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映画「リトル・ガール」感想

 一言で、一人のトランスジェンダーの少女とその家族が社会の壁を乗り越えようとする姿に感銘を受けます。でも、同時にこれは「全て」ではない、その為の思考を止めてはいけません。

本作の評価: 「B」

※ここからは本編のネタバレなので、未視聴の方は閲覧注意です。尚、本作は、センシティブなテーマであること、またその扱い方に対する意見を含みますので、読みたくない方はブラウザバックを勧めます。

 本作は、フランス北部エーヌ県在住のトランスジェンダーの7歳の少女サシャとその家族を取材したフランスのドキュメンタリー映画です。彼女は、見た目は女の子の要素が強いですが、身体は「男性」、心は「女性」です。2歳を過ぎた頃から、自分の「性別違和」に気づき、自分は「女の子」であると、訴えてきました。とても可愛いらしく、バレエと可愛い服、バービー人形が好きな子です。しかし、学校へスカートを履いて登校することは認められず、バレエ教室でも男子の衣装を着させられます。さらに、男子からは「女っぽい」と疎外され、女子からは「男のくせに」と言われ、社会は彼女を他の子供と同じように扱いません。

 トランスジェンダーのアイデンティティーは肉体が成長する思春期ではなく、幼少期で既に自覚される場合が多いそうです。※尚、性別違和に気づく時期は人によって様々であり、はっきりとは断定できません。思春期以降になって初めてというケースもあるようです。
 本作を制作したセバスチャン・リフシッツ監督は、このテーマについて取材を始めた頃、サシャの母親カリーヌに出会いました。カリーヌは、娘への気持ちや、娘に対する周囲の無理解についてとても疲弊していましたが、パリの病院に勤務する小児精神科医のバルジアキ先生と出会ったことで、それまでの不安や罪悪感から解き放たれます。そして、他の子供と同様に、サシャが送るべき幸せな子供時代を過ごせるよう、彼女の個性を受け入れさせるために、学校や周囲に働きかけるのです。

1. サシャが抱える辛さが克明に伝わってくるし、治療は極めて「繊細」である。

 本作を鑑賞して、一人一人も、社会も、トランスジェンダーについて全然「理解」出来ていないことを認識させられます。私も、本作を観るまでは、「性別違和」が幼少期から起こっていることは全く知りませんでした。近年は、「トランスジェンダー」をテーマにした作品やキャラクターが増え、また「トランスジェンダー役」は「トランスジェンダーの俳優が演じるべきか否か」論など、本テーマがメディアに取り上げられる機会が増えてきました。しかし、それでも「当事者について理解がある」とは到底言えない環境です。

 本作を観て感じたのは、「サシャはとにかく周りに気を遣う子」ということです。家族にも、学校やバレエ教室の先生にも、バルジアキ先生の前でも、彼女はあまり感情を面に出しません。優しく大人しい性格で、嫌な事があっても「言い出せない・やり返せない」のです。サシャがこうなったのは出生前の自分の思い込みのせいではないか、と悩む母にも、「ママも疲れているでしょ」と気を遣います。しかし、バルジアキ先生のカウンセリングで、学校では先生とも、クラスメイトとも上手くいかない、バレエのレッスンでも先生から良く思われず、女子の衣装を着られないといったSOSを伝えたときに、彼女は静かに泣いていました。こんな幼い子が、自分のアイデンティティーをありのままに主張できないことや、転校したくない、同年代の友達に「女の子」して見てほしい、と静かに訴える姿に胸が痛くなりました。この頃から、彼女と家族の前には社会の大きな壁が立ちはだかっていることに強い衝撃を受けました。
 それにしても、学校側の無理解はあまりにも酷いです。服装・トイレなど、学校と擦り合わせていくべき事項は沢山あるはずなのに、校長も担任も、話し合いにすら来ませんでした。学校側は、あたかもサシャが「異常」であるかのように指摘し、「医師の証明があれば考えます」などと終始上から目線なのに腹が立ちました。本当に、「大人は子供を守る、子供は大人の背中を見て育つ」といった倫理観が欠如しており、地位や保身のことしか考えていないのがよく伝わってきます。つまり、日本でも海外でも、トランスジェンダーに関する認識や政策はまだまだ遅れていますし、「都合の悪いことは隠そうとする」ような隠蔽体質は根深いのです。※勿論、本当に生徒のことを考えていて、理解しようとする先生もいらっしゃいます。でもまだまだ「サラリーマン教師」のような先生も多いのだと痛感します。

 一方で、バルジアキ先生は、サシャや家族とのカウンセリングでは、無理に言葉を引き出そうとはしませんし、治療を押し付けることもしません。あくまでも彼女や家族が話すことを聞き、今後どうするか決めてもらうのです。例えば母が「学校に手紙を書いてほしい」と言ったときにはそれに応じましたが、ホルモン治療については「幾つか症例を出しながら提案し、それを踏まえて彼らに決めてもらう」スタンスを貫いていました。
 それにしても、この年から本人の前でホルモン治療の話をしていることには驚きます。私は医療知識が全く無いので、知らないことだらけでした。その治療も繊細で、二次性徴をどこまで「伸ばすかor抑えるか」、彼女が「男性」として生きていくのか、それとも「女性」として生きていくのか、それによってかなり違ってくるようです。そして、もしそのタイミングを「誤れば」、望んだ人生を送れない可能性が出てくるとのことです。恋愛について、子供について(実子・養子どちらも) もハードルが高い、時には諦めなければならない選択肢もある、それでも生きていくには選択を決めなければならない、と腹を括る姿は、生きていくためには強くあらねばと感じるけど、ある意味「正解」なんて無いんじゃないか、と上手く言葉にすることが出来ませんでした。※恐らく、サシャの体は「男性」なので、実子を持つには「男性」として生きることを選択するのだと思います。しかし、サシャは「子供を産むこと」は出来ないと説明されていたので、「女性」として生きることを選択した場合は、子供を持たないor養子を受け入れることになるのでしょう。つまり、恋愛にも結婚にもハードルが高いのです。

2. 女の子として過ごせる嬉しさ〜変わるべきは彼らではなく、環境である。

 本作を観て感じたのは、「家族がとても仲が良い」ということです。父母姉兄弟は心強く、皆サシャにとっては戦友のような存在です。
 サシャは、カウンセリングを経る毎に、笑顔になり、髪が伸びていきました。家族旅行でも、ワンピースやビキニを着ていました。中盤で、サシャには「女の子」として認めてくれる友達が数人できました。子供は「残酷な」一面はあるけど、その反面「受容」も早いのかもしれません。終盤、彼女は家にあった男の子用の服(特に青い服)を処分します。これは、彼女なりに社会と「闘う」決意なのかもしれません。
 母は序盤では悲しみにくれており、時々怒りも混ざっていましたが、カウンセリングを経る度に、表情が穏やかに変化していきました。それでも、「この世界で生きるには優しさだけじゃ足りない、サシャも私も一生闘い続けるわ」と強い意志を示しました。
 父の見方は、母とはまた違ったものですが、「娘は『見せ物』じゃない。『女の子』として生きることは当然の権利だ。いつだって平穏な暮らしを望んでいる」と終始毅然とした対応をしていました。
 姉兄は、サシャにとっての良き遊び相手であり、相談相手でもあります。彼らは両親・サシャと共にカウンセリングへ同席します。私達はサシャの「お手本・心の支えでいたい」と言い、サシャには「黙ってたら何も変わらない、声を上げる勇気を持たないといけないよ」と伝えます。
 今はかなり幼い弟も、成長するにつれ、サシャの「状況」がわかってくるかもしれません。その時彼が何を思うのか、姉と上手く関係を築いてほしいです。

 尚、ポスターのピンクの蝶々の衣装は、ラストシーンでサシャが踊ってたものです。この子がこのまま「踊れる」世界になってほしい、でもただ「なってほしい」と願うのではなく、今いる人々でそういう世界にしていく必要がある、正に、「変わるべきは彼らではなく、環境である」のだと感じます。

3. しかし、これを観て「全てをわかった」気になってはいけない。

 ここまでは、私が本作を観て良かったことを書きました。しかし、本作で描かれた「トランスジェンダー」の話は、ほんの一部に過ぎず、これを観て「全てをわかった」気になってはいけない、と戒めの意味も込められていると思いました。

 まず、トランスジェンダーの定義は広く、「不確定」な部分が大きいです。それに「性的嗜好」や「恋愛観」が複雑に絡み合うので、現時点で、「こう」と断言することは極めて危険です。
 また、本作の主人公は未成年の幼い子供でした。本作に出演したことで、彼女に「トランスジェンダー女性」という見方が生まれてしまうことへの危惧もあります。彼女が成長したときに、本作に出演したことをどう思うのか、彼女や家族が「危険」に晒されないとも言い切れません。現代は「公言」することは「ありのままに生きること、素晴らしいこと」とされがちですが、これって必ずしも「プラス」なことだけではない、それによって傷つく人がいることを忘れてはいけないと思います。例えば、本作で登場したのは仲の良い家族でした。しかし、皆が必ずしもそうじゃない、たとえ「公言」したとしても、家族や周囲に受け入れてもらえず、辛い思いをしている人もいます。
 そして、ドキュメンタリー作品のように、限りなくリアルに近づけていても、全てがリアルではありません。カメラの前で映像は「切り取られ」、必ず「編集作業」があるのです。つまり、監督が見せたいところとそうでないところがあり、そこには監督を始め、制作陣の「意図」が存在するのです。勿論、それによって「感動」することは、悪いことではないですし、考えさせられる内容でもあります。しかし、それはサシャの人生を多くの人々の前に「晒した」ことと引き換えでもある、だからこそそのまま感動や悲しい題材として「消費」するものであってはならないです。※これらについては、映画「ミッドナイトスワン」でも同様の指摘がありました。

 尚、本作の上映時間は85分と観やすいので、お子様と鑑賞する、また学校教材としても取り上げやすい作品だと思います。「こうすべき、こうでないといけない」といった押し付けがましい内容ではなく、私達が本テーマについて考える手がかりをそっと差し出すような内容なので、不快感はありませんでした。

 敢えて言うとすれば、映画の構成としては「しっくりこない」部分はあります。まず、ドキュメンタリー映画の中でも、展開は淡々としており、ストーリー性はそこまで強くはありません。また、飽くまでも、サシャや家族の視点にフォーカスして描かれているため、彼らと対峙している学校側の描写は全く無いです。そのため、「結果はどうなったのか」は、ハッキリと説明されない場面が多いので、そこは視聴者が推測する必要があるでしょう。

 それでも、私にとっては観て良かった作品でした。今後は、本テーマのようなセンシティブな題材を扱う作品は増えると思います。そこで「わかる、学ぶ」ことは多いと思います。しかし、そこにはスポットが「当たっていない」部分は必ずあるし、発表された内容が「全て」ではないです。だからこそ、個人の意識も社会の体制や政策も、「変わっていく」必要がある、そのためには「思考を止めてはいけない」と考えさせられました。

出典: 「リトル・ガール」パンフレット

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