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映画「あの夏のルカ」感想

 一言で、一夏の出会いを通して、人間活動が海に与える影響・子供の自立・少数派の描き方や差別とは・伝説と真実の違いについて考えさせられた王道冒険映画です。ある種の既視感はありますが、元ネタを思い出しながら観ると、もっと楽しめます。

 本作品の制作指揮を取ったのは、イタリア出身のエンリコ・カサローザ監督です。彼は元々宮崎駿監督作品の大ファンで、本作品は、「紅の豚」に感銘を受けて製作したそうです。実際、登場する町の名前が「ポルトロッソ」で、「紅の豚」の主人公ポルコ・ロッソから取っています。

 作風は、「紅の豚」・「崖の上のポニョ」・「リトル・マーメイド」・「モアナと伝説の海」・「あまちゃん」・「夜明け告げるルーの歌」などに似ていて、海との関わりが強い作品だと感じました。また、配色は青や緑のビビットカラーが強めでした。「2分の1の魔法」と同じく、寒色系の色をキャラデザに使うのは勇気があるなと思いましたが、観ているうちに気にならなくなりました。さらに、セリフはイタリア語と英語が混ざっているので、全体的に早口に聞こえました。字幕版だと台詞を聞き取るのが大変だったので、何度も巻き戻して確認しました。これが出来るのは配信ならではですね。ただ、やはり映像や音楽は大きなスクリーンで体感したいので、(今はこのご時世なので難しいものの)、PIXAR作品を再度スクリーンで観れる日が来てほしいです。

 本作品舞台となった港町ポルトロッソは、イタリア北西部の主要都市ジェノヴァ近郊にあるイタリアン・リヴィエラという町がモデルです。(出典: https://news.yahoo.co.jp/byline/kiyotohideto/20210617-00243289/)
 ここは、とても綺麗な港町で、写真では海が透き通って見えます。以前、東芝レグザのCMで福山雅治さんが出演した「船が浮かんで見える海」のようでした。※此方はイタリア南部にあるシチリア島沿岸のファヴィニャーナ島での撮影なので、本作品の舞台となった町とは異なります。

 本作品でも、海水や植物など、CGの自然表現が凄く、リアリティの高い描写となっていました。しかし、カサローザ監督によると、「敢えてリアルな水は表現していない」とのことでした。監督は、水の表現について「この作品は、子供たちが新しいことを初体験する物語なので。水も波も、感情を支える。だから僕たちは水をもっとコントロールし、最も感情が伝わるようにし、ちょっとだけリアリティが少なく感じるように仕上げました」と仰っています。「敢えて」の水の表現こそが、主人公ルカと親友アルベルトの自分自身が変わるきっかけとなった人生を変えるような友情を描いたストーリーにとって、重要な役割を担っているそうです。(出典:アニメ!アニメ!より。https://animeanime.jp/article/2021/06/20/62029.html)

 ここからはあらすじです。※ネタバレを含みますので、未視聴の方はご注意ください。
 冒頭、夜に漁師が蓄音機でオペラ曲をかけながら漁をしています。曲名は、歌劇「ジャンニ・スキッキ」(Gianni Schicchi)の劇中歌「私のお父さん(O mio babbino caro)」です。(丁度、朝の連続テレビ小説「エール」で柴咲コウさん演じる双浦環が歌っていた曲なので、強く印象に残っていました。)
 そこに突然、網に大きな「獲物」が引っかかります。その正体はシー・モンスターで、陸の人々には恐れられた存在でした。激しい格闘の末、船は間一髪のところで沈没を免れましたが、「獲物」は逃げてしまい、また蓄音機やその他の諸々の備品は海に沈んでしまいました。

 場面が変わって、海中のシーン。冒頭のシー・モンスターの名前はルカ、人間に換算すると10歳前後の少年で、半魚人のような見た目です。彼は両親(父:ロレンツォ・母:ダニエラ)と祖母の4人で暮らしていました。普段は魚を沢山飼っており、ジュゼッペなど、1匹1匹に名前をつけて、可愛がっていました。
 ある日、ルカがいつも通り家の外に出ると、船から落ちてきた「陸の世界」の物が辺り一面に散らばっていました。彼にとってはどれも初めて見るもので、目覚まし時計の音にビックリし、タロットカード?トランプ?を拾います。
 陸から来た物に興味津々のルカですが、両親(特に母親)は、ルカに「船は『陸のモンスター』、外は危険がいっぱいだから、出てはいけない」と言い聞かせていました。水に浮かぶ船ですが、陸からやって来るからか、「陸のモンスター」と表現したのは面白かったです。

 ルカがスパナと蓄音機を拾ったとき、「潜水服を着た素潜り漁師」に出会ってしまいます。その正体は、人間に変装したシー・モンスターの少年、アルベルトでした。彼は、何の抵抗もなく陸に上がると、突如「陸に住む人間」に変身していました。また、海水を浴びると元のシー・モンスターに戻りました。どうやらこの世界では、シー・モンスターは、陸に上がると「人間」になり、水(海水・淡水関係なく)に触れると「シー・モンスター」になるようです。
 アルベルトは陸で生活していることを知り、ルカは陸への興味が抑えられません。そこで翌日、家族には内緒で陸に行くことにしました。アルベルトは陸で父と暮らしているようで、時々海に落ちてくる人間の道具を頂戴して暮らしていました。中でも、彼は「Vespa(ヴェスパ)」、とりわけ「シニョール・ヴェスパ」に強い関心を抱いています。それは、イタリアのスクーターのことで、女優のオードリー・ヘップバーンが「ローマの休日」で乗っていたものでした。※ヴェスパとは、イタリア語で「スズメバチ」という意味で、独特のエンジン音が蜂の羽音に似ていることが名前の由来になりました。
 アルベルトはルカに、ヴェスパは「行きたい場所をイメージすればどこにでも行ける道具」だと説明し、いつか手に入れて、人間が住む陸の町へ行きたいと話します。そこで、2人は即席でヴェスパを制作し、崖から2ケツで走って飛び込みの遊びに夢中になり、すっかり仲良しになりました。このシーンは、まるで「魔女の宅急便」でキキとトンボが2ケツで走るシーンのようでした。アルベルトは、自分には「ブルーノ」というイマジナリー・フレンズがいると話し、それは「ネガティブな心の声」だと言います。彼はそれを克服したいようです。長年、父以外のシー・モンスターを知らなかったアルベルトには、いつの間にかイマジナリー・フレンズが出来ていたのかもしれません。

 日が沈み、夜空を見上げる2人。アルベルトは、星がイワシ、月が大きな魚だと話します。向日葵畑をベスパで2ケツする2人、空へ飛んだら本当にイワシの星と大きな月の魚がいました。ルカが月の魚に手を伸ばして触ったら、何故かそれが溶けて、アルベルトが消え、ルカもシー・モンスターに戻ってしまいました。これは夢オチですが、後の展開の「伏線」だったのかなと思いました。

 夜中に家に戻ったルカですが、言いつけを破って陸に行ったことで両親はカンカンに怒っており、父の兄ウーゴ(ルカの伯父)のもとへ連れて行くと言いますが、ルカはそれを拒否します。伯父は深海に生息するシー・モンスターで、クジラの死骸が大好物です。
 このままでは両親がアルベルトの家を見つけてしまう、自由になりたい!と考え、2人で陸に逃げました。辿り着いた港町ポルトロッソの街並みは「紅の豚」や「ジョジョの奇妙な冒険 第5部『黄金の風』」のようで、町には至る所に「ローマの休日」のポスターが貼ってあります。こういう細かい描写は、流石PIXAR作品です。この町には、何故か魚を退治する絵や噴水の像があり、ルカは恐怖感を覚えます。

 2人は早速シニョール・ヴェスパを発見しますが、それはいじめっ子の少年エルコレ・ヴィスコンティの物でした。彼は取り巻き2人(チッチョ(ぽっちゃり)・グイド(痩せ))を従え、自分のパシリとして扱っていました。偶然ルカが蹴ったボールがシニョール・ヴェスパに当たり、エルコレの怒りを買ってしまいます。罰として噴水の水に顔をつけられそうになり、正体が一瞬バレてしまいます?が、危機一髪で魚売りの女の子(ジュリア)に助けられました。ジュリアは、赤毛でおしゃべり、汗っかきな女の子で、父マッシモと暮らし、漁と魚売りで生計を立てています。
 彼女曰く、この町では、毎年ポルトロッソカップ(子供のトライアスロン大会)が夏に開催されます。彼女は毎年レースに出場していますが、とある理由で完走できていません。
 一方、警察がシーモンスターの目撃談を探していることを知っているエルコレは、レースの賞金欲しさに2人の正体を暴いて、警察に突き出そうと画策します。

 優勝してヴェスパを手に入れたいルカ・アルベルトと、優勝してエルコレをギャフンと言わせたいジュリアは、3人でチームを組んで大会に出場しようとします。担当を決め、ルカは自転車、アルベルトはパスタ食い、ジュリアは水泳を特訓します。どうやら、このポルトロッソカップは、長距離走の代わりにパスタ食いがあるようです。
 ジュリアの家でマッシモに会う2人、彼は右腕を欠損していました。新聞のシーモンスター探しの記事を見ており、漁師をしながらシー・モンスターのハンターも兼任しています。それを知った2人は慌てますが、飼い猫(マキャヴェリ)にはどうも「バレて」いるようです。この猫のデザインは、「猫の恩返し」のムタみたいで、可愛いかったです。
 マッシモが調理したバジルのトレネッテは美味しそうで、まるでジェノベーゼのようでした。2人はフォークの使い方を知らず、手掴みで食べてしまったことで、速攻父親に疑われます。実は、ジュリアの家は大変貧しく、今のままではポルトロッソカップに出場するお金は出せず、進学も諦めていました。それでも何とかして出場したい3人に、マッシモは「働かざる者食うべからず、出場したいなら働いてお金を稼ぐこと」を条件にそれを許します。
 翌日、ジュリアはいつも通り魚を売りに、2人はマッシモ・マキャヴェリと一緒に漁に行きました。実は、父親の右腕はシー・モンスターに食われたのではなく、生まれつきの欠損でした。マキャヴェリは魚で手懐け、魚の群れの動きに詳しいアルベルトのおかげでその日は大漁でした。ジュリアのリヤカー自転車の止め方がまるで「AKIRAのバイク停車シーン」のまんまなのは笑いました。

 パスタ屋を経営するマルシリエーセ(レースのスポンサーの女性)の下に、出場エントリーする3人ですが、そこにエルコレと取り巻きもやってきました。実は彼は年齢オーバーなのに、サバを読んで出場するつもりです。

 ある日、ジュリアは水泳の特訓をしますが、実は彼女はカナヅチで、2人は今まで彼女がを完走出来なかった理由を知ります。そこに、エルコレ達が煽り操船して嫌がらせをし、何としても2人の正体を暴こうとしましたが、3人の機転で失敗に終わります。

 一方、ルカが行方不明になり、心配した両親は上陸し、人間の姿になって、彼を探します。両親が広場でボールを蹴り返すシーンは、冒頭の2人のオマージュですね。子供達の顔を水につけてシーモンスターか人間かを見分けようとしますが、いずれも人間の子供でした。お母さん何気にサッカー上手いけどガサツです…せめて子供達には謝ってほしいですが、そういうことは皆気にしない人柄なのでしょうか?
 ルカは、両親が探しに来ていることに気がつきますが、知らないふりをします。夜、ルカとジュリアは2人っきりで話します。ジュリアはジェノヴァ出身だが、母を亡くして父と2人暮らしになりました。彼女も自分がここではよそ者扱い、ポルトロッソカップで優勝したら何がしたいか、ルカは「自由になってアルベルトと魚の星を見たい」、ジュリアは「エルコレに一泡吹かせたい」と話します。

 ジュリアはルカに望遠鏡で星を見せます。「星は魚ではなく、火の塊」とルカに教えるジュリア、ルカは、土星の軌道を走ったり、ハンググライダーで空を飛んだり、ピノキオの絵本を読んだり、いろんなことを夢想します。ピノキオの絵本にマキャヴェリが登場したのは可愛いです。また、空を飛ぶシーンは「風の谷のナウシカ」・「魔女の宅急便」・「紅の豚」・「風立ちぬ」を彷彿をとさせます。
 さらに、ルカは図鑑で天文を知り、伝説と現実の違いに驚きます。アルベルトの信じているものは「間違っている」のではないか?

 翌日、アルベルトはジュリアと仲良く図鑑を読むルカを見て、嫌な顔をします。陸の知識を得たいルカと、海で自由に暮らしたいアルベルトの間には知らないうちに亀裂が入っていました。遂に、ルカの両親に見つかってしまい、逃げる道中、アルベルトは、自分から離れていくルカを陥れようと、ジュリアに自らシー・モンスターであると明かしてしまいます。当然ジュリアには怖がられ、ルカはショックのあまりアルベルトを拒否します。そこにエルコレ達が襲ってきたので、アルベルトは海へ逃げざるをえなくなってしまいました。
 ルカも程なくして正体がバレ、ジュリアの家を出ていきます。アルベルトの家に戻ったルカは、壁に刻まれた数字から、アルベルトの父は長い間戻ってこないことを知ります、ルカはアルベルトに町へ戻ろうと伝えますが、アルベルトはそれを拒否します。ルカは、「君は僕の友人、ヴェスパを手に入れたら、君と世界を巡りたい」ことを伝え、町へ戻ります。
 果たしてルカはアルベルトと再会できるのか?ジュリアとは仲直りできたのか?ポルトロッソカップの勝敗の行方は?

 ここからは感想です。まず、「人間活動が海に与える影響」について考えました。冒頭のルカが海中に落ちてきた人間の物を拾ったシーンで、私は人間が海に「捨てた」物の行方を考えていました。(この「捨てた」という表現は、意図的に「捨てた」場合と、事故や震災などで、突如海に「流されてしまった」場合、両方を含みます。) 
 元々、大学で海洋学を専攻していたこともあり、学生時代には、海面や海中を漂流するマイクロプラスチックを数える仕事をしていました。また、人間が海に落とした物を海洋生物が「利用」しているという話はよく聞いていました。それらをうまく生物達が利用できていれば良いのですが、中には環境に悪い物も沢山あり、それによって死んでしまう個体や種もいます。人間が海に物を捨てるということはどういうことなのか、人間活動で海に流れ出た物がどうなっていくのか、人間と海との関わりについて、とても考えさせられました。

 次に、「子供の自立」についてです。「外は危険がいっぱいだから、出てはいけない」、というのは、DisneyやPIXAR作品でよくある話のパターンですね。親は子供を危険から守りたい本心から来る言葉で、決して間違ってはいないのですが、子供にとっては冒険心ひいては自立を妨げる言葉でもあります。同じ言葉でも、発信者と受信者では意味が異なってくる、大人が子供に向ける愛情が確かなものでも、子供がどう受け取るかはわからないものだな、と感じました。しかし、同時にいつの時代も親が子供の安全を重んじる姿勢は変わらないという「普遍的な言葉」ではあるのかもしれません。本作品でも、ルカの両親や祖母、ジュリアの父親など、大人のキャラがブレてないので、安心して観ることができました。子供はいつか自立していく、その時に親ができることは何か問いかけられましたね。
 最も、「心の声に従う」、「一緒に過ごすこと≠めでたしめでたし」、「自分の自立の道を探す」はDisney・PIXAR作品の最近の流れかなと思います。

 また、「マイノリティ(少数派)の存在の描き方」や「差別」については、事例としては過去作より踏み込んでいるものの、それらが実際「差別」にまで発展してしまった理由については謎でした。前者は、陸の人間ではないシー・モンスター、地元民ではないよそ者・片親家庭・身体障害・「特殊環境」で過ごす者、と事例のバリエーションは増えていて、過去作と比較すると、よく作り込んでいると感じました。一方で、後者の一つである、「なぜ人間とシー・モンスターの間に大きな溝があり、お互いを『差別』する意識が生まれてしまったのか?」までは詳しく語られていなかったので、ここはもう少し掘り下げても良かったのではないか、と思います。もしかしたら、アルベルトの父親も、両者の超えられない溝に悩み、シー・モンスターとして生きることをやめてしまったのかもしれません。ただ、ルカの祖母や老女2人のように、シー・モンスターでも、人間として町に来ている者がいることを考えると、彼らの中には陸の世界をタブー視しない者もいるのかもしれません。

 多数派と異なる特徴を持つ者は、どうしても「目立ちやすい」。そこに、「相手を知ろう」という気持ちがないと、相手を下げて見てしまい、引いてはそれが「差別」に繋がる。
相手を知る方法は、言語や文化(文字・文献・芸術・生活様式)など、様々な手段がある。現代では、SNSやYouTubeのような世界的に発信する媒体が発達しているので、知りたいことは自発的に知ることができます。※勿論、それらの信憑性を問う力は必要です。
 そして、「相手のことを知りたかったら、まず自己開示しよう」ここは、「ラーヤと龍の王国」でも受け取ったメッセージです。※最も、差別の要因は複雑に絡み合っているので、単純に「相手を知れば受け入れられる」ものではないことは重々承知しております。 
 ダニエラの「今日のあの子は立派だったけど、ここにおいては置けない」、祖母の「あの子を受け入れない者はいる。でも、あの子はもう仲間を見つけたようだ」は刺さる言葉です。「全員に好かれることはないし、好かれる必要はない」、この言葉は今の私達に通じるものがあります。今回は、「シー・モンスターを捕獲する」ことは一先ず止めたかもしれないです。でも、これは一時的なもので、「完全に和解・仲良し」になった訳ではありません。例え、マッシモが2人を受け入れたからといって、皆が「シー・モンスターを受け入れる」ことに納得している訳ではないことはわかります。最初は、「物語の展開としてはやや強引では?」と思っていましたが、そこについては、その後のルカの祖母の言葉が裏付けているのではないかと思います。
 ラストのウーゴ伯父さんの深海シンプルライフ講座には笑いが溢れました。「深海」をネガティブな世界と否定しないのは良いですね。最後の小魚はもしかして「ジュゼッペ」でしょうか?小魚が深海に紛れ込むエピソードは、「ファインディング・ニモ」のオマージュのようです。

 さらに、「伝説と真実の違い」については、物語中盤のジュリアがルカに望遠鏡で星を見せ「星は魚ではなく、火の塊」と理解する、さらにルカは図鑑で天文を知り、この地球は丸く、太陽の周りを回っていることを知ったシーンで感じました。
 前述より、ルカが観た夢では、輝く月の魚に触れたらそれが溶けて、アルベルトが消え、自分はシー・モンスターに戻っていました。これは、自分が信じていたものが「真実ではない」、それによって今まで心の拠り所としていたアルベルトを「失い」、自分のアイデンティティ(シー・モンスター)に再度向き合うタイミングが来ることの暗示だったと思います。
 ルカは、アルベルトの信じているものは「間違っている」のではないか?と疑問に感じていましたが、最終的にはアルベルトの「世界」も受容します。伝説は伝説で、確かに科学的に証明されていること(真実)とは異なりますが、どちらも「正誤で語れるものではない」とも思うのです。宗教も学問も、例え真実と異なっていても、否定されるものではない。実際、地動説を唱えたイタリア出身の天文学者、ガリレオ・ガリレイもこんな気持ちだったのでしょうか?彼も生きている間は地動説は「間違っている」と言われていたので。
 勿論、今でも科学的根拠だけでは説明のつかない事例は沢山あります。例えば「あの世」の存在や「夢」や「占い」なといったオカルトやスピリチュアルの世界など。
 実際、過去の「真実」も、長い年月を経ると、直接知っている者がいなくなるため、内容はいくらでも「改変」することは可能だと思います。例えば、「歴史は勝者が作るもの」という言葉がありますが、現代に生きる私達が知っている「歴史」や「真実」は、果たして、本当なのでしょうか?よく考えてみると、これらは一方的な見方であることが多いと思います。勿論、その内容は否定されるものではないですが、「語られていないこと」こそ、実は目を向ける必要があるのかもしれません。

 最後に、本作品を観たら、すごくイタリアに行きたくなりました。ジョジョ5部イタリアツアーには行けなかったので、CORONAが収束したら行きたいです!

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