理解できるはずだ。しかし、逮捕され収監された犯罪者で否認する人は、予想以上に多い。それは「モラル基準」どころか、モラルという概念さえ頭にない訳で、無法者という烙印を押されてしまうのがオチとなる。

 映画の西部劇やテレビドラマ水戸黄門には、必ずと言って良いほど、人相が悪い無法者が登場する。しかし、正義の味方よりも、無法者の蛮行を見て「共感連鎖」して犯罪に手を染める人もいる。理解に苦しむが、「連鎖」は現実に起こっており、すこぶる危険な兆候でもある。

 日本という国は面白いもので、酒が入れば「無礼講」が通用すると勘違いする人も多い。それは拡大解釈というか、都合良すぎる解釈である。自己コントロールができない大馬鹿者としか言いようがなく、酔っ払いが悪さをしても、ある程度は目を瞑るという世の中は、逆立ちしても腑に落ちぬ。酒という「魔の液体」に責任転嫁し、自らを正当化するなど本末転倒としか言いようがない。

 何はともあれ、「人に迷惑をかけない」が一番である。そして、万が一、「人に迷惑をかけた」ならば、猛省し、誠意を持って迷惑をかけてしまった方々へ深謝すべきが人としての道ではなかろうか。

 筆者の口癖だが、「謝罪は誠意の第一歩」と考える次第。


▼ChatGPTによる評価
このエッセイは、モラルと法についての関連性に焦点を当てており、モラル基準の低さが法を犯す可能性を高めるという主張を提起しています。以下はエッセイの評価ポイントです。

  1. 議論の明確さ:

    • エッセイの主題と論点は明確であり、読者は筆者の主張を容易に理解できます。法とモラルの関係についての論点が整然と提示されています。

  2. 具体例の使用:

    • 複数の具体的な例が挙げられ、モラル基準の低い行動が法に抵触する可能性を説明しています。これらの例は読者に主張を裏付ける役割を果たします。

  3. 倫理的な視点:

    • エッセイは法的な規則と倫理的な価値観との関係について深く探求しています。謝罪と誠意を重要視し、他人に迷惑をかけた場合の対処法に言及しています。

  4. 論理的な展開:

    • 著者の主張は論理的に展開されており、読者に説得力を持って伝えています。法とモラルの相互関係についての議論は整然としています。

  5. 問題提起:

    • エッセイは「連鎖」現象に言及し、無法者の行動が他人に影響を及ぼす可能性に焦点を当てています。このような問題提起は読者に考えさせます。

このエッセイは、法とモラルの関連性について深く考える上で興味深い議論を提供しています。法に従うだけでなく、モラル基準を高めることの重要性について考える機会を提供しています。


落日

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