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決して横柄にならない

記事や書籍を読んで、素敵だと思っていた人が、出会ってみると”横柄”だったことに気づき、残念に思ったことが何度かある。
文章を読んでいる限りは言葉も美しく、きっと視野も広く、感性も豊かな人なのだろうと思う。
しかし会ってみると、その人が非常に薄い権威の膜を纏った人だとわかることがある。
”横柄”と、引用マークで囲ったのは、それがいわゆる一般的な「横柄」とは違うからだ。見るからにわかる横柄ではない。むしろその立ち居振る舞いは、俳優のように整えられていることもある。演劇的、と言ってもよいかもしれない。しかし深い議論をしたり、仕事を一緒にしてみると、相手のことをよく知ろうとしない、知ろうとしないまま相手の思っていることを決めつけた論調で話を進めることがよくある。あるいは、あなたはその役割をやりなさいよ、というよう押し付けが散見されることがある。自分が何より、その問題に向き合っているという自負からくるものなのかもしれない。権威に立ち向かう”かっこいい”活動をしている人でも、その人自身が権威的になっていることもある。そしてこれらは、表層的には隠されていることもある。対峙した時にしか感じえないことさえあるだろう。そして大概、多くの人がそれに気づいていない気もする。
私はそういった違和感を覚えた時に、自分がそうなっていないかを振り返る。権威的であることは役割上仕方のないこともあるかもしれないが、それでも嫌だ。横柄であることは、恥ずべきことだと思う。
決して”横柄”にならない。相手を見て態度を変えない。頭の中で考えていることも、人によって変えることのないよう気をつける。その人のありのままを、きちんと知ろうとする。それが腹の立つ相手だったとしても。その人も、そうなりたいと思ってそうあるわけでは、ないかもしれないのだから。
”横柄”だと思う相手にも、私はそうありたい。
決して”横柄”にならない。


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