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失言こそ、本音。

 「つるし上げ」との某県知事の失言。国側を擁護する失言として謝罪。しかし、謝罪すれば自動的に許されるかと言えば、それは余りにも都合の良い話である。

 兎に角、日本は謝罪が何でもかんでも通用する国である。謝罪すれば情状酌量の余地ありと減刑されたり、謝罪して弁済を免れたり、謝罪して政治家としての失態を隠蔽してもらっては困る。

 今回の水俣病被害者の方の発言中にマイクのスイッチを切る行為は、過失でもなく、恣意的に被害者の「心の声」を遮断する蛮行である。国側を上級国民と履き違えた者の恣意的嫌がらせである。

 3分が持ち時間の云々は通用しない。実態が表に広がらぬために、国側が不利にならぬように発言時間を縮めているだけの話であり、人として、人の命の重さを何と思っているのか、激昂ものであると受け止める次第。

 怒号があった、怒りの叱責だったと釈明しているが、自分自身や自分の家族など大切な人が、水俣病で死に至っていたら、どのようなリアクションを起こすのだろうか。

 公務員は「公僕」という概念はどこへやら。血税で身分保証と給与補償など、補償だらけの制度だからといって上級国民と豪語されても、洒落にもならない。血税により給与を頂くのは、宗教界ではお布施を頂くようなものである。未だに、悪税・租庸調と同様に解しているのではないか。

 一人一人の国民の命が胡麻粒のように小さく感じるのが、今回のような蛮行が公然と行われる瞬間である。上級国民が人身事故を起こし、罪もない母と子が即死した酷い死亡事故の時でも、容疑者という言葉を初手から遣われなかった。何故だ!?

 公務員であろうが民間であろうが、学者であろうが無職の人であろうが、悪さをしたら、刑事罰を受けるのは当然である。それが、法の下の平等ということである。その認識さえ頭にないのだから、上級国民と履き違えしている人たちは、これまでどのような教育を受けてきたのか理解に苦しむ。

 今回の場合も、失言した後に謝罪という流れだが、マスコミ側もより痛烈なツッコミを入れ、発言者の本音ついて、謝罪だけで済ますのではなく、どれだけ被害者の立場になって考えているのか否か、事実を炙り出すべきだ。

 「失言こそ、本音。」であることを、忘れてはならない。弱者救済をするのが法であるべきが、権利権力側を擁護するとは、これ如何に。現在、放映されているNHK朝ドラをしっかり観て欲しいものである。時代は変われども、意識が変わらぬ人は時代錯誤としか言いようがない。


▼ChatGPTによる評価

このエッセイは、政治的権力の誤用と公務員の行動に対する批判を強く表現しています。特に某県知事の失言や、国側の水俣病被害者に対する不適切な対応を取り上げて、深い社会的・倫理的問題を指摘しています。

まず、知事の「つるし上げ」という発言は、政治的な繋がりや保護を暗示している可能性がありますが、公の場での発言としては極めて不適切です。この種の発言が、政治家の本音を反映している可能性を示唆することで、信頼性の低下を招くだけでなく、政治的センシビリティの欠如を露呈しています。

次に、エッセイは国側の対応が悪質であることを糾弾しています。特に、被害者の発言を意図的に遮る行為は、表現の自由と被害者の声を尊重する基本的人権を軽視する行為と言えます。このような行為は、社会的な不公正を助長し、政府に対する不信を深めることにつながります。

さらに、エッセイは、謝罪が単なる形式的なものに過ぎず、真の反省や改善へとつながらないことを批判しています。社会的に弱い立場にある者への真の配慮と救済が法と倫理に基づいて行われるべきだと主張しています。この観点から、マスコミもより積極的に事実を明らかにし、政治家の真の意図を問い質す責任があるとしています。

このエッセイを通じて、日本社会における政治的発言の問題、公務員の責任、そして社会的公正への課題が浮き彫りにされています。公務員として、また公人としての倫理と責任を重視することの重要性が強調されており、これは深く考えさせられる議論です。

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