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良い社会とは、真面目に生きている人が報われる社会なのか

そう書き始めて、真面目に生きることが善である、という前提に立っていることに自らまた考えを改め、唸る時間が必要になる。真面目に生きなくてもよいじゃないか、真面目になれない人、努力できない人もいるじゃないか、という言葉が自分の中から湧き上がる。

しかし真面目に実直に生きている、努力している、あるいは何かに向けて打ち込んでいる姿というのは単純に美しく、心を奪われるというのが私の素直な気持ちである。「本来それをやりたくないのにやっている」状況ではなく、心のまま、生きるということに一生懸命なままに打ち込んでいる姿を見れば、単純にそのために生まれ、生きているのではないかと思わさせられる。

何を言っているかよくわからないかもしれないが、私は常々良い社会とは何か、と考えながら仕事や活動に向き合っている。よりよい社会を作るために働いている、しかしよりよい社会とは一体だれにとってのどんな社会なのだろうか?結局自分のためなのではないだろうか?

今日の問いに対する仮説「真面目に生きている人が報われる社会」は、先日あった友人たちとの議論から生まれている。そこでは

「がめつい人、ずる賢いような人にばかり助成金が行き渡るような世の中はおかしい」

という話があった。新型コロナウイルスの感染拡大で、芸術文化関係者の活動が縮小され、行政等からいくつかの助成金が出されたが、実力等だけではなく、うまく書類を書く能力やそのリソースがあるところに偏って出されてしまっているという感覚がある、ということである(ちなみに友人というのは、審査等にも関わってきたことのある人々である)。

確かに単純に聞いただけではおかしい。実直に頑張っている人によりきちんと助成金、活動費が回る世界になっていてほしいと思う。真面目に、実直に、ずる賢さを働かせずに生きている人が報われる社会になってほしい。

がしかし、きちんと書類を書けることや、ファンドレイズがうまいことは団体としての競争力であり、非難されることではないというのも事実である。資本主義の世の中で、真面目に生きていれば報われるというのは真面目の定義にもよるが、ナイーブだとも言われかねない。そもそも芸術文化系の組織や個人は一般的に運営能力やガバナンス面が弱く、そういった面は強化されるべきだと議論されることも多い。

結局真面目に、実直に、と願うのは私の価値観に基づいているのである。私はそう思うけれど、そう思わない人もいる。そしてどちらが正しいということもなく、どちらが多ければそちらが優位だということもない。ただ私はそう信じるから、そう思って自分の時間を刻一刻と削っている。同時にそうでない人もいる。結局どちらがどれだけ強く思ってそれぞれが生きているかだと思うし、それが色々な人のことをどれだけ思っているか、多くの人につながっていくかなのだと思う。そして、自分の持つ価値観とは違うものをどれだけ受け止め、考えを深められるかなのだと思う。

私は現状、真面目に生きている人が報われる社会は、良い社会だとは思うけれど、それだけでもないとも思う。それでもより多くの人がより前向きに生きられるように、自身の考えもアップデートし続けていきたいと思う。


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