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映画「沈黙のレジスタンス〜ユダヤ孤児を救った芸術家」感想

 一言で、民族を迫害する人間の恐ろしさや愚かさに翻弄されながらも、芸術を通して子供達を救い、未来への希望を見出そうともがく青年達のヒューマンドラマです。衝撃的な内容で、観賞後もずっと頭から離れませんでした。

※ここからはネタバレを含みますので、鑑賞していない方は閲覧注意です。
 冒頭1938年ドイツのミュンヘン、あるユダヤ人家族が夕食前に祈りを捧げています。この頃は既にナチスドイツによるユダヤ人迫害の真っ只中で、彼らはナチ党の軍人に見つからないよう、ひっそりと暮らしていました。しかし突然、外で轟音が鳴り響き、家族はナチ党の兵士の襲撃を受けます。両親はあっという間に捕まり、外で暴行を受けて亡くなってしまいました。娘のエルスベート(演: ベラ・ラムジー)は物陰に隠れていたので兵士達には見つからなかったものの、ずっとその様子を泣きながら見ていました。
 場面が変わり、フランスのストラスブールというドイツの国境近くの町にて、主人公マルセル(演: ジェシー・アイゼンバーグ)は、小さなキャバレーのステージでチャップリンのパントマイムを披露しています。彼は、昼間は父シャルル(演: カール・マルコヴィクス)の営む精肉店で働き、夜は役者の修行を積んでいましたが、父は彼が役者になることには反対していました。そんな中、ドイツとフランスの国境に架けられた橋が封鎖されるという話が町中に広がります。マルセルの兄アラン(演: フェリックス・モアティ)は、従兄弟のジョルジュ(演: ゲーザ・ルーザク) 、マルセルが想いを寄せるエマ(演: クレマンス・ポエジー)、彼女の妹のミラ(演: ヴィカ・ケレケシュ)は、ナチスに親を殺された123人のユダヤ人の子供達を保護しようと奔走していました。その手助けを頼まれたマルセルは、初めは子供が苦手で仕事も忙しいと嫌がりますが、ドイツから国境を越えてやって来た子供達の深い悲しみに沈んだ瞳を見て心を変えます。避難所にて彼がパントマイムを始めると、彼らは少しずつ瞳に輝きを取り戻し、笑顔が溢れます。中でも、歌が得意なエルスベートは、マルセルとエマを心から慕い、彼らの想いにも気づいていました。しかし、ヒトラーの権力はますます巨大化し、避難所にも魔の手が追って来ていました。フランス政府から疎開を命じられたマルセル達は、子供達を連れて南部へ出発しますが、そこからは沢山の困難が待ち受けるのでした。

 本作品にて、私が感じたことは3点あります。1つ目は「民族を迫害する人間の恐ろしさや愚かさ」、2つ目は「芸術と人との繋がりの尊さ」、3つ目は「作中の人物像のリアリティの高さ」です。

1. 民族を迫害する人間の恐ろしさや愚かさ

 冒頭で述べたように、本作品では、ユダヤ人がドイツのナチ党に迫害される様子が克明に描かれています。このテーマを扱った作品としては、「シンドラーのリスト」(※スティーブン・スピルバーグ監督はユダヤ系アメリカ人)・「戦場のピアニスト」・「夜と霧」・「アンネの日記」・「ハンナのかばん」などがあります。日本人では、リトアニアの日本総領事館に赴任していた杉原千畝氏が政府からの訓令に反してユダヤ人にビザを発行し、多くの命を救っています。また、作中でも触れられていた精神医学研究者のフロイトも、ユダヤ系オーストリア人です。
 ちなみに、芸術がテーマなことと、アルプス山脈越えでスイスに亡命するシーンでは、ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」を彷彿とさせました。※しかし、この作品はオーストリア軍人のトラップ大佐の一家が、ドイツの軍人として徴用されることを避けるために家族と共にスイスへ亡命する話であり、ユダヤ人の話ではありません。ミュージカルには敢えて悲惨な現状は描かれていないので、ミュージカルのバイアスがかかった状態で観ると、見事に史実を「読み違え」ます。勿論、「サウンド・オブ・ミュージック」はとても好きな作品なので、作品に対する批判ではないです。

 全編を通じて、ホラーやスリラー映画を観ているような背筋がゾクゾクして凍り付くような怖さがありました。また、作中の出来事は時系列や地図で説明されているので、時間感覚や距離感がわかりやすかったです。一方で、正直、レイティング「G」指定に驚きました。これは飽くまでも迫害や虐殺に対する「直接的な」描写が無く、敢えて「間接的」に描いているからだとは思いますが、それでも火だるまになるナチス兵や銃殺シーン、「皮剥」を仄かして悲鳴が上がるシーンがあったので、人によっては鑑賞に注意が必要かもしれません。

 そもそも、なぜユダヤ人はここまで迫害されてしまったのか?これは、冒頭のエルスベートと両親の会話にその答えがあると思います。エルスベートは両親にこう問いましたー「なぜ私達ユダヤ人は憎まれるの?」。すると、父はこう言いました。「お互いが信じている対象(おそらくユダヤ教のヤハウェとキリスト教のイエス・キリストのこと)を理解できないとき、人間は相手に恐れを抱く。ドイツではユダヤ人のせいで失業率が上がったと言われているが、それは、先の戦争(第一次世界大戦)で、ドイツが負けたからだ。でも、その失敗を誰かのせいにしてはいけない。私達ができることは未来へ目を向けることだ。」

 歴史を振り返ると、ユダヤ人に対する差別は、中世以来から続いており、それは宗教と偏見によるものでした。キリスト教の神であるイエス・キリストの存在を認めないユダヤ人は、信仰の違いから忌み嫌われました。また、ユダヤ人は、土地を所有したり、職人の組合(ギルド)に加入したりすることを許されなかったので、キリスト教徒が忌み嫌う「金貸し」の仕事をユダヤ人が担うようになり、「金の亡者」などという偏見が生まれました。
 十八世紀末、フランス革命によって、ユダヤ人にも平等な市民権が与えられました。しかし、ユダヤ人のキリスト教社会への同化が進むと、新しい差別が生まれます。それは、ユダヤ人を「劣った人種」とみなすものでした。ユダヤ人がヨーロッパ社会に同化すれば「優れた人種」であるアーリア人の血が汚される、という極端にゆがんだ思想でした。このようにしてヨーロッパに深く根ざしていた反ユダヤ主義を、ヒトラーは政治的に利用しました。
(NPO法人ホロコースト教育資料センター〜「なぜ、ホロコーストは起きたのか」より)

作中では、結構リフレインな表現が多かったです。以下を例に挙げます。
「避難訓練で、マルセルがリスの真似をして木の上で敵をやり過ごすことを提案する」⇔「アルプス山脈越えで、皆が木の上で兵士の追跡をやり過ごす」
※最初に見たときは「日本の戦時中における竹槍やバケツリレー」を思い出しましたが、これはマルセルの「子供に武器は持たせない、殺しをさせてはいけない」信念によるものだったのかなと思います。

「マルセルと子供達が避難所から疎開する時に新年祭(ロシュ・ハシャナ)の角笛(ショファール)が鳴る」、童話「ハーメルンの笛吹き」か?⇔「アルプス山脈越えでマルセルと子供達が列を為して逃亡する」

「マルセルがパントマイムで『点火』の演技をする」⇔「アランがナチ党に連行されそうになったとき、マルセルが酒で引火させ、兵士に『放火』する」

「ユダヤ人の子供達がキリスト教の讃美歌『アヴェ・マリア』を合唱する」⇔「処刑場で逮捕されたユダヤ人・政治犯・障害者・性的少数者らが銃殺される」⇔「列車の中でナチ党のクラウス・バルビー親衛隊中尉の前で子供達がアヴェ・マリアを合唱する」
※他にもあると思いますので、気になる方は鑑賞してみると良いかと思います。

 私がとても辛いと感じたシーンは、マルセルとエルスベートが出国のパスポートの名前を「改名」するシーンと、ユダヤ人の子供達がキリスト教の讃美歌『アヴェ・マリア』を合唱するシーン、ゲシュタポの協力者となってしまったエマが列車に身を投げようとするシーンです。名前も宗教もその人のアイデンティティを表すものなのに、それが踏み躙られ、隠し通さなくてはならないことには恐ろしさと怒りを感じました。
 ミラが死んだことでナチスに復讐を誓おうとするエマに、マルセルはこう伝えます。「復讐ではなく、生きることが亡くなった人たちが喜ぶことだ」と。現代でも、「理不尽な出来事」は毎日のように起きていますし、その度に私達は(たとえ当事者でなくても)悲しみや怒りを感じることは多いです。しかし、「その人や出来事を責めるのではなく、(勿論それ自体は悪いと断罪する気持ちは大事) 次それを起こさないためにどうしたら良いのか、それはすぐに叶わなくても一歩ずつ前に進むことが大事だ、例えそれが『綺麗事』と捉えられても」という所は、私達にも伝わるテーマだと思います。
※何となく、「進撃の巨人」のハンジさんの最期の発言を思い出しました。「わかるよ、でもあきらめられないんだ。今日がダメでもいつの日か…って。」

 また、バルビーは全編を通して、ナチスドイツの「悪役」として描かれていますが、彼は最後まで「自分の正義を信じて疑わない」存在でした。
 例えば、アルプス山脈へ向かう列車の中で、バルビーがマルセルに問います。バルビー「彼女(エルスベート)は良い歌声をしている。私には娘がいるが、『優秀な』人間に育てるにはどうしたら良いか?」マルセル「強制や無理強いはいけません。」
 また、バルビーの妻がバルビーにこう言います。妻「貴方は聖職者を拷問しているけど、それを娘が知ったらどうするのか?真実よりも権威が大事なのか?」バルビー「私は全ての子供達に『誇り高く美しい民族』になることを望んでいる。これのどこが間違っているのか?」と恫喝します。これって凄い大きな「ブーメラン」ですね。
 まさに、本当に怖いのは、「価値観や倫理観が『おかしい』にも関わらず、それが『正しい』ものとして伝わってしまう」こと、それに「気がつかない」ことなんだと身に染みてわかりました。「おかしい」ことを「おかしい」と思って良いし、それを言える世の中であることは幸せなんだと心から思いました。

 ちなみに、レジスタンス組織の人物には、アフリカ系のメンバーがいました。
フランスはアフリカで多くの植民地を所有しており、アフリカ系の奴隷や移民の子孫がフランスに在住していました。彼らも、また差別や迫害と戦っていたのです。ユダヤ人とはバックグラウンドが違えど、同じような抑圧された思いに共鳴したメンバーもいたのでしょう。

2. 芸術と人との繋がりの尊さ

 本作品では、パントマイムを通じて、マルセルと子供達が絆を深めていく様子が克明に描かれています。マルセルはチャップリンのような役者を目指し、彼の芸に傾倒します。父親に役者の仕事を反対されたときも、「僕が芸術をやることは、トイレに行くことと同じだ」と言い、芸術で身を固めていく決意を表明しました。
 チャップリンの「独裁者」は、ファシズムが台頭する世情に「芸」として抗うものでした。それと、マルセルがレジスタンス組織の一員としてパントマイムという芸術で子供達を楽しませ、救おうとする姿勢には類似性を感じました。芸術は困難な時代であっても、人々を楽しませ、希望になる存在です。尚、無声映画はやがてトーキー(発声映画)にとって代わられますが、パントマイムは敢えて「無声」表現を貫くことで、一つの芸術に発展します。

 最終場面、マルセルは自由フランス軍との連絡将校になり、ジョージ・S・パットン将軍率いるアメリカ第三軍の通訳になります。軍の決起集会で、彼は顔を白塗りにしてパントマイムを演じます。射撃や心臓マッサージの演技は、正に彼が体験した出来事を再現するものでした。パントマイムは無声表現だからこそ、国籍・人種・性別・宗教・思想の在り方は関係なく「平等」だという彼の想いが伝わって来ました。
※ここでも、「鋼の錬金術師」 マイルズ少佐→スカーへの言葉「歴史ある宗教や文化を死なせてはならん。文化の死は民族の死だ。お前の手で民族を死から救え。」を思い出しました。

 この「無声」の表現は、芸術作品においてはとても難しいものらしく、あの宮崎駿監督もアニメでこれを表現することが一番大変だったと仰っていました。例えば、「天空の城ラピュタ」・「もののけ姫」・「紅の豚」には無声のシーンがありましたが、そういうシーンがあるからこそ、置かれている状況を想像したり、相手の心理を考察したりできるので、視聴者にとって強く印象に残るのでしょう。現代の作品では、BGMをガンガン流したり、セリフで沢山想いを語ったりする物が多いですが、それらはある意味「表現過多」なのかもしれません。

 ちなみに、女優オードリー・ヘップバーンも、若い頃レジスタンスで活動した経歴があります。彼女の出演作品はこれまでも観ていますが、経歴については知らないことが多いので、調べてみようと思いました。

3. 作中の人物像のリアリティの高さ

 本作品では、実在と架空の人物や出来事が入り混じっています。例えば、マルセルは実在したパントマイマーのマルセル・マルソーをモデルに描いており、マルセルの家族やバルビーも実在した人物ですが、エマ・ミラ・エルスベートは架空の人物です。また、バルビーとマルセルが実際に遭遇したことはないそうです。でも、それを感じさせないくらいのリアリティがありました。本作品に限らず、ノンフィクションとして「史実をモデルにしている」作品は多いですが、その全てが「真実」ということは基本的には無いです。しかし、たとえ架空の人物や出来事であっても、如何に「実在しているように」描けるかが作り手の見せ所ではないかと思いました。
 さらに、作り手に、「当事者意識があるか・対象としたものへの配慮やリスペクトを持ち合わせているかどうか」は大事だと思います。本作品なら、ユダヤ人・差別・迫害と言ったセンシティブなテーマに対してですね。勿論、「配慮してほしい、傷つけないでほしい」は、ある意味受け手である読者や視聴者のエゴなので、それを作り手に求めるのは「求めすぎ」なのかもしれないです。それでも、作り手と受け手の齟齬を出来るだけ小さくできるような「工夫」は必要ではないかとも思ってしまうのです。実際、どうしても両者の差が生じることは避けられませんが、これを「意識」して、出来るだけ埋められるかどうかは、作り手の技量が試されるところだと思います。
 実際、「長く愛される作品」って、「この両者の差が狭いもの、または受け入れられる表面積が広いもの」だと思います。特に、後者の「表面積を広くする」ことは、本当に骨の折れる作業だと思います。例えば、「取材をする・討論を重ねて矛盾点をなくす・受け手に配慮する・作品が世の中に与える影響について熟考する」など。でも、一読者や視聴者として、こういう作品に出会えることを常に望んでいます。

 ちなみに、エマ役のクレマンス・ポエジーは、「ハリーポッター」シリーズにて、フラー・デラクール役を演じていました。彼女の大人びた姿と壮絶な演技を見て、良い意味で同一人物には見えませんでした。本当に役者の演技の巧さ・幅広さに驚きました。

 最後に、本作品でユダヤ人の子供達を演じた子役は、ホロコーストで生き延びたユダヤ人達の子孫だそうです。残酷な目に遭った先祖の役を演じることは、彼らにとっては私達には計り知れないほど辛いはずです。しかし、そんな彼らの純粋で迫真に迫る演技には胸を打たれました。
 また、民族問題は、現代でも続いています。例えば、アフガニスタンの内戦・イラク戦争・ミャンマーのロヒンギャ族の迫害・パラリンピックの戦争傷病者の選手と重ねてしまう部分があり、まだまだ世界中には沢山の差別や迫害が起こっていることを痛感させられました。そういう意味で、本作品からは、描かれたことを「過去の出来事」として流すのではなく、「現代社会の問題」として捉えてほしい、という熱意を感じました。

 本作品はミニシアター系列の作品のせいか、劇場数が少なく、このご時世により上映期間も短いのが残念ですが、興味がある方は是非御覧になると良いと思います。

出典: 「沈黙のレジスタンス」映画パンフレット
   NPO法人ホロコースト教育資料センターhttps://www.npokokoro.com/

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