記事に「#ネタバレ」タグがついています
記事の中で映画、ゲーム、漫画などのネタバレが含まれているかもしれません。気になるかたは注意してお読みください。
見出し画像

映画「ほんとうのピノッキオ」感想

 一言で、清い心を持つピノッキオと、貧困・障がい・児童労働・少年愛など歪んだ社会の対比が凄いです。ストーリーは大人向けで、メルヘンチックでホラー要素の強い世界観は、一度見たら忘れられません。

 「ピノッキオの冒険」は、1883年(19世紀後半)にイタリアで出版されたカルロ・コッローディ著作の児童文学で、約240の言語に翻訳されたベストセラーです。また、何度もアニメ化・実写化されており、1940年のディズニー・アニメーション版が、広く親しまれています。また実写版では、ロベルト・ベニーニ氏が2002年版でピノッキオ役を、本作でピノッキオの「生みの親」となるジェペット爺さん役を演じています。
 本作は、カンヌ国際映画祭では常連のマッテオ・ガローネ氏が監督を務め、美術・風刺・教訓などをふんだんに盛り込んで、イタリア映画「ピノッキオ」の独特で稀有な世界観を創り上げています。実際、2021年の米国アカデミー賞では、2部門(衣装デザイン賞とメイクアップ&スタイリング賞)にノミネートされています。また、本国イタリアや英国でもアカデミー賞に複数部門ノミネートされるなど、各国から高評価を受けています。

※ここからはネタバレなので、未視聴の方は閲覧注意です。
 貧しい木工職人のジェペット爺さんは、ある日「不思議な一本の丸太」を発見します。それで男の子の人形を創ったところ、何と突然その人形が「パパ」と喋り、まるで命を吹き込まれたかのように動き出したのです。ジェペット爺さんは彼に「ピノッキオ」という名前をつけますが、彼は手がつけられないほどやんちゃで、あっという間にジェペット爺さんのもとを飛び出してしまいます。その道中、心優しい妖精やおしゃべりコオロギが度々「忠告」をしますが、ピノッキオは全く耳を貸しません。人形劇一座の怖い親方やペテン師の「ネコとキツネ」に騙されたり、「プレジャー・アイランド」でロバにされたり、鮫に飲み込まれたり、幾度となく危ない目に遭います。果たして、ピノッキオはジェペット爺さんと再会できるのでしょうか…?
 ちなみに、ディズニー版とはストーリーの大筋は同じですが、細かい箇所に違いがあります。※ここは、後述します。

1. ピノッキオがとても可愛く、「清らかな」存在。

 まず、本作の主人公ピノッキオがとても可愛かったです。彼はやんちゃ坊主ですが、根は悪くないので、何か憎めない子でした。あれやこれやでジェペット爺さんの手を煩わせますが、彼のことは好きなのです。勿論、ジェペット爺さんも、ピノッキオには息子として強い愛情を注いでいます。よって、作中から、お互いが強い愛情を向けているのがしっかり伝わってきました。
 次に、ピノッキオは、良く言えば「純粋で何にも染まらない清らかな存在」、悪く言えば「世間知らず」なため、何度か騙されて、嵌められて、珍道中になります。それでも、失敗を繰り返しながら学ぶ姿には、人間の子供が成長していくようでした。ちなみに、あの有名な「嘘をつくと鼻が伸びる」シーンもありました。結構アッサリと伸びていくので、かなりシュールでした(笑)
 ちなみに、ピノッキオ役は、フェデリコ・エラピという11歳の子役が演じています。ピノッキオの木の質感は、毎日4時間に及ぶ特殊メイクで表現されたようです。メイクも撮影も大変だったと思いますが、本役を演じ切った役者魂には感服しました。※ちなみに、本作では、役者の容姿は特殊メイクで作られており、CGはそこまで使用していないそうです。
 しかし、人形なのに人間らしさが妙にリアルなので、一種の「不気味の谷」現象を感じました。私はすぐに慣れましたが、観る人によっては、終始気味悪く感じるかもしれません。ここは、ピクサーの「トイストーリー4」のギャビー・ギャビーとベンソンなどのアンティーク人形や、細田守監督の「竜とそばかすの姫」のベルのようなインターネットアバターと似ているように感じます。
 それにしても、イタリアの少年の可愛さにはやられますね。イタリアの少年が主役の作品には、ピクサーの「あの夏のルカ」のルカとアルベルトや、世界名作劇場の「母を訪ねて三千里」のマルコ・ロッシがいますが、本作のピノッキオも、彼らに引けを取らない可愛さでした。

2. 世界観がメルヘンでホラー、同時にある種の「歪み」を感じる。

 本作のストーリーは原作寄りで、ディズニー版と比較すると、風刺や皮肉、教訓のパンチが強い作風となっています。また、元々ミニシアター向きの映画のせいか、とにかく「癖が強い」です。ダークファンタジーな要素や、ブラックユーモアが随所に散りばめられているので、結構好みが分かれそうです。予告編やCMでは「大人向け」と宣伝されていますが、そこまで直接的な残虐描写は無いので、子供が見ても楽しめると思います。※ただ、所々に「人間の闇を感じる」場面が挿入されるので、それがお子さんにどう伝わるか、また親御さんがそれに対してどうお子さんに説明できるかは重要だと思います。

 前述した通り、本作では役者の特殊メイクが物凄く印象に残ります。例えるなら、「仮面ライダー」・「バグズ・ライフ」・「キャッツ」・「猿の惑星」・「シーマン」・「シルバニアファミリー」が混ざり合った「カオスで混ぜるな危険」状態です。ピノッキオが道中で会う生き物(敢えて「人間」とは言わない)は、良く言えば「個性的」、悪く言えば「魑魅魍魎」でした。おしゃべりコオロギ・色白の妖精・カタツムリの殻を背負った女・ウサギのような死神・鳥の医者コンビ・猿の裁判官・大きな鮫・人面マグロなど、どれもこれもインパクトが大きすぎて、忘れられないキャラばかりでした。

 また、役者や演じた役にも大きな特徴がありました。本作では、おしゃべりコオロギと人形劇の人形役・サーカス団のクラウンには小人症の役者を起用しています。そして、ピノッキオが序盤で出会う悪党コンビ、「キツネどんとネコどん」には、脚の障がいと盲目の設定があります。これらは、この時代における「貧困と障がいの社会的背景」を表現していると思います。この辺りは、映画「フリークス」との類似性があります。正直、現代作品に多く見られる「ポリコレ」感はありますが、本作については、時代背景や作品観にマッチしていたので、そこまで違和感は無かったです。

 そして、「法や人権・子供(少年)への目線に対する『歪み』」もひしひしと感じました。
前者について、人形劇一座の親方から貰った金貨をキツネどんとネコどんに盗まれたピノッキオは、彼らを訴えようと裁判所へ行きますが、そこで待っていたのは倫理観がメチャクチャな「猿」の裁判官でした。裁判官は、「この世界は、無罪は牢獄、有罪は釈放」と言って、ピノッキオは危うく投獄されそうになります。彼はとっさに「嘘」をついてその場を切り抜けますが、ここには「法整備があるようでない、無秩序な世界」が表現されていました。「騙される奴が悪い」から、「キツネどんやネコどんが『法』で裁かれることはない」、結局「倫理観や正しさは時代背景や個人の主観で幾らでも変容する」ことを伝えています。
 後者については、「プレジャー・アイランド」の主人から感じました。ピノッキオは学校の友人を誕生日パーティーに誘いますが、友人は「もっと楽しい場所がある」と言い、二人は、夜中に来た馬車で、「プレジャー・アイランド」へ向かいます。その馬車の御者はおじさんで、荷台には何故か沢山の少年が乗っていました。この場面は、まるで「ハーメルンの笛吹き」のようで、一種の「神隠し」にも見えました。「プレジャー・アイランド」はピーター・パンの「ネバーランド」のような場所で、一日中遊んでいて良い、勉強や労働を一切しなくていい世界でした。しかし、翌日彼らは主人から「ロバになる魔法」をかけられてしまい、その後はロバとして一生を過ごすことになってしまいます。
 そう、この「プレジャー・アイランド」は、正に「大人がいない(大人になれない)世界」でした。これは、この時代における「人身売買の暗喩」ではないかと思います。そして、「少年しかいない理由」ですが、これは「主人(おじさん)の性癖=少年に対する歪んだ『目線』」ではないか?と考えました。※下品な話すみません。

 さらに、本作には「動物に対する労働・虐待」も描かれます。※「直接的な描写」はありませんし、動物は死にません。ロバになったピノッキオはサーカス団に売られて酷使されますが、ある日足を骨折して使い物にならなくなります。サーカス団の主人は彼を海に捨てようとしました。彼に錘をつけて沈めたシーンは、今なら動物虐待です。しかし、この当時の倫理観としては「おかしなことではない」のです。尚、「魚の魔法」によってピノッキオはロバから元の人形に戻りますので、ご安心ください。

3. 「人間になること」のメリットって何?

 本作では、「人間になりたかったら、良いことをしなさい」というテーマがあります。
しかし、本作を観ると、正直ピノッキオは「木の人形だから、助かっている」場面は多いのです。(首を吊られても死なない。鞭で叩かれても痛みを感じない。海に落ちても溺死しない、など。※尚、「首吊り描写」は、原作から取っていますが、人形だしフィクションとはわかっていても、さすがにキツかったです。)
 それなら、「人間になることのメリットって何だろう?」と考えてみました。人形と人間の違いといえば、「物理的劣化」と「経年劣化」の違いでしょうか?※「劣化」という言葉を使いましたが、決して「老いることが劣化」というネガティブな意味ではないです。
 まず人形は、物理的に破壊されなければ「永遠の命」を得られます。(言い換えれば、「物理的劣化」が進行すれば、いずれ「死」を迎えます。) そして、大体の人形は常に「人間の『所有物』」として存在しています。しかし、持ち主の人間は必ず寿命を迎えます。また、彼らの所有者が変わることはザラです。そのため、彼らには常に「もし所有者と離れてしまったら生きられない」という不安が付き纏うのかもしれません。
 一方で、人間は生まれてから死ぬまで、どんどん容姿が変わります。つまり、「経年劣化」が自動的に起こり、最終的には死にます。しかし、人間は、「誰かの『所有物』」ではなく、何者にも縛られない存在です。自分で付き合う人間関係や過ごす環境を、自分自身で選ぶことができます。
 尚、これらの人形としての「幸せ」や「闇」については、「トイ・ストーリー」シリーズと被るかなと思いました。
 ※ちなみに、「人間になりたかったら、良いことをしなさい」と言っているのは妖精さんですが、人間から申すと、「いやいや、人間ってそんなに善い存在でもないよ(笑)」と突っ込みたくはなります。

4. なぜ「学校に行くこと」が良い事とされているの?

 本作では、ジェペット爺さんも、妖精さんも、「子供は学校へ行くことが大事」と伝えています。これは何故なのか、考えてみました。
 勉強は「世間を知る」一つの手段、また「各々の人生の道標を見つける手段」ではないかと思います。また、「学問に王道はなし」、日々の積み重ねが大事ということも感じます。実際、人生において「道標」がないと、人間は「悪い方向」へ走りがちです。※物語中盤でロバにされた少年達のように、「ただ好きなことをして遊んでいる」だけでは、人間は成長しません。つまり、子供達にとっては、その「人生の道標」を知る手段が、勉強なのでしょう。勿論、この「道標」は人それぞれ違いますよ。

 ちなみに、作中で妖精さんは、少女から大人の女性へ「成長」しています。そして、ピノッキオに「勉強しなさい」と諭します。もしかすると、彼女はピノッキオにとって「母親的存在」なのかもしれません。それにしてもなぜ彼女は「成長」したのか?その理由は詳しくは明かされていませんが、「地上に長くいるうちに、世の中の厳しさ・暗さを知ってしまった。そのため良くも悪くも少女のままではいられず、『大人』になってしまった」のかなと思います。

5. 本作に込められた「教訓」とは何か?

 本作では、ピノッキオが「自ら選択した」結果としてトラブルに嵌り、そこから抜け出す過程が描かれます。一方でディズニー版では、飽くまでピノッキオは「偶然」出会った人形劇一座の怖い親方、キツネとネコ、大きな鯨のような「悪者」によって、良くも悪くも転がされる「勧善懲悪」の物語へ書き換えられています。
 では、本作における「教訓」とは何でしょうか?一つ目は、親に対する教訓です。「世の中には誘惑がいっぱい。だから、親は子供が道を外さないように、よく見てあげて」ということです。
 二つ目は、「ローマは一日にして成らず」です。仕事も勉強も、日々の積み重ねが大事だと言うことです。作中で登場した「金貨の木」を期待してはいけないですね(笑)それでも、宝くじやカジノでは一攫千金を夢見てしまうものですが(笑)
 三つ目は、「等価交換」です。ピノッキオは終盤で牧場に辿り着き、牧場主に金貨が欲しい旨を伝えます。そこで牧場主は、「労働で稼ぐこと」を提案します。そこで初めて、ピノッキオは「働くことでお金を稼ぐ」ことを学ぶのです。そして、彼は、「何かを得るには、何を差し出す=金を得るためには、対価として労働力を差し出す」ことを理解しました。
 四つ目は、「失敗は成功のもと(母)」です。本作では、おしゃべりコオロギと妖精さん一味は、「忠告」はするけど、ピノッキオを直接「助ける」ことはしません。これは、「人間は失敗して成長する。痛みのない教訓には意味がない。」ことを示しているのではないでしょうか。※ディズニー版だと、コオロギ(ジミニー・クリケット)はピノッキオにとっては「後見役で指南役」、ピンチの時には助ける存在になっており、本作と比較すると「保護者的要素」が強くなっています。ちなみに、本作ではコオロギは歌いません。

6. 多少の「ご都合主義」はあるが、そこは許容範囲。「理屈で観る」作品ではない。

 本作は児童文学・童話がベースなので、多少の「ご都合主義」はありますが、そこは「許容範囲」ではないかと思います。少なくとも、「理屈で観る作品」ではないですね。例:「なぜ出会うキャラ達がピノッキオをアッサリ受け入れているのか?」、「どうしてキャラが急に心変わりしたのか?」、「ピノッキオって、そこまでして人間になりたかったっけ?」とか、細かい疑問や突っ込みは尽きませんが。

 それにしても、「真っ直ぐなピノッキオと、歪んだ世界の対比」の構図は大変面白く、歪んだ世界に存在する清いピノッキオの存在が「輝いて」いました。
 しかし、ピノッキオが人間になり、成人したらどうなるんだろう?「清い心」は残っているのかな?という点は気になります。そして、ピノッキオが人間として成長したら、クリケットや妖精一味、マグロ達にまた会うことはできるのか?も考えてしまいます。何となく、彼らは「となりのトトロ」のように、「子供のときにだけ会える不思議な存在かな?」とも感じました。

出典: 「ほんとうのピノッキオ」パンフレット

この記事が参加している募集

#映画感想文

67,269件